第3話:匂いがする
雪の朝は、匂いが薄い。
空気が冷えると香りは立たなくなる。王都にいた頃、冬の朝だけは湯の温度を二度上げていた。ここは王都より寒い。とすると、四度。いや、五度。
私は火にかけた鍋を見ながら、そんなことを考えていた。考えている間だけ、昨日の言葉を思い出さずに済んだ。
——三年、何も感じない。味も、匂いもだ。それでいい。
戸を叩く音がした。
「ユーフェミア様。閣下が街の見回りに出られます。ここは道の途中ですので」
グレーテだった。彼女は「寄る」とは言わなかった。「道の途中」と言った。それが、この土地の人の親切の形なのだと、私は十日かけて少しだけ分かってきていた。
「何時ごろでしょう」
「一刻ののちに」
「では、お出しできます」
グレーテが、初めてわずかに顔をこわばらせた。
「ユーフェミア様。差し出がましいようですが」
「はい」
「閣下は、召し上がりません。三年、どなたのものも」
「存じております」
「三年のあいだに、七人おりました」
グレーテはそこで一度、言葉を切った。
「お医者様が六人。それに、王都から来た『名医』がひとり。みなさま最初は自信がおありでした。最後はみなさま、閣下のせいにしてお帰りになりました」
「治らないのは、閣下のお気持ちの問題だと」
「そう仰った方もおいでです」
私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から立ち始めている。まだ早い。
「グレーテさん。私は治しに来たのではありません」
「では」
「今日の分をお出ししに来ました。それだけです」
グレーテは何か言いかけて、やめた。しばらく黙ってから、彼女は思いがけないことを口にした。
「三年前に、何が」
私が聞こうとしていたことを、彼女のほうが先に言った。いや、違う。彼女は自分に問い直したのだ。
「毒です」
そう言って、グレーテは戸を閉めた。雪を踏む音が遠ざかっていった。
一杯目は、失敗した。
私は最初、濃く淹れた。感覚が鈍っている人には強い刺激を——というのは、王都で医師がよく言うことで、私も自然にそう考えていた。渋みを立て、香りを厚くし、これ以上ないというところまで持っていった。
レオハルト様は、それを飲んだ。
飲んで、器を置いて、こう仰った。
「湯だな」
「……はい」
「悪くはない」
悪くはない。彼は嘘をつかない人らしかった。まずいとも言わないし、美味いとも言わない。彼にとってそれは本当に、ただの湯だった。
「怒らんのだな」
「なぜでしょう」
「たいてい怒る。あるいは泣く。次はきっと、と言う」
「次はきっと、とは申しません」
私は器を下げた。
「今のは私の失敗です。閣下のせいではありません」
彼は少しのあいだ、私を見ていた。外套も脱がず、卓の前に座って、この時間が終わるのを待っている座り方のままで。
「失敗と分かるのか」
「はい。理由も分かりました」
私は器を下げながら、彼の喉を見ていた。
飲み込むとき、この人は喉を大きく使う。息を止めていない。——それで、私はようやく気がついた。
「閣下。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「香りというものは、二つの道から来ます」
私は自分の鼻先を指した。
「ひとつは、こちら。外から吸い込む道です。花に鼻を近づけたときの匂い」
それから、喉を指した。
「もうひとつは、こちらです。飲み込んだあとに、喉の奥から鼻へ抜けていく道。人はそれを味だと思っていますが、あれの半分以上は匂いです」
レオハルト様が、初めてこちらをまっすぐ見た。
「三年前から、閣下は前の道を失っていらっしゃる。それは分かりました。ですが、後ろの道が同じように潰れているかどうかは——まだ、どなたも確かめていないのでは」
沈黙が長かった。
「……医者は」
「はい」
「鼻を診た。七人とも、鼻を診た」
「喉は」
彼は答えなかった。答えないということが答えだった。
「もし後ろの道が生きているのでしたら」
私は湯を捨てながら言った。
「濃くしてはいけません。厚くしてもいけません。前の道が閉じている方に外から押し込むような香りを出しても、閉じた扉を叩いているだけです」
「逆をやれ、と」
「逆をやります」
必要なのは、飲み込んだあとに立ち上がってくる香りだった。それは湯を熱くしては作れない。熱は香りを先に飛ばしてしまう。八十度、いや、七十八度。北の霧を吸った茶葉なら渋みは出ない。だから薄くしていい。薄いほど、後ろの道は開く。
私は母の帳面をめくった。『北の霧は、渋みを落とす』。母がどこで書いたのかは、まだ分からない。分からないまま、私はその一行の通りに手を動かした。
匙で三度。湯を回し入れて、待つ。
「何をしている」
「待っております」
「どのくらいだ」
「六十ほど数えます。……閣下、数えていらっしゃいますか」
「数えている」
意外だった。この人は、待たされることを嫌う人だと思っていた。薪がひとつ、崩れた。
「どうぞ」
二杯目を出した。
彼は器を持った。持ってから、少しだけ怪訝な顔をした。湯気が薄い。色も薄い。彼が知っている「濃い茶ほど良い」の逆をやっているのだから、当然だった。
「これは、薄すぎるのではないか」
「そうお思いになるはずです。飲んでみてください」
飲んだ。
飲んで、飲み込んで——
止まった。
器を持ったまま、彼は止まった。目が、私を見ていなかった。壁も、床も、見ていなかった。喉の奥の、自分でも場所の分からないところを探している人の顔だった。
「……土の匂いがする」
低い声だった。声がかすれていた。
「雨の、降ったあとの」
私は返事をしなかった。
返事をしたら、この人が今つかまえているものが逃げてしまう気がした。だから私は、ただ立っていた。立っている私の指先が、少し震えていた。
戸口で、グレーテが口を押さえていた。
長いあいだ、彼は器を見ていた。器の中はもう空だった。空の器を、傾けて、底の色を確かめるようなことをしていた。
「消えた」
「はい。すぐに消えます」
「戻るのか」
「戻ります。何度でも」
私は静かに言った。
「ただし、私が淹れたものに限ります。——濃さも、温度も、待つ時間も、全部合わせないと出ませんので」
彼は顔を上げた。
三年ぶんの何かが、そこでようやく、少しだけ動いた気がした。
そして、ゆっくりと、私に向かって器を差し出した。
「もう一杯、頼めるか」
三杯目を淹れているあいだ、彼は一言も喋らなかった。喋らないまま、匙を動かす私の手をずっと見ていた。見られているというより、手順を覚えようとしている目だった。
「閣下」
「なんだ」
「覚えても、出ません」
「……なぜだ」
「私も、なぜかは存じません。ただ、同じようにやって同じように出るのでしたら、七人のお医者様のうち誰かが当てていたはずです」
彼は少し黙ってから、低く息を吐いた。それは笑いに似ていた。
「君は、なぜ北へ来た」
私は湯を回しながら答えた。
「茶なんて、誰が淹れても同じでしょう、と言われましたので」
「そうか」
彼は器を受け取った。
「同じではないな」
三杯目を飲み終えて、彼は立ち上がった。外套の裾から溶けた雪が落ちて、床に小さな染みを作った。
戸口で一度だけ振り返って、彼は言った。
「明日も、道の途中だ」
そうして出ていった。
私はしばらく、空になった器を三つ並べて眺めていた。
——三杯。
三杯ぶんの代金を、私はいくらに決めていただろう。
決めていなかった。この店には値段というものが、まだ一つもなかった。
お読みくださりありがとうございます。
第3話でした。この話を書くために、第1話と第2話があります。
作中でユーフェミアが説明した「二つの道」は、実際にある話です。鼻から吸い込む匂いと、飲み込んだあとに喉から鼻へ抜ける匂いは、通り道が別なんですね。風邪で鼻が詰まると食事の味がしなくなるのは、後ろの道が塞がるからです。
ですので彼女がやったことは、奇跡でも魔法でもありません。七人の医者が全員、鼻しか診なかった、というだけの話です。
——と作者が「これは魔法ではありません」と言い張るとき、たいてい次の回で厄介事が起きます。次回、この茶房には代金というものがありません。ユーフェミアの路銀が尽きます。




