第2話:北へ行く馬車と、荷物ひとつ
アルテンフェルト伯爵家の門は、開かなかった。
正確には、門番が開けてくれなかった。彼は私が三つのときから門にいる人で、名前をエドという。エドは私の顔を見て、それから足元の木箱を見て、最後に自分の靴を見た。
「お嬢様。旦那様が、その」
「存じております」
「……申し訳ございません」
「エド。あなたが謝ることではありません」
私は木箱を持ち直した。持ち直すほど重くはなかった。中身は配合帳が一冊と、匙が三本と、着替えだけだ。
「旦那様は、なんと」
「……その」
「言えないのでしたら結構です」
「王家に恥をかかせた娘は、うちの娘ではない、と」
私はうなずいた。父らしい言い方だった。父は五年前、私が王城に上がる日にも似たようなことを言った。あのときは「うちの娘だ」の側だった。同じ人が、同じ強さで、逆のことを言う。
「北の、ヴァイスバルト領へ参ります」
エドが顔を上げた。
「あんな遠くへ」
「遠いほうがいいのです」
嘘だった。遠いほうがいいのではなくて、遠くしか受け入れ先がなかった。王都から北へ十日。国境の守りに近い、雪の多い土地。私が二つ返事で「行きます」と書いた手紙に、辺境伯家の家令から返事が来るまで、たった四日しかかからなかった。人手が足りていない土地というのは、そういう返事の速さをする。
「お嬢様、あちらで何をなさるので」
「茶を淹れます」
「……お城でなさっていたことを、ですか」
「ええ。同じことを」
エドは何か言おうとして、やめた。それから門の内側から、細く開けた隙間に手を差し入れて、干した葡萄の袋を寄越した。
「道中で。……お嬢様、ひとつだけ」
「はい」
「奥様のこと、諦めなくてよろしゅうございますよ」
私は袋を受け取って、少しだけ笑った。笑えた自分に驚いた。
母イレーネは七年前に消えた。荷物も、書き置きも残さずに。残ったのは配合帳が一冊だけで、それも母の部屋ではなく、王城の調茶室の棚の奥から出てきた。
そのあと二年、王家の茶は誰の仕事でもなかった。厨房の者が順に淹れ、そのたびに替わった。
私が城に上がったのは、十四のときだ。以来、王家の茶を調合するのは私の仕事になった。誰もそれを「継承」とは呼ばなかった。「お茶汲みのお嬢さん」と呼んだだけだ。
馬車は十日かけて、季節をひとつ跨いだ。
王都を出たときは秋だったのに、五日目から雨が雪に変わった。御者は寡黙な人で、最初の三日はほとんど口をきかなかったが、四日目の宿で私が茶を淹れたら、翌朝から話すようになった。
「奥さん、あれは何を入れてるんだね」
「奥さんではありません」
「そりゃ失敬。……で、何を」
「生姜と、あとは葉の配合を変えただけです。冷えている人には、香りを喉の奥に残す淹れ方をします」
「へえ」
御者は手綱を握ったまま、しばらく黙っていた。
「うちのかみさん、冬になると指が痛むんだが」
「でしたら、朝に一杯。熱いものを一気に飲ませないでください。ゆっくり飲めるくらいの温さのほうが効きます」
「熱いほうが効くんじゃないのかい」
「熱いと、みなさん急いで飲むのです。急いで飲むと、温まる前に終わってしまいます」
御者は声を上げて笑った。八日目には「この先は歩くほうが早い場合もある」と真顔で言われたが、それも彼なりの親切だったのだと思う。
車輪の音を聞きながら、私は配合帳をめくっていた。
母の字は、私の字と似ていない。太くて、急いでいて、あちこちに書き足しがある。
『北の霧は、渋みを落とす』
そのページには、それだけ書いてあった。前後の脈絡がない。母の帳面はこういうところがあって、思いついたことをその場に書きつけてしまう。北の霧、と私は口の中で言った。北へ向かう馬車の中で読むには、できすぎた一行だった。
十日目の午後、馬車はヴァイスバルトの街へ入った。
石と木でできた低い街だった。屋根が重い。雪を落とすためだと、あとで知る。人は多くないが、通りには荷を積んだ橇が何台も出ていて、誰も彼も歩くのが速い。王都の人々のように、立ち止まって誰かを眺めるということをしない。
家令のグレーテという女性が、私を街の外れまで案内した。四十がらみの、口数の少ない人だった。
「王都から、おひとりで」
「はい」
「荷は」
「これだけです」
グレーテは木箱を一瞥した。何も言わなかったが、歩く速さを少しだけ落としてくれた。
「お尋ねしても」
「どうぞ」
「王都では、何を」
「茶を淹れておりました」
「どちらで」
「王城で」
グレーテの足が、半歩ぶん乱れた。乱れたのは一度だけで、彼女はそのまま同じ速さに戻った。
「こちらには、そういうものはございません」
「存じております」
「茶葉も、上等なものは年に二度しか入りません」
「では、入らない月のことを考えます」
「こちらです」
木戸の建物だった。長いこと空き家だったのが、外からでも分かる。板の色が抜けて、庇が片方だけ落ちている。
「ここを、私に」
「使えるものは使えと、閣下が」
「閣下」
「ヴァイスバルト辺境伯です。レオハルト様」
「ご挨拶に伺ったほうが」
「向こうから来ます」
グレーテは名前と、その一言だけ言って、それ以上の説明をしなかった。説明しないことに、何か理由がある人の黙り方だった。
私は鍵を受け取って、戸を開けた。
そして、動きを止めた。
匂いがした。
埃と、湿った木と、それから——茶葉の匂いがした。古い。古いが、確かに茶葉だ。しかも一種類ではない。少なくとも三種、いや四種。壁に、床に、染みついている。
「グレーテさん」
「はい」
「ここは、以前は何のお店でしたか」
グレーテは首を振った。
「私が来る前のことです。十年ばかり空いていたはずですが」
「その前は」
「さあ。……なにか、まずいことでも」
「いいえ」
私は膝をついて、床板に鼻を近づけた。埃を吸い込んで少しむせた。それでも分かる。この床に、誰かが長いこと茶葉を広げていた。広げて、選り分けて、配合していた。
——七年前。
そんなはずはない、と自分に言った。北の街の空き家に茶の匂いが残っていたからといって、それが母だという理由にはならない。世の中に茶を扱う人間は何千人といる。
理由にはならない。
ならないのに、私は木箱を開けて、配合帳の該当のページを探していた。『北の霧は、渋みを落とす』。母はこの一行を、どこで書いたのだろう。
外で、雪を踏む音がした。
戸口に立っていたのは、外套の肩に雪を積んだ、背の高い男だった。こちらを見ている。見ているのに、目が合っている感じがしない。何かを見て、それが何であるかを確かめる作業をしている目だった。
「王都から来た調茶師か」
低い声だった。
「はい。ユーフェミア・アルテンフェルトと申します。このたびは、住まいまで」
「使っていない建物だ。礼は要らん」
「それでも、いただいたものですので。明日にでもお茶をお淹れいたします。お好みの濃さはございますか」
すると彼は、初めてまばたきをした。
「要らない」
「……はい」
「三年、何も感じない」
雪が、彼の肩から落ちた。
「味も、匂いもだ。それでいい」
そう言って、彼は背を向けた。
グレーテが、私に小さく頭を下げた。それは謝罪の角度だった。彼女は主人の言葉を詫びたのではなくて、たぶん、この三年ぶんを詫びていた。
戸が閉まって、私は暗い店の中にひとり残された。
床には、七年前かもしれない茶葉の匂い。外には、三年前から何も感じない人。
私は木箱から匙を一本取り出して、卓の上に置いた。
置く場所があるということは、店を開けるということだった。
お読みくださりありがとうございます。
第2話は「行きの馬車」の話です。この種の話は退屈になりがちなので、道中で読ませるものを一つだけ持たせました。母の配合帳です。書いてある一行が、十日後の到着地で意味を持ってしまう——という順番にしています。
ちなみに「北の霧は、渋みを落とす」は本当にそういう現象があります。霧の多い土地の茶は、渋みの成分が育ちにくい。母が急いで書きつけたのは、たぶん、それを自分の舌で確かめたときです。
御者のかみさんの指については、本編に二度と出てきません。出てこないのですが、たぶん治っています。
次回、ユーフェミアは要らないと言われた相手に、それでも一杯淹れます。




