第1話:婚約破棄の日、私は茶葉を数えていた
「ユーフェミア・アルテンフェルト。お前との婚約を破棄する」
大広間の一番高いところで、アルベルト殿下がそう仰った。
春の茶葉が、あと十一箱。冬に向けて干してある分が七箱。殿下の朝の分は一日に二匙だから、十一箱あれば——百六十日。
「聞いているのか」
「はい」
聞いてはいた。数えてもいた。両方できる。五年やっていれば、誰でもできるようになる。
殿下の隣で、ミレーユ・ドラクロワ様が扇の陰から私を見ていらした。可哀想に、という顔だった。私はその顔より、殿下の目の下の色のほうが気になっていた。
三日。三日、眠れていない。
去年の秋からずっと、殿下の朝の茶には眠りを深くする配合を少しずつ足していた。足していたことは、殿下はご存じない。ご存じないまま、よく眠っていらした。
「理由を聞かないのだな」
「伺ってもよろしいのですか」
「……お前は、いつもそうだ」
殿下は苛立たれた。苛立たれると、額の左側を押さえる癖がある。それも三年前からで、私は押さえる回数で、その日の茶を決めていた。三回なら濃く、五回なら薄く。七回を超えた日は、砂糖を落とした。
「冷たいのだ、お前は。何を考えているか分からん」
「申し訳ございません」
「謝るな。そういうところだ」
殿下は片手を振られた。
「ミレーユは違う。ミレーユは、私の顔を見て笑う」
それはそうだろう、と思った。私は殿下の顔を見て、湯の温度を決めていた。
大広間の端で、誰かが小さく笑った。侍従長だった。五年前、私がこの城に上がった日に「お茶汲みのお嬢さん」と呼んだ人だ。あの呼び方は、しばらくして誰も直さないまま定着した。
「殿下」
私は一度だけ確かめておくことにした。
「明日の朝の分は、どういたしましょう」
「は?」
「お茶でございます。明朝の。ご用意しておりますが」
殿下は本当に、心の底から不思議そうな顔をなさった。
「厨房の者が淹れるだろう」
「かしこまりました」
それで十分だった。この方は、朝の茶が誰の手を通って卓に届くのか、五年間一度も考えたことがない。考える必要がないようにするのが私の仕事だったのだから、これは私の成果でもある。
「殿下」
ミレーユ様が、口を挟まれた。
「わたくし、お淹れいたしますわ。朝のお茶くらい」
「そうか」
「ええ。難しいことではありませんもの。湯を注ぐだけでしょう?」
「ミレーユはそういうところが良い」
殿下が微笑まれた。この半年で初めて見る、力の抜けた笑い方だった。
私は何も言わなかった。言えることが一つもなかったからではなく、言ったところで、この場の誰にも通じないと分かっていたからだ。
湯を注ぐだけ。
——そのとおりだ。私も、湯を注いでいた。ただ、注ぐ前に十七通りの葉を選んで、注いだあとに六十を数えていただけだ。
「それに」
殿下は言葉を継がれた。ここからが本題なのだと分かった。人は、本当に言いたいことを最後に置く。
「お前の"お仕事"とやらも、今日で終わりだ」
お仕事。
殿下は、その三文字を、指でつまむように発音なさった。
「王太子の妃が、毎朝台所に立つなど聞いたことがない。父上も母上も、そろそろやめさせろと仰っていた。趣味は結構だが、程度というものがある」
「かしこまりました」
私は一度、目を閉じた。
閉じたのは怒りを抑えるためではなくて、大広間の匂いを確かめるためだった。蝋の匂い。誰かの香油。それから、卓の上の茶——今日出されている茶は、私の配合ではない。厨房の見習いが淹れたものだ。湯が熱すぎて、渋みが立っている。
誰も、口をつけていなかった。
杯は全員の前に置かれていて、全員が置いたまま話している。誰もそれを不自然だと思っていない。今日に限った話ではないからだ。ここ半年、王城の茶は「置いておくもの」になりつつあった。
私は目を開けて、礼をした。
「長らくお世話になりました」
それから、言わなくてもいいことを一つだけ言った。
「王家の茶は、すべて私が調合しておりました。以後この国に、あの香りは戻りません」
大広間が、私の言葉の意味を探していた。
「何の話だ」
殿下が仰った。
「言葉のとおりでございます」
「茶葉なら倉にある。お前が数えていただろう」
「はい。十一箱ございます」
「では何が戻らんというのだ」
私は答えなかった。
答えれば、この五年でいちばん大事なものを、去り際に手渡してしまうことになる。それは差し上げるにはあまりに惜しかったし、差し上げても、この方には使えない。
侍従長が眉を寄せた。近習の誰かが「香り、と仰った?」と隣に囁いた。誰も、私が何を言ったのか分かっていなかった。分からないだろうと思っていたし、分からせるつもりもなかった。
ただ一人。
玉座の陰、王妃エレオノーラ陛下が、扇を閉じられた。
かちり、と音がした。それだけだった。陛下は何も仰らなかったし、私と目も合わせなかった。けれど、あの音を出せる人は、この広間で陛下だけだった。
——ご存じなのだ。
私は一礼して、背を向けた。
「お待ちになって」
ミレーユ様だった。追いかけてくるでもなく、その場から声だけを寄越された。
「ユーフェミア様。今の、脅しのおつもり?」
「いいえ」
「だって、おかしいでしょう。お茶ですのよ」
扇が開く音。ミレーユ様は笑っていらした。悪意のある笑い方ではなかった。むしろ、心から不思議そうだった。
「殿下がお眠りになれないのも、お顔の色が悪いのも、みんなお疲れだからでしょう。それをまるで、ご自分が何かなさっていたみたいに」
「そうかもしれません」
「ユーフェミア様。あなた、五年もそれを"お仕事"と呼んでいらしたの?」
「はい」
「まあ」
ミレーユ様は、扇の陰で目を細められた。
「茶なんて、誰が淹れても同じでしょう」
私は振り返らなかった。
けれど足は止まった。止まってしまったのは、その台詞が五年分の何かを一息に潰したからで、たぶん私の顔は、そのとき初めて、この広間で表情というものを持った。
「——そうですね」
そう答えて、私は歩き出した。
廊下は寒かった。
厨房の前を通ったとき、見習いの少年が湯を運んでいて、私を見て立ち止まった。名前は知らない。何度か、湯の温度のことで話したことがある子だった。
「あの、ユーフェミア様。今日のお茶、渋いって言われまして」
「湯です」
「湯、ですか」
「茶葉のせいではありません。八十度で止めてください。沸いてから、二百数えるくらいです」
少年は口を動かして「にひゃく」と繰り返した。
「数えるあいだ、湯から目を離さないでください。表面が静かになったら、それが合図です」
「静かに、なる」
「泡が消えます。見ていれば分かります」
「二百。……あの、それ、明日も教えていただけますか」
「いいえ」
私は少し笑った。
「明日はもう、おりません。ですから覚えてください。二百です」
厨房の方から、渋く煮詰まった茶の匂いが流れてきていた。あの湯の温度では、明日も同じ味になる。明後日も。
その先も、ずっと。
三日後、私は北へ向かう馬車に乗っていた。
お読みくださりありがとうございます。
第1話は「言い返さない主人公」の話でした。彼女は反論の代わりに在庫を数えます。数えられるということは、五年間、毎日それをやっていたということです。作中で一度も「頑張っていた」と書かないつもりですので、代わりに数字に働いてもらいました。
なお、湯を八十度で止めるというのは実際そのくらいで、沸騰した湯をそのまま注ぐと渋みの成分が先に出ます。彼女が去り際に見習いへ数字だけ置いていったのは、親切ではなく、たぶん職業病です。
次回、ユーフェミアは実家の門を叩きます。開きません。荷物は木箱がひとつ——中に入っているのは、七年前に失踪した母の配合帳です。




