第10話:舌が痺れる
荷は、昼前に来た。
橇が二台。辺境伯家へ月に一度届く、王都からの定期の荷だという。グレーテさんはそのうちの小さいほうの木箱を、そのまま茶房へ回してきた。
「閣下のお茶は、これからこちらで淹れていただきます。ならば葉もこちらにあるべきかと」
「よろしいのですか」
「屋敷に置いておいても、誰も使えません」
木箱には焼き印があった。王都の中継所のもので、そこから先は誰の名も入っていない。中継所は毎日何十という荷を積み替える。積み替えたあとの荷は、出どころを辿れない。
私は蓋を開けた。ニナが横から首を突っ込んできた。
「うわ、また高いやつ」
「まだ淹れておりません」
「見りゃ分かるよ。葉の切り口が揃ってる。ここらのは、もっとぐしゃっとしてる」
この子は、こういう事だけは一日で覚える。
ニナは葉をひとつまみ取って、いつも通り鼻先で一度回し、それから舌に載せた。癖なので止めない。止めても止まらない。
止まったのは、ニナのほうだった。
「……舌が痺れる」
「痺れる、とは」
「痺れる。先っぽが。刺さるんじゃなくて、消える感じ」
彼女は舌を出したまま、私を見た。冗談を言うときの顔ではなかった。この子が冗談を言うときは、必ず先に目が笑う。
「吐いてください。全部。それから、口を三回すすいで」
「え」
「三回です。今すぐ」
私は箱を卓に置き、蓋を全部開けて、顔を近づけた。
一度目は、鼻から吸う。
乾いた葉の匂い。良い葉だった。日の当たる斜面で育って、丁寧に干してある。ここまでは何も間違っていない。
二度目は、手の中で葉を潰して、温めてから吸う。
そこで、下から別のものが上がってきた。
甘い。花の甘さではなく、煮詰めた根の甘さだった。それ自体は悪いものではない。悪いのは、その甘さがあまりに整いすぎている事だった。自然に立つ甘さは輪郭がぼやける。これは輪郭がある。誰かが線を引いて置いたものだ。
そして甘さの下に、もうひとつ。
冷たい石を舐めたときの、あの後味。
金気に似ているが、金気ではない。舌の先を借りずに、鼻の奥だけで分かる種類の匂い。私はそれを、五年のあいだに三度だけ嗅いだ事がある。すべて、王宮の調薬室でだった。
「三つです」
私は自分の声が思ったより低いのに気がついた。
「ひとつは、眠りを深くする根。ひとつは、その苦みを隠すための花。この二つは、量さえ守れば薬になります」
ニナが口をすすぎながら、こちらを見ていた。
「三つ目は」
「三つ目は、量を誤ると心の臓が止まります」
グレーテさんが、戸口で息を呑んだ。
「一つ目と二つ目は、三つ目を隠すために入っております。甘くして、苦みを消して、香りを整えて。——飲む人が気づかないように」
「では、この葉は」
「お茶ではありません。お茶の形をしたものです」
流しのほうで、ニナが四回目のうがいをしていた。
「ねえ。あたし、死ぬ?」
「死にません。舐めた量が米粒ほどですので」
「じゃあ次はもうちょっと舐めていい?」
「駄目です」
グレーテさんが、卓に手をついた。家令の人が人前で卓に手をつくのを、私は初めて見た。
「ユーフェミア様。……確かで、ございますか」
「確かです」
「鼻だけで、そこまで」
「五年、王宮で調合しておりました。入れてよいものと、入れてはならないものは、匂いで分かれます。分かれるように作られておりますので」
「では、これを入れたのは」
「調合を知っている者です」
グレーテさんは、それ以上を聞かなかった。聞けば次に出る名前が重すぎると、この人はもう分かっている。
半刻ののち、レオハルト様が来た。
外套も脱がずに卓の前まで来て、広げた葉を見下ろした。私は床に布を敷き、葉を三つの山に分けていた。混ざっているものを、手で選り分けている途中だった。
「これか」
「はい」
彼は葉をひとつまみ取り、鼻に寄せた。
長く、寄せていた。息を吸って、止めて、もう一度吸った。それから手を下ろした。
「分からん」
「はい」
「一つも、か」
「一つもです」
彼は、その葉を布の上に戻した。指がわずかに震えているように見えたのは、寒さのせいかもしれなかった。
「俺は、これを飲んでも分からんという事だな」
「……はい」
「熱いか冷たいか。それだけだ」
私は答えなかった。答える必要のない問いだった。
彼はしばらく葉を見ていた。それから、ひどく静かな声で言った。
「だから、俺なのか」
三年前、この人は砦で倒れた。誰も原因を突き止められなかった。そして今、この人は世界でいちばん毒を盛りやすい人になっている。味が分からず、匂いが分からず、出されたものを疑う理由を持たない人に。
一度目で感覚を奪い、二度目で仕留める。順番として、これ以上に理に適ったものはなかった。
「閣下」
「なんだ」
「今日から、閣下のお茶は私が葉から量ります。この店の葉だけを使います。誰から届いたものも、私が嗅ぐまでは開けさせません」
「命令口調だな」
「失礼いたしました」
「いや」
彼は口の端を、ほんの少しだけ動かした。
「そのままでいい」
グレーテさんが屋敷へ走り、兵が来て、木箱を運び出していった。中継所まで人をやるという。おそらく何も出てこないだろう、という事は、その場の全員が分かっていた。
戸が閉まって、店には私とニナだけが残った。
ニナは布の端に座り込んで、膝を抱えていた。
「ねえ」
「はい」
「あたし、先に舐めればいいよね」
「なんとおっしゃいました」
「これから届くやつ、全部。あたしが先に舐める。あたしが痺れたら、それ、駄目なやつだから」
私は葉を選る手を止めた。止めて、立ち上がって、この子の前に膝をついた。
「二度と、言わないでください」
ニナの目が丸くなった。
「……怒った?」
「怒りました」
「あんた、怒るんだ」
「怒ります。——ニナさん。あなたのその舌は、痺れるためのものではありません」
「じゃあ、なんであたしを置いてるの」
その問いは、たぶん、ずっと前から用意されていたのだと思う。孤児で、気味悪がられて、食べる事が苦痛で、それでも舌だけが人より三段は良い子が、自分の値打ちを一つしか思いつけずにいる。
私は布を畳んで、量りを卓に置いた。銅の皿がついた、母のものだった。
「明日から、これはあなたが持ってください」
「……は?」
「今日、この店で最初に気づいたのはあなたです。私ではありません。分かる人は、分かる側に立ってください。舐める側ではなく」
ニナは量りを見て、それから私を見て、また量りを見た。
「壊したら?」
「弁償です」
「たっか」
そう言いながら、この子は両手でそれを受け取った。受け取ってから、鼻先で一度、くるりと回した。器でもないのに。
夜、店を閉めてから、私は残しておいた一つまみの葉を、もう一度手の中で温めた。
火は落としてある。窓の外は雪が止み、代わりに冷えが降りていた。この時刻の茶房はよく匂いが立つ。人の出入りが止まると、昼のあいだ隠れていたものが順番に浮かんでくるからだ。古い床板。壁に染みた煙。そして、この家に最初から残っていた、誰のものとも知れない葉の匂い。
甘さの下の、冷たい石。
一度目は、驚きで通り過ぎてしまった。二度目に、私は気がついた。この組み合わせを、私はどこかで確かに知っている。順番も、比も、隠し方も。誰かが線を引いて置いたその線の引き方に、私は見覚えがある。
灯を近づけて、母の帳面を開いた。開いて、指が止まった。
——この匂いを、私は知っている。
お読みくださりありがとうございます。
第10話でした。この話のために、第4話でニナを出しました。
味が分かりすぎる、匂いが分かりすぎるというのは、日常では基本的に不利です。給食が食べられない、人混みで気持ち悪くなる、そういう形でしか出てこない。ニナはずっとそれを呪いだと思って生きてきました。今日、初めて逆になりました。
ただ、この子が救われた同じ話の中で、ユーフェミアだけが別のものを見つけています。次回、王都から丁寧な手紙が一通届きます。差出人は、まだ会った事のない商人です。




