第45話:二番の匙
戸の内側に、白髪の人が立っていた。
背がしゃんとしていて、手に持った布巾で指を一本ずつ拭いている途中だった。その拭き方を、私は知っている。親指から順に、指の股まで。葉を量ったあとの手の拭き方だ。帳面に書いていない手順で、私の手も毎日同じ順で拭く。
七年で、髪は全部白くなっていた。顔は細くなり、目尻の皺が深くなり、けれど背筋と手の動きと、人を見るときにまず相手の手元を見る癖はそのままだった。その人は私の顔を見る前に、私の手を見た。手を見て、それから顔を見た。
驚かなかった。
戸を開けて、七年ぶりの娘が立っていて、その人は驚かなかった。布巾を持った手を下ろして、一度だけ瞬きをして、それからいつもの声で言った。
「湯が、沸いています」
それだけだった。
私は何か言おうとして、言葉の代わりに湯気の高さを見た。戸の向こうの竈の鍋から、白い湯気がまっすぐ立っている。あの高さは、二百二十を過ぎた湯だ。
「……二百二十、ですか」
「ええ。この水ではね」
母は戸を大きく開けて、脇へ寄った。入りなさい、と言わずに、入れる幅を作る。その作り方も、知っていた。
家の中は、茶房だった。
谷の家の土間に、竈が一つ。竈の脇に低い棚が組んであって、棚には油紙の包みが並び、包みには小さな字の札が下がっている。土間の真ん中に卓が一つと椅子が四つ。壁際に作業台。作業台の上には、匙と量りと、使い込まれた帳面。
私の店と、同じ並びだった。同じ、というより、私の店がこの並びの写しなのだ。私は王城でこの人の調合室を見て育ち、辺境で店を開けるときに、考えもせずに同じ並びにした。考えなかったのは、考える前に手が並べたからだ。
棚の札の字は後ろへ行くほど小さくなっていた。一枚の札の中で、葉の名は大きく、採った段の名は小さく、採った日はもっと小さい。母の字だ。帳面の中で七年間読んできた字が、札になって、棚に並んでいる。谷の者には読めない王都の字。谷の者にとってこれは模様で、私にとってだけ文字だった。
「お連れの方も、どうぞ。三人ね。椀は四つあります」
母は竈へ戻って、棚から葉を取った。三種。手が迷わない。迷わないまま、私とニナとレオハルト様の顔を一度ずつ見て、葉の量を少しずつ変えた。客を見て量を変える。私が毎日やっていることを、目の前でこの人がやっていた。
ニナが、私の袖を、掴んでいた。
掴んでいることに、この子は気づいていないらしい。口を固く結んで、鼻を回すことも忘れて、竈の前の白髪の背中を見ていた。それから私の顔を見た。見て何かを言おうとして、言えずに、代わりに目から水が出た。
「……ニナ」
「分かんない。分かんないけど、出る」
ニナは袖で乱暴に目を拭いて、拭いても出るので諦めてそのまま立っていた。泣いているのは、この子だけだった。私は泣いていない。母も泣いていない。この家の中で、出すべきものを代わりに出してくれているのは、十四の見習いだった。
母が椀を持って振り返り、ニナを見た。
「泣く子を、連れているのね」
「見習いです。舌が、良いのです」
「そう。……良い舌は、よく泣くの。舌と目は、繋がっているから」
ニナの前に椀が置かれた。ニナはしゃくり上げながら、それでも椀の上で鼻を一度回して、回してから、もっと泣いた。
椀が、四つ並んだ。母は椀を置くとき、取っ手のない器の腹を掌で一度包んでから卓に下ろした。熱の具合を掌で確かめる癖だ。私の手にも同じ癖がある。
母は自分の椀を取らずに、卓の向かいに座って、私の手元を見ていた。私は椀を取らずに、懐から油紙を出した。
卓の真ん中に、匙を置いた。
柄の裏に細い彫りのある匙。床下から出てきた匙。輪の中の王冠と、寮の名と、番号。
——二。
母の目が、匙に落ちた。落ちて、しばらく上がらなかった。
「……置いてきたのに、届いてしまったのね」
「床下に、ありました。冬の、雪解けに」
「あなたが、見つけたの」
「ニナが、匂いで」
母はニナを見た。ニナは泣きながら、少しだけ胸を張った。
「裏の字は」
「読みました。それで、来ました」
母は匙を取らなかった。取らずに、今度は私の胸元を見た。そこにもう一本油紙に包んだものがあることを、この人は見抜いている。私は二本目を出して、二番の隣に置いた。
——四。
母の指が、伸びた。四番の匙の柄を、一度だけ、端から端までなぞった。なぞり終えて指を離してから、母は言った。
「四番。……そう。あなたが、当代なのね」
「五年、務めました。去年の秋に、城を出ました」
「知っています。谷にも、噂は来るの。遅れてだけれど」
知っていた。知っていて、来なかった。その事実が、卓の上の二本の匙のあいだに静かに置かれた。私はそれを拾わなかった。拾う前に、聞くことが順番として先にある。けれどその順番も、今日は飛ばした。
「……お母様」
「はい」
「生きて、おいででしたね」
「ええ。湯を沸かしていました。七年」
それが、答えだった。
母は泣かないし、謝らないし、抱き寄せもしなかった。湯を沸かしていました、と言った。七年を、湯を沸かしていたことにした。私はその言い方がたぶんこの人の精一杯の言い方だと分かってしまって、分かってしまったことが少しだけ悔しかった。
「飲みなさい。冷めるわ」
「……はい」
私は椀を取った。谷の水と谷の葉で、ぬるく淹れられた茶だった。飲む前から分かっていた味が、飲んでもそのとおりの味だった。そのとおりだということが喉のどこかに引っかかって、しばらく下りなかった。
レオハルト様は、戸口に近い椅子で、黙って椀を持っていらした。
母はその人を、最後に見た。見て、椀の持ち方を見て、それから私に聞くのではなく本人に聞いた。
「そちらの方は、匂いを、待たないのね」
レオハルト様が、顔を上げた。
「……いえ。待てないのね。待てないのに、待っていらっしゃる」
「三年、分からん。匂いも、味も」
「それで、娘の茶を」
「毎朝。去年の秋の終わりから、通っている」
母はその答えを聞いて、少しだけ首を傾げた。傾げた角度が、葉の量を決めるときの角度だった。
「匂いの分からない方が、毎朝。……娘は、何を出しているのかしら」
「湯気と、三つ数える間と、顎の上がる日と上がらない日の帳面だ」
母が、初めて、表情を動かした。動いた表情が何だったのか、私には名がつけられなかった。
「帳面を、つけているの。この子が。あなたの」
「ああ。俺にはつけられん帳面だ」
母は自分の椀をようやく取って、一口飲んで、戸口の椅子の人をもう一度見た。見てから、何も言わなかった。言わないことが、この人の場合、言うより多くを言う。
帰りぎわに、私は作業台の前を通った。
通るつもりはなかった。土間の戸口へ行くには、作業台の脇を通るほかなかっただけだ。通りながら、目が台の上を拾った。匙。量り。帳面。そして帳面の脇の壁に、小さな釘で、一枚の紙が留めてあった。
古い紙だった。縁が茶色く焼けて、一辺だけが毛羽立っている。
切り口だ。
刃物で切ったのではない。紙を押さえて、定規を当てて、一息に引き裂いた切り口。私の部屋の帳面の綴じ目に残っている毛羽立ちと、同じ形をしていた。
私は足を止めなかった。止めずに戸口を出た。
戸口を出てから、止まった。
お読みくださりありがとうございます。
七年ぶりの再会で、母の第一声は「湯が、沸いています」でした。感情を名指ししない人の娘は、感情を名指ししない人でした。代わりに泣いてくれる十四歳がいて、本当によかったと思います。
二番の匙は届きました。届いてしまった、と母は言いました。
次回から第3章、母の店で谷の日常が始まります。聞くべきことは、まだ一つも聞けていません。




