第44話:上の寮
三日が過ぎた朝、マレーネさんが戸口に立って、顎で上を指した。
「戻ったよ。昨夜遅く、煙が上がった」
それだけ言って、老婆は帰っていった。谷の人の報せは短い。短いぶん、聞いた側の中で長く鳴る。
私は竈の前に立ったまましばらく動かなかった。動かない私の横でニナが灰を掻く手を止めて、それから何も言わずにまた掻き始めた。この子は最近言わないことを覚え始めている。言わないでいてくれる人が今朝は二人いた。
レオハルト様は土間の隅で、ギスベルトさんの十年ぶんの帳面を膝に広げていらした。今朝早く届いたものだ。大きな字で写しを取っている途中で、顔を上げずに言った。
「上へ行くなら、今日だ。明日から天気が崩れると、御者が言っている」
「閣下は」
「行く。領の北の先で、百年、茶を作ってきた家だ。領主が見ておく理由はある」
理由をこの方はいつも用意している。用意してある理由をそのまま口にして、理由の後ろにあるものは言わない。言われないものの形がここへ来てから少しずつ見えてきている気がする。見えてきても私からは聞かない。聞かないでいるのはたぶんこの方と同じ理由からだ。
段々畑を登る道は、段の端に刻まれた石の階段だった。
一段ごとに茶の木の列を横に見る。低い段の木は手入れがよく、葉の色が濃い。登るほど、木は古くなった。幹が太く、葉が小さく、列の間隔が広い。上の段の木はたぶん百年前に植えられた木だ。人より長く生きている木が、同じ斜面に列を作って毎年霧に揉まれている。
登りながら私は一枚だけ葉をちぎって揉んだ。上の段の古い木の葉は下の段の葉より小さく、揉むと指に粘りが残る。粘りは霧の仕事だ。昼まで晴れない霧が毎日この葉に触れて葉の側が霧に合わせて皮を厚くし、厚くした皮の下に香りを溜める。
霧が葉を揉む、という谷の言い方は比喩ではなく手順の説明だった。店の棚の霧の葉が若い弟子なら、この段の葉は師匠のそのまた師匠だ。
「ユーフェミア様。匂い、濃くなってきた」
「上の段ほど、古い木です」
「古いと濃いの?」
「古いと、深くなります。濃いのと深いのは違います」
「また違うやつだ。良いのと早いのも違うし」
ニナは息を切らしながら、それでも鼻を回すことを忘れなかった。
ファルクさんが先に立って歩いた。途中で二度段の上から誰かに声をかけられ、二度とも同じ短い答えを返した。谷の言葉で何と言っているのかは分からない。分からなくても、声の調子で上へ行く、と言っているのは分かった。
段が尽きる少し手前に、井戸があった。
石を円く積んだ古い井戸で、縁の石に、模様が彫ってある。風と雨で角は丸くなっているが、輪の形がまだ読めた。輪。輪の中に、もう一つ小さな輪。
私は足を止めた。
懐から油紙を出して、匙の柄を井戸の縁に並べた。刻印の、いちばん外側の輪。その中の王冠。王冠の下の寮名。
輪の大きさが、同じだった。同じ、というより、同じ型から取ったような形だった。匙の輪の中にあるのが王冠で、井戸の輪の中にあるのが小さな輪だという違いだけがある。
「……ファルクさん。この井戸は」
「谷でいちばん古い井戸です。茶婆の家の井戸。谷の水は、全部ここから下へ流れてるって、爺さまは言ってました」
「この模様は」
「昔からあります。寮の印だって。寮ってのは、上の家のことで——年寄りは、調茶の家、とも呼びます」
ファルクさんは少し言葉を探した。
「谷じゃ、こう言うんです。百年前、谷の茶婆が王都へ呼ばれた。王さまの茶を淹れるために。その婆さまが、井戸の印を持っていった。それが、王都の寮の始まりだって。……本当かどうかは、知りません。谷の年寄りが言うだけで」
本当だった。
レオハルト様が井戸の縁に屈んで、彫りの溝に指を入れた。溝をゆっくり一周なぞって、それから匙の刻印の輪を同じ指でなぞる。二度目は、一周するのにかかる時間が、ほとんど同じだった。
「……同じ深さの彫りだ。石と銀で、道具が違うのに、溝の幅が同じだ」
「分かりますか」
「指なら分かる。石工が同じ型紙を使ったか、型紙を見て銀を彫ったかだ。どちらにしても、井戸が先だな。石のほうが、古い」
この方は匂いの代わりに、指で物を読む。谷へ来てから、その読み方が日に日に細かくなっている。
私は匙の輪を指でなぞった。王家調茶寮の刻印は、輪の中に王冠を入れる。なぜ輪なのか、寮で誰にも教わらなかった。教わらなかった「なぜ」が、また一つ、谷の井戸の縁で追いついてきた。輪は、谷の井戸だ。王冠は、あとから入れたものだ。調茶は、王都の制度ではない。谷から上がっていったものだった。
母は、それを知っていたのだろうか。
知っていて、ここへ来たのだろうか。
井戸の上に、家があった。
段々畑のいちばん上、谷の霧がいちばん先に触れる場所に、石造りの古い家が一軒、背を山につけて建っていた。壁の石は井戸と同じ積み方で、屋根は谷の家々と同じ板葺きに石が載せてある。違うのは戸口だった。戸口の両脇に、葉を干す簀子が立てかけてあって、簀子は空ではなかった。
干した葉の匂いが、した。
霧の葉。それに、眠りの浅い人の花。それから——私の知らない、けれど知っている気のする、谷の葉の古い匂い。店の棚で毎朝嗅いでいる匂いの、元の形がそこにあった。元の形、というのは、私の棚の匂いがこの匂いの写しだという意味だ。
煙突から、細い湯気が立っていた。
煙ではない。湯気だ。竈にかけた鍋から立つ、白い、まっすぐな湯気。風の無い朝だったから、湯気はそのまま上へ伸びて、霧に溶けた。
私の足が、止まった。
止めたのではない。止まった。段の最後の一段の上で、靴の底が石に貼りついたように動かなくなった。七年、北へ行った人を、私は待っていない。待っていないと、自分に言ってきた。匙を棚の奥に置いて、毎朝確かめて、確かめるだけで、店を開けて。待っていない人の足は、こんなふうには止まらないはずだった。
隣に、人が立った。
レオハルト様だった。何も言わなかった。私の足が止まったのを見て、隣に来て、同じ段の上に立って、同じ戸口を見た。この方の立ち方は、店の戸口の椅子と同じだった。急かさず、助け舟も出さず、人が立て直すのを待てる立ち方。
「……閣下」
「ああ」
「湯気が、立っております」
「見えている」
「朝の湯です。あの高さは、二百を過ぎた湯です。……いえ、ここでは、二百二十を」
自分が何を言っているのか、分からなかった。湯気の高さの話をしている。七年ぶりに母の家の前に立って、私は湯気の高さの話をしていた。
「ユーフェミア」
隣の声が、低く、私の名を呼んだ。
「湯気の話でいい。——君は、そうやって、ここまで来た」
ニナが後ろで、鼻をすすった。すすってから、すすっていないふりをした。
私は最後の一段を、上がった。
戸口まで、五歩。簀子の葉の匂いが、一歩ごとに濃くなる。三歩目で、中から、匙が器に当たる音がした。二度。量る音だ。匙で葉を量って、二度目で手が止まる音。私の手と、同じ間で止まる音。
四歩目で、手を上げた。戸を叩くために。
叩く前に。
戸が、内側から開いた。
お読みくださりありがとうございます。
輪の中に王冠、という寮の印は、第30話で匙の裏に出てきました。輪が何なのかは、寮でも誰も教えてくれませんでした。谷の井戸の縁に、その答えがありました。調茶は王都の制度ではなく、谷から上がっていったものです。
湯気の話でいい、と言える人が隣にいることが、この話のいちばん大事なところだと思っています。
次回、戸が開きます。七年ぶりです。




