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第43話:谷を豊かにする男

寄り合いは、谷でいちばん大きな家の土間で開かれた。


大きいといってもうちの店の二倍ほどだ。土間に筵が敷かれ、谷の家々から一人ずつ二十人ばかりが壁際に座っていた。男も女も座り方が同じだった。膝を立てて腕を膝に載せて、顔を少し伏せる。畑で腰を屈める人の座り方だ。座っているだけで、この人たちが何をして生きてきたか分かる。


私は戸口の脇の竈を借りて、湯を沸かしていた。寄り合いに茶を出すと言い出したのは私で、止めたのはファルクさんで、通したのはレオハルト様だった。領主が話をする場に、茶が無いほうがおかしい——と、この方は言った。おかしいかどうかは知らないが、湯の音がする場のほうが、人の声は低くなる。それは店で覚えたことだった。


葉は、谷の葉を使った。この谷の葉を、この谷の水で、この谷の人に出す。よそ者がよその葉を出すより、そのほうが筋が通っている。ぬるめに、二百二十を数えて。


二十人ぶんの椀を盆に載せてファルクさんと二人で配ると、受け取る手の出方が、人によって違った。すぐ出す手と、少し遅れて出す手。遅れて出す手の人は、椀を受け取ってからも、すぐには飲まなかった。


いちばん遅れて手を出したのが、顔役だった。



ギスベルトという人は、五十絡みの、石のような人だった。


背はそれほど高くない。肩が厚く首が短く、手の甲に古い傷が幾つもある。土間に入ってきたとき壁際の二十人が一斉に少しだけ背を伸ばした。伸ばし方が怖がっている伸ばし方ではなかった。頼っている伸ばし方だ。この人が谷の冬を背負っている、というケーニヒ様の言い方は、比喩ではないのだと思った。


顔役は私の出した椀を受け取って、飲んだ。一口、それから二口。椀の中を見て、言った。


「旨い」


「ありがとうございます」


「旨いな。……谷の葉が、こんな味になるのは、茶婆の手と、あんたの手だけだ」


言いながら、顔役は椀を置いた。置き方が、話はここからだ、という置き方だった。


「辺境伯どの。峠のこちら側へ、ようこそ。谷は領の外だが、峠道は領のものだ。道の主が、道を通る荷を数えに来た。それは分かる。分かった上で、聞きたい」


「聞け」


「谷の畑を、どうしろとお考えか」


レオハルト様は、筵の上に胡座をかいていらした。領主の座り方ではない。巡回で野営する兵の座り方だ。この方はたぶん、わざとそうしている。


「どうしろとも、言わん。俺は数を見に来た。数を見てから、言うことがあれば言う」


「数なら、わしが言える」


顔役は膝の上で指を折った。


「谷の茶は、十年前、一俵が銀貨四枚で売れた。五年前に三枚。去年は二枚を切った。今年は——買い手が、来ん。ケーニヒの商会が外れて、次の若いのは、谷の葉を見もせん。そこへ、灰の葉の話だ。一俵、銀貨五枚。手をかけず、刈るだけで、五枚。植え替えた段は、今年の秋には刈れる」


指が、五本、折られていた。


「茶の木は、植えて十年待たねば葉にならん。その十年、誰が谷を食わせる。茶は銭にならん。灰の葉は倍で売れる。——辺境伯どの、あんたは谷の冬に、何をくれる」



土間が、静かだった。


静かさの質が店のそれとは違う。店の静けさは湯を待つ静けさで、これは答えを待つ静けさだった。二十人が顔を伏せたまま耳だけをこちらへ向けている。


私は竈の前で、鍋の湯を見ていた。湯は二百二十を過ぎて、湯気を立てている。答えは、私の中にも無かった。灰の葉が人の朝を奪うことは、私が誰よりもよく知っている。知っているけれど、それは飲む側の話だ。作る側の、谷の冬の話には、私は一度も立ったことがない。十年待てない畑のことを、王城の調合室で育った私は、知らない。


「ギスベルトどの」


口を開いたのは、私だった。開いてしまってから、何を言うか決めていないことに気づいた。


「灰の葉は、飲む人の朝を奪います。続けるほど効かなくなり、効かないから量が増え、増えるほど、目が覚めない朝が増えます。王都では、もう始まっています」


「知っとる」


顔役は、即座に言った。


「茶婆が言った。同じことを。去年の秋に、わしの家の土間で」


「それでも、植え替えを」


「飲む側の朝と、谷の冬を、秤にかけたことがあるか、お嬢さん」


私は黙った。黙るしかなかった。


「わしはある。毎晩だ。秤は、いつも谷の冬に傾く。王都の誰かの朝より、隣の家の子の腹のほうが重い。重いから傾く。それを間違っとると言うなら、言ってくれ。だが言うなら、十年、谷を食わせる算段を一緒に置いてくれ」


正論だった。


正しい理屈で谷を灰の葉に変えていく。ケーニヒ様の言葉の意味が、いま目の前で石の形をして座っていた。この人を論じ伏せる言葉を、私は持っていない。持っていないことを、湯の前で認めるしかなかった。


「……即答は、持っておりません」


「正直でよろしい」


顔役は、少しだけ口元を緩めた。緩めた顔は、怖くなかった。


「茶婆も、同じことを言った。即答は持たん、と。そして一年、答えを持ってこん」



レオハルト様が、胡座のまま、口を開いた。


「ギスベルト。数を見せろ」


「見せたろう。いま」


「指で折った数ではない。帳面だ。十年の茶の売り値。植え替えた段の数。灰の葉の買値と、その買値を誰が決めたか。来年の買値の約束が、紙であるかどうか」


顔役の目が、初めて少し動いた。


「……来年の値は、口約束だ」


「口約束で、十年の木を抜いたのか」


「抜かねば、今年の冬が越せん家がある。来年の約束が紙であろうと口であろうと、今年の五枚は本物だ」


「では、その五枚が来年も五枚である根拠を、俺に見せろ。俺は領主だ。領の道を通る荷の値が、口約束で動いているなら、俺の道が口約束で動いていることになる。それは、見過ごせん」


二人はしばらく黙って睨み合った。睨み合うというより秤を見合った。顔役は数字の人で、この方も数字の人だ。数字の人同士は、数字を出すまで引かない。


やがて顔役が、ふん、と鼻を鳴らした。


「帳面は、明日持ってくる。寄り合いの帳面だ。十年ぶん」


「いい」


「だが、辺境伯どの。帳面を見ても、十年の木は戻らん」


「知っている。戻らんものを数えに来たのではない。これから植えるか抜くかを、口約束でなく数で決めさせに来た」


顔役は立ち上がった。立ち上がると壁際の二十人も少し遅れて腰を浮かせた。


戸口で、顔役は私のほうを振り返った。


「お嬢さん。茶は旨かった。茶婆の味だ」


「……ありがとうございます」


「茶婆にも、同じことを言った。旨い、と。それから、谷の冬に何をくれる、と」


石のような顔が、一瞬だけ、石でなくなった。


「あの人は——答えなかった。答えずに、北の枯れ段へ、一人で通うようになった」



帰り道は川沿いだった。谷の夕方は早い。段々畑のいちばん上にだけ日が残って、下の家々はもう影の中にある。影の中で簀子を片づける音が幾つか聞こえた。空の簀子を片づける音は軽い。軽い音が谷に多いことを、私は耳で数えてしまっていた。


レオハルト様は並んで歩きながら、土間の椀のことを言った。


「二十人ぶんの湯気が、顔に来た。匂いは無いが、あの土間に何人いるかは、湯気で分かった」


「数えておいででしたか」


「数えた。湯気の立ち方が揃っていなかった。すぐ飲んだ者と、置いたままの者がいる。……置いたままの椀が、七つ。あれが、植え替えた家の数か」


「四つ、と、ファルクさんは」


「段が四つだ。家は七つだろう。一つの段を、二つの家で分けている」


私は答えられなかった。湯気で数えられた七つの椀を、私は配ったのに、数えていなかった。この方の分かるものは、また一つ増えている。増えた一つが、谷の冬の数だった。

お読みくださりありがとうございます。


正しい理屈で来る人は、悪役より書くのが難しいです。ギスベルトは谷の冬を本気で背負っていて、その秤は毎晩、谷の側に傾きます。ユーフェミアが即答を持っていないのは、この人が正しいからです。


数を見せろ、は辺境伯のいちばん長い戦い方です。数は、口約束より遅く効きます。


次回、三日が過ぎます。段々畑のいちばん上へ。

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