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第42話:関の商人

上の寮へは、その日、行かなかった。


行けなかった、と言うほうが正しい。マレーネさんによれば、茶婆はいま谷の北の奥、岩場の向こうの枯れた段に出ていて、戻るのは三日先だという。谷の者が灰の葉に植え替えた段のさらに向こうで、一人で何かをしている。何を、と聞くと老婆は肩をすくめた。茶婆のやることは、谷の者にも半分しか分からないらしい。


三日、と私は数えた。七年待った人間に、三日は長いのか短いのか。数えてみても答えは出なかった。出ないまま、荷馬車が夕方に谷へ着き、御者が馬の機嫌を直すのに半刻かかり、ファルクさんの家の土間に七種の茶箱が並んで谷の最初の夜が暮れた。


夜、レオハルト様は土間の隅で小さな帳面を開いていらした。段の数と家の数と簀子の空きが大きな字で書いてある。


「明日は、関へ行く」


「関、ですか」


「谷の入り口に、荷の出入りを検める関がある。ファルクが言っていた寄り合いの手形も、そこの番が預かっているそうだ。……谷の荷がどこから来て、どこへ出ていくか。数えるなら、まず出入り口だ」


この方は、三日先の寮の話を一度もしなかった。しないでいてくれることが、その晩はいちばんありがたかった。



関は、谷の南の口にあった。


川が谷を出る場所に石の橋が架かり、橋の袂に番の小屋と荷を検める広場がある。広場には俵が積んであった。乾いた草の俵だ。匂いが風に乗る前にニナが鼻に布を巻いた。


レオハルト様は露店より先に俵へ寄った。番の男に一言断って俵の口を解き、中の草を一掴み出して、掌の上で転がす。葉の形と茎の折れ口と乾き具合を順に見て、それから俵の口の札を確かめた。札は、峠の番小屋で見た検めの札と同じ筆だった。


この方の検めは、早い。早いのに、見落としたのではないかと思わせるところがない。見る順番が決まっている人の早さだ。


番の男は最初こそ渋い顔をしていたが、俵の扱いが荒くないのを見て黙った。荷を知っている手で荷を触ると、荷を預かる側は、それだけで少し安心する。


俵の山の向こう側に、小さな露店が出ていた。板を二枚渡しただけの台に、葉の袋が幾つかと欠けた湯呑み。台の奥で、背の丸い男が一人、火鉢に鉄瓶をかけている。


その丸い背中に、見覚えがあった。


「……お嬢さん?」


男が先に振り向いた。振り向いた顔が、驚きと困惑と妙な嬉しさの順に動いて、最後に商人の笑いで落ち着いた。


「これはこれは。辺境の茶房のお嬢さんが、こんな山の奥へ。——ああ、閣下も。ご無沙汰しております」


バルド・ケーニヒ様だった。


王都茶葉商会の主は、もういない。いま目の前にいるのは、山の関で火鉢に鉄瓶をかけている、少し痩せた初老の男だった。上等だった上着は袖口が擦れていて、指先には葉の灰汁で黒くなった跡があった。商人の手ではなく、葉を扱う手の色になっている。


ニナが、布越しに言った。


「銀貨六枚の人だ」


「……覚えておいでか」


「忘れるわけないじゃん。あたしの値段、最初につけた人」


ケーニヒ様は鉄瓶を火から下ろして頭を掻いた。掻き方が、王都で見たときより素直だった。



「商会は、切られました」


並べた欠け茶碗に谷の葉の茶を注ぎながら、ケーニヒ様は淡々と話した。自分の話を自分の商いの話のように語れる人で、それは王都でも同じだった。


「春の大市の買い占めが空振りに終わったあと、本家が私を外した。三十年の商人を外すのに、本家は三行の文で済ませましたよ。次に商会の主になった男は、私の知らない若い者で——その若い者が最初にやったのが、谷の茶の買い付けを、止めることでした」


「止めて、灰の葉に」


「ええ。買い手は王都の『調茶』の看板です。金主は、ロータルという買い付け人の筋。ご存じで?」


「存じております。うちで茶を飲んで、十倍の茶代を置いていきました」


「あの男はそういう男です。多く払うのは、払ったことを覚えていてほしいからだ」


私が店で思ったのと同じことを、この人は言った。商人の目は、同じものを見る。見て、どちらの側に立つかが違うだけだ。


「それで、ケーニヒ様は、なぜここに」


「他に行くところがありませんでね」


商人は笑った。笑ってから笑いを少し引っ込めた。


「いや。正直に言いましょう。歳を取ると口が軽くていかん、が——今日は役に立つ。私は谷の茶を、三十年、王都で売ってきました。安く買い叩いてきた側ですが、三十年、この葉の味は知っている。それが灰の葉に植え替えられると聞いて、どうにも、腹の座りが悪くなった。商人の腹です。良い物が潰れるのを見るのは、商いとして、気分が悪い」


鉄瓶から注がれた茶は、谷の水と谷の葉で、ちゃんと淹れられていた。二百二十を数えたかと聞くと、ケーニヒ様は数えましたとも、と少し得意そうに答えた。


「茶婆に叱られましてね。最初の日に。湯が早い、と」



谷の構図は、この人の口から順に並んだ。


植え替えを進めているのは、ギスベルトという谷の顔役。五十絡みの、数字の男。谷の寄り合いの頭で、灰の葉の買値を谷に持ち込んだのも植え替える家の順番を決めているのもこの男だ。


「悪党ではありません。それは先に言っておきます。あれは谷の冬を本気で背負っている男だ。茶の値が年々下がるのを十年見てきて、倍の値の話が来たときに、断れる理屈を持っていなかった。断れる理屈が無いときに、人は数字に従う」


「王都の側は」


「ヴェンデル、という男が看板の主です。『調茶』の。ロータルが金を回し、ヴェンデルが売り、谷が作る。綺麗な三角で、三角の中に——」


「飲む人が、いませんね」


「ええ。お嬢さんは、やはりそこを見る」


レオハルト様は、俵の山を見ながら聞いていらした。聞き終えてから、一つだけ聞いた。


「ケーニヒ。お前は、どちらの側だ」


商人は鉄瓶を置いて、少し考えた。考える顔が、王都で見たどの顔よりも年相応だった。


「茶の側、と申し上げたいところですが——私は商人です。儲かる側に立ちます。ただ、いまのところ、灰の葉は儲かる側に見えません」


「見えない、とは」


「効きが落ちている、と聞きます。王都で。同じ包みを飲んでも、前ほど眠れない客が出始めた。眠れないから量を増やす。増やすから値が上がる。上がるから——いずれ、買えなくなる。その先は、商人なら誰でも見えます。見えているのに走るのは、今月の銭しか見ていない者だけだ」


ヘルタさんの妹さんの手紙の「半刻戻らない」が、この人の口から数字の側の言葉で言い直された。効かなくなる。量を増やす。朝が遠くなる。階段は、王都でも上り始めている。


「ケーニヒ様。ギスベルトという方に、会えますか」


「会えますとも。明日、寄り合いです。閣下がいらしたことは、もう谷中が知っている。向こうから来ますよ」


商人は欠け茶碗を集めてから、思い出したように声を落とした。


「一つだけ、先に申し上げておきます。あの顔役は、悪い男じゃない」


「先ほども、うかがいました」


「二度言うのは、二度言う値打ちがあるからです」


ケーニヒ様は鉄瓶に水を足して、火鉢の灰を掻いた。


「悪い男なら、やりようがある。私は三十年、悪い男と商いをしてきた。悪くない男が、正しい理屈で、谷を灰の葉に変えていく。——それが一番、厄介だ」

お読みくださりありがとうございます。


バルド・ケーニヒ、再登場でした。商会を切られた商人が山の関で鉄瓶に湯を沸かしている図は、第1部から書きたかった絵の一つです。三十年買い叩いてきた葉の味を、三十年ぶんちゃんと知っている人でもあります。


銀貨六枚の人、という呼び名は、ニナの中で今後も更新されません。


次回、谷の顔役に会います。正しい理屈で来る人に、ユーフェミアは即答を持っていません。

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