第40話:音で歩く人
朝になって目を開けると、世界が無かった。
正しくは、世界が白かった。焚き火の燃え残りから二歩先が、もう見えない。昨日の置いてある霧が、夜のあいだに降りてきて道の上に座ったのだ。御者が白闇だと言った。山の者の言葉で、霧が道を消す朝のことらしい。
「昼まで動かんよ、こいつは。動いてくれても、今日は一日、白いままだ」
「待てば、晴れますか」
「晴れはしない。薄くなるだけだ。待てる人は待つ」
待てない理由が、こちらには二つあった。薪がゼップさんの束の残り半分しかないことと、ニナの鼻の布がもう酢の匂いを失くしていることだ。風上の道といっても、霧が止まれば匂いは溜まる。この子を灰の葉の匂いの中にもう一晩置くのは、店の帳面なら赤で書く類いの判断だった。
レオハルト様は焚き火の灰を踏んで消してから白い方を向いて、そのまましばらく動かなかった。
「行く。荷馬車は置く。御者はここで馬を見ていろ。昼に霧が薄くなったら、道なりに下りてこい。道は一本だ」
「閣下。道が、見えません」
「見えん道なら、慣れている」
当たり前のことのように、この方は言った。
「霧の中では、誰の目も同じだ。同じなら、目の他で歩くことに慣れた俺が前を歩く。——ニナ、君は真ん中だ。ユーフェミア、後ろを。三人を縄で繋ぐ」
縄は荷綱を切ったもので、腰に回して結ぶと三人のあいだにちょうど両手を広げたぶんの間が空いた。前を歩く人の背中が白の中に灰色の形として辛うじてある。その形だけを見て歩く。
最初の一歩で、私は自分がどれほど目に頼って生きてきたかを知った。足の裏が地面に着くまで、地面があるかどうか分からない。着いてから、石か土かが分かる。一歩ごとに世界をいちいち確かめ直す歩き方は、歩いているというより、歩かせてもらっている感じがした。
前の形は、迷わなかった。
「右の足元、石が浮いている。踏むな」
言われたところに、たしかに浮いた石があった。見えるのかと聞きかけて、やめた。見えるわけがない。では何で分かるのか。縄の先の背中を見ていると、この方が足を置く前に、一度だけ靴の先で地面を軽く叩いているのが分かった。叩いて、音を聞いて、それから体重を乗せる。叩いた音で、締まった土と浮いた石を聞き分けている。
「閣下。音で、歩いておられるのですか」
「音と、風だ」
白の中から、声が返ってくる。
「道は、風の通り道だ。人が何十年も歩いて踏み固めた筋は、草が生えん。草が生えんところは、風がまっすぐ抜ける。頬に当たる風が、右へ逸れたら道から外れている」
「それは、どこで覚えられたのですか」
「三年かけて、覚えるしかなかった。国境の巡回は、夜も霧も雪もある。匂いで土地を覚えられなくなった人間が、それでも道を間違えんためには、ほかの全部で覚える以外にない」
縄の先で、靴が地面を叩いた。こん、と低い音。こん、と少し高い音。高いほうを避けて、形が左へ寄った。
——分からないものが一つ増えた人は、分かるものを増やすしかない。
店で聞いた言葉が、白の中で、そのままの形で目の前を歩いていた。言葉として聞いたときは、立派だと思った。いま見ているのは立派ではない。もっと地味で、もっと長い、一歩ごとに靴の先で地面を叩いてきた三年だった。
昼前に、道が分かれた。
分かれたことは前の形が止まったことで知れた。靴が地面を叩く音が二度三度と続いて、それから止まる。
「風が、二つに割れている。道が二本ある」
「どちらが」
「分からん」
この方が分からないと言うのを聞いたのは、これで何度目だろう。王城で初めて聞いたときは、聞いているこちらの膝が揺れた。いまは揺れない。分からないと言える人は、分からないままでは歩かない人だ。
「ユーフェミア。匂いを、聞かせてくれ」
「……はい」
私は縄を少し張って霧の中で息を吸った。右の道からは濡れた石と、薄く灰のあくび。左の道からは——
「左です。左から、茶の匂いがします。野に返った茶の木の、硬い葉の匂い。昨日の道の続きです」
「右は」
「灰の葉です。薄いですが、確かに」
「左へ行く。君が鼻で、俺が耳だ。二人で、目一つぶんにはなる」
縄が、左へ動いた。
私はそのとき気がついた。この白の中で私はこの方に道を教えてもらい、この方は私に匂いを教えてもらっている。店ではいつも私が出す側だった。湯を出して匂いを言葉にして渡し、三つ数える顎を見守る側だった。
いまは縄の後ろで背中の形だけを頼りに歩いている。守られているのだと思って、それから思い直した。守られながら同時にこちらも一つ渡している。出す側と受ける側が縄一本のあいだで行ったり来たりしている。
それはたぶん店の卓一つ分の距離では起こらなかったことだ。
足が、滑った。
濡れた岩の斜めの面に踵が乗って、体が後ろへ持っていかれた。縄が鳴った。鳴った次の瞬間、腰の縄が強く引かれて、私は前のめりに白の中へ倒れ込んだ。倒れ込んだ先に、腕があった。
「……大事ないか」
すぐ上から声がした。白の中で初めて、この方の顔が息の届く距離にあった。
「はい。踵が」
「岩だ。濡れている。——もっと、縄を詰める」
腰の縄が引き寄せられて、両手を広げたぶんの間が腕一本ぶんになった。近い。近いぶん前の形が灰色ではなくなって、旅装の肩の線と湿った髪と、こちらを一度だけ振り向いた目が見えた。目は私の足元を見ていた。足元を見てから私の顔を見て、何も言わずに前を向いた。
ニナが縄の真ん中で、布越しにもごもごと言った。
「あたし、いま、すごい見て見ぬふりしたからね」
「何も、ありません」
「うん。何も無いのに縄が短くなった」
霧は昼を過ぎて薄くなった。
薄くなるというのは御者の言ったとおりで、晴れはしない。白が乳の色になり、乳の色の中に影が戻り、影の中に道の形が浮いてきた。私たちは道の上にいた。一本の細い石の多い道の真ん中に。
前を歩く人が、止まった。
「風が、変わった。開けている」
縄を解かずに、私たちは最後の角を回った。
そして、霧が切れた。
切れたというより落ちた。目の前の白が斜面に沿ってずるりと下へ滑り、滑った跡から緑が現れた。段になった緑だ。山肌を下から上まで細い段が幾重にも刻んでいて、その段の一枚一枚に低く刈り込まれた木が列を作って並んでいた。濃い緑の丸く整えられた見間違えようのない木の列。
茶の木だった。
谷は白の底にあるのではなかった。谷は茶の段の底にあった。人が百年かけて山を削って段にして、段の上に茶を植えて、植えた茶を霧が揉んできた谷だ。地図の白いところにはこれがあった。帰って描いた人がいないだけで、ここにはこれだけのものがあった。
隣で、レオハルト様が縄を解きながら言った。
「……見えたか」
「はい。茶の段が、山の上まで」
「ああ。目にも見える。匂いは無いが——風が、葉の上を撫でる音がする。これは、葉の多い場所の音だ。……目と耳が同じものを指すのは、久しぶりだ」
この方は目を細めて、段を見上げていた。
段の下のほうで腰を屈めていた人影が一つ手を止めて、こちらを見上げた。鎌が地面に置かれた。
お読みくださりありがとうございます。
音と風で道を探す歩き方は、実際に霧の多い山地の猟師さんや郵便配達の方がやっていた技です。靴の先で地面を叩く音で、締まった道と浮いた石を聞き分けます。三年かけて覚えるしかなかった人が、霧の朝にいちばん頼りになる、という話でした。
縄が短くなったことについて、ニナは今後も見て見ぬふりを続けます。
次回、谷へ入ります。最初の一杯は谷の水で。二百二十の意味が、体で分かります。




