第39話:道が白くなる
ヨナスたち隊の二人は、峠までの護衛だった。
番小屋の前で別れるとき、ヨナスは何度も任務の顔を作り直して、最後に諦めて、素の顔で言った。
「閣下。その、ご無事で。……ユーフェミアさんも。帰ってきたら、故郷の煮込みの話の続き、聞いてください」
「続きがあったのですか」
「あるんです。妹が嫁ぐことになって、それで、その煮込みを」
「帰ったら、うかがいます。長くなりそうなお話は、湯のある場所で聞くと決めております」
ゼップは見送りに出なかった。代わりに、出立の荷の上に、乾いた薪の束が一つ増えていた。番人の餞別は番人の言葉と同じで、説明が付いていない。
出がけに、ゼップが戸口で一度だけ振り向いて下りの道順を三つの言葉で言った。水音を右に置け。刈り跡の斜面には寄るな。夜は火を絶やすな。三つとも理由の付いていない言い方だったが、理由を聞く相手ではないし聞かなくても午後には全部の理由が分かることになった。
下りにかかると、霧はすぐに来た。
最初は道の先が薄くなる程度だった。それが九十九折りを三つ下りるごとに一段濃くなる。峠の上の霧は流れる霧で、風と一緒に動いていた。下りの霧は違う。谷に溜まって動かない、置いてある霧だ。昼の光が霧の中で均されて、影が消える。影が消えると道の凹凸が読めなくなる。馬車の速さが人の歩みより遅くなった。
「ゼップが言っていた。下りの霧は昼まで動かん。動かん霧の日は、音で歩けと」
レオハルト様は馬を下りて、列の先頭に立っていらした。後ろが定位置の人が先頭に立つのは、後ろから全部が見える状況ではなくなった、ということだった。
匂いの壁は、昼前に来た。
先に止まったのはニナだった。荷台の上で体を起こして、鼻をひくつかせて、それから毛布を鼻まで引き上げた。
「ユーフェミア様。この先、やだ」
「灰の葉ですか」
「うん。壁みたいになってる。……ここから先、匂いがずっと、あくびしてる」
私にも少し遅れて届いた。雨の日の灰の、あの匂い。蔵の包み一つ分ではない。斜面一枚分の厚さで霧に溶けて漂ってくる。霧が匂いの器になっている。動かない霧の谷では、匂いも置いてある。
道が岩場の縁に出たところで、その斜面が見えた。
見えた、というより霧の中で色だけが分かった。灰色がかった緑が岩の間を埋めて、斜面を下まで続いている。刈られた跡が段になって、段の上にまた新しい株が伸びていた。刈っても翌年また生える、というレオハルト様の言葉のとおりの、都合の良すぎる草の海だった。
斜面の途中に、人影が二つ霧に滲んで動いていた。腰を屈めて鎌で刈って、背中の籠へ入れる。刈り手の動きは茶摘みと同じ形なのに、摘む速さが違った。茶摘みは選びながら摘む。あの手は選んでいない。端から刈って、端から詰めている。選ばなくていい収穫というものが、あの草の取り柄なのだろう。
霧の向こうから、時おり咳の音がした。深い咳ではない。眠たい咳だ。あの匂いの中で一日働く喉は、夕方にはどんな味がするのだろうと考えて、やめた。
荷馬が、足を止めた。
御者が手綱を打っても、首を振って進まない。馬は鼻の穴を大きくして、耳を後ろへ倒していた。
「無理をさせるな」
レオハルト様が馬の首に手を置いた。
「馬は、この草を食わん。食わん草の群れの風下は、馬にとっては全部が罠の匂いだ。……遠回りになるが、風上の道を取る」
「道が、あるのですか」
「古い道がある。谷の者が茶を運んだ道だ。荷馬車には狭いが、通れんことはない」
私はニナの鼻に酢を薄く染ませた布を巻いた。巻きながら手が覚えていることに気づく。王城で強い材を扱う日、母がやってくれた巻き方だった。教わった記憶はないのに手だけが覚えている。帳面に書いていないことも、手から手へは渡っている。
「ユーフェミア様、これ、匂いが酸っぱい」
「灰の葉のあくびより、ましです」
「まし比べなんだ……」
風上の道はたしかに狭かった。狭いかわりに、匂いが薄かった。そして道の縁の草を見て、私は馬車の上から思わず身を乗り出した。茶の木だ。野に返って伸び放題になっているが、間違いなく茶の木の生垣が、道の両側に続いている。
茶を運んだ道は、茶で縁取られていた。誰かが昔、運びながら実を落としていったのか、それとも道しるべに植えたのか。どちらにしても、この道を作った人たちは、灰の葉ではなく茶と生きていた。
野に返った茶の木は、葉が小さく硬くなっていた。それでも一枚ちぎって揉むと、掌の中で、ちゃんと茶の匂いがした。世話をされなくなって何十年経っても、茶の木は茶の木をやめない。
やめないものを抜いて、一年で生え変わる草を植える。谷の家々の算盤が傾いた先を、私はまだ責める気になれない。冬の銭は、匂いより重い。重いことと正しいことは、別の帳面に書く事柄だけれど。
日が落ちる前に、道が少し開けた場所で火を焚いた。
霧の夜は、火の回りだけが世界になる。私は薪を——ゼップさんの薪だ——組み直して、鍋の位置を火の芯から半分外した。山の三日目で、この火加減にも慣れてきた。
葉は、道の縁で揉んだ野の茶を一つまみ、霧の葉に混ぜてみることにした。野に返った葉は硬いぶん湯に負けない。負けない葉は、ぬるく落ち着きがちな山の湯と相性がいい。
鍋の口に手をかざして湯気の立ち方を読み、いつもより二十ほど長く数えてから葉を入れる。湯の側が弱いなら、待つ側で補う。店の竈と同じ理屈を、火と鍋の形が変わるたびに一から組み直すのが、旅の調茶というものらしい。
レオハルト様は火に背を向けて、霧のほうを向いて立っていらした。
「閣下。お茶が入ります」
「ああ」
「……何か、聞こえますか」
「水の音が三つ。近いのが沢で、遠いのが二つ。遠い二つのうち、片方は水車だ」
振り向かずに、この方は言った。
「水車の音は、夜は止めん。止めん音のある場所には、人が住んでいる。霧は、俺には見えん。だが霧の音は分かる。霧の日は、音が濡れて、遠くまで届く」
器を渡すと、レオハルト様は湯気を手に当てて、濃さの見当を言った。今日は八割。当たっていた。飲み込んで、三つ待って、顎は上がらない。上がらないまま、この方は霧の奥の一点から目を離さなかった。
夜半に、私も見た。
置いてある霧の、ずっと奥。滲んだ橙色の点が一つ、揺れずに灯っていた。焚き火の色ではない。竈の色だ。竈の火は、夜通し落とさない家でしか灯らない。
ニナはとうに眠っていた。眠る前に、鼻の布を外していいかと三度聞いて、三度目に許した。風上の夜は、匂いが薄い。毛布の中から半分だけ出た寝顔は、王都への旅のときより幼く見えた。往きの旅は、この子にとって二度目だ。一度目の王都行きで、この子は口を閉じることを覚えた。今度の旅で何を覚えるのかは、まだ分からない。
私は火に薪を足して、母のことを考えた。七年前、この道を、母は一人で歩いた。火を焚いたのだろうか。焚いたとして、誰も隣にいない火は、どれほどの広さを温めただろう。私の隣には寝息と、火の番を代わると言って聞かない人がいる。母の隣には、匙が一本あった。
「谷は、近い」
お読みくださりありがとうございます。
置いてある霧、という言い方は御者さんの受け売りです。山の霧には流れる霧と置いてある霧があって、置いてあるほうは匂いまで一緒に置いてあります。
馬が食べない草の群生地は、馬にとっては全部が警報です。人間より先に馬が止まる話は、山道の実話によくあります。
次回、霧が道を消します。見えない道を、見えない人が歩きます。




