第38話:峠の番小屋
登り道の一日目は、風の音を数えているうちに終わった。
街道が山肌に取りついてからは、馬車の揺れの質が変わった。石の上を行く硬い揺れに体の側が慣れるまで半日かかる。ニナは慣れる前に眠って慣れたころに起きて、起きた途端に鼻をひくつかせた。
「木の匂いが変わった。下の森と、違う木になった」
「針の葉の木です。高いところの木は、匂いが細くなります」
「細いっていうか、遠い。……あと、どっかで石が濡れてる」
半刻ほど先の沢の音がそれから聞こえてきた。この子の鼻は耳より先に水を見つける。ヨナスと隊のもう一人が交代で先を歩いて、レオハルト様は列のいちばん後ろを馬で行く。後ろが定位置なのは、列の全部が見える場所だからだと聞かなくても分かるようになった。
昼の休みに、ヨナスが遠慮がちに隣へ来て、器を両手で持ったまま聞いた。
「あの、ユーフェミアさん。峠の向こうって、どんなところなんですか」
「存じません。行ったことがありませんので」
「え。……え? それで行くんですか」
「行ったことのある場所にしか行けないのでは、誰も、どこへも行けません」
ヨナスはしばらく考えて、それから深く頷いた。頷いてから、考えた中身を全部顔に出したまま煮込みの妹の話を先に少しだけした。国境の兵は皆こうやって、山道の不安を別の話でくるんで運ぶのだと思う。私の受け答えも、たぶん同じ働きをしていた。
夜は道脇の岩陰で火を焚いた。私は七種の葉のうち、朝の葉を少しだけ煮出した。山の夜に淹れる茶は、店の茶と勝手が違う。湯が沸く前にぬるく落ち着いてしまうから、数える二百が当てにならない。
火の強さと鍋の口の広さで補って、それでも店の一杯の七割の出来だった。七割の茶を、隊の男たちは旨い旨いと飲んだ。旨さの三割は、山の冷えが足してくれている。
「閣下。お口に合いませんでしたら」
「いや」
レオハルト様は器を両手で包んでいらした。店では見ない持ち方だった。
「湯気が、手に当たる。山だと、これがよく分かる。……匂いは今日も出ないが、湯気の当たり方で、茶の濃さの見当がつくようになってきた」
「当たりますか」
「今日のは、いつもより軽い」
「七割です。当たっております」
分からないものが一つ増えた人は、分かるものを増やすしかない。その増やし方を、この方は山の上でもやめない。火の粉が爆ぜて、ニナがもう毛布の中で寝息を立てていた。
二日目の昼過ぎに、峠へ出た。
峠というものを、私は言葉でしか知らなかった。実物は道の頂きというより、山と山のあいだの風の通り道だった。両側から風が抜けて、抜けるたびに霧が千切れて、千切れた隙間から初めて北側の眺めが落ちてきた。段になった山肌と、その底に溜まった白。谷は、白の底にある。
母が越えたのはこの眺めで、越えた足はここで一度、止まっただろうか。止まらなかった気もする。あの人の荷は匙一本だった。
風の通り道の鞍部に、石積みの番小屋が立っていた。屋根が新しくて壁が古い。建て直した、というグレーテの言葉のとおりの姿だった。戸口の脇に検めの札の束が下がっていて、束の紐だけが真新しかった。ニナは小屋を一目見て煙突の煙の匂いで夕餉の中身を言い当てて、番人に気味悪がられる前に私が口を塞いだ。
番人はゼップという歳の分からない男の人だった。挨拶は頷き一つ。レオハルト様に対しても、頷きが少し深くなるだけだった。喋らない人かと思ったが、そうではなくて言葉を貯めておいて必要な分しか出さない人だった。通行帳を出せと言われると、奥から冊子を三冊年の順に並べて出した。
私は小屋の竈をお借りして、湯を沸かした。
番人の手は指の節が風の色になっていた。一年の半分を風の中で立っている手だ。こういう体に熱い茶は強すぎる。冷えた芯に熱を急に入れると、体の外側だけが汗をかいて、芯は冷えたまま残る。だから七十度。ぬるいと感じる一歩手前の、体が警戒しない熱さで、内側から順に温める。
ゼップは器を受け取って、一口飲んで、器を見た。それからもう一口飲んで、今度は長く、器を見た。
「……温い」
「はい。冷えた体には、温いのが効きます」
「知ってる」
番人は三口目を飲んでから、付け足した。
「前にも一度、同じ茶が出た」
通行帳は、レオハルト様が年の新しいほうから検めていった。この春からの北行きの荷、十一。筆はゼップのもので、字は小さく、几帳面で、荷の数と馬の数と天気まで書いてある。番人の帳面は番人に似る。
「昨日も一つ、北へ通ったな」
「通った。俵の空荷が六つ。帰りに詰めて下りる腹だ。札は付けた」
「王都の手形か」
「ああ。あの、忙しい字の」
ゼップの言い方に、私は思わず顔を上げた。忙しい字。私が文の主に付けた呼び名と、同じ見立てだった。字は人を映す。映った姿は、峠の上と茶房の卓で、同じに見えるらしい。
頁を遡ると、北行きの荷は年ごとに減っていた。三年前は年に六つ。五年前は十を超えている。谷の茶が細っていく形が、そのまま数字になって並んでいた。帳面は嘘をつかない。谷は、灰の葉の話が来るずっと前から、少しずつ痩せていたのだ。痩せた土地に、倍の値の話が来る。順番まで含めて、嫌な形をしていた。
「七年前の帳は、あるか」
ゼップは黙って、いちばん古い冊子の頁を、迷いなく一箇所開いた。迷いのなさが答えだった。この人は、その頁を何度も開いてきたのだ。
——秋。王都の女、北へ。荷は匙一本。
それだけだった。馬の数の欄は空で、天気の欄には風とだけある。私は文字の上に指を置いて、置いた指が震えないように、もう片方の手を添えた。
「荷は、匙一本」
「荷を検めたら、それしか持っていなかった。あとは着ている物と、葉の包みが一つ」
「葉の包み」
ゼップは立ち上がって、奥の棚のいちばん上から、油紙の包みを下ろしてきた。埃を払った跡があった。払い続けてきた跡だった。
「置いていった。番の礼だと言って。……俺は、茶を淹れん。淹れんが、捨てる物でもなかろう」
包みを開くと、七年分だけ痩せた葉が出てきた。香りはもう、骨だけになっている。それでも骨の形で分かる。霧の葉に、乾いた花を一つまみ。眠りの浅い人の花。母の帳面の、冬の頁の配合だった。
「ゼップさん。この葉の主は、あなたに、何か言いましたか」
番人は、貯めてある言葉の中から、いちばん古い一つを出すみたいに、少し間を置いた。
「言葉は、少なかった。あんたと同じで、聞けば答えるが、聞かんことは言わん人だった。……顔も、あんたに似ている。入ってきたときから、誰の身内かは分かっていた」
「では、なぜお聞きにならなかったのですか」
「聞かんことは、言わん人の身内だろう」
私は器に湯を足した。足す手が、少しだけ遅くなった。この番人は七年、聞かずに、葉の包みの埃だけを払ってきた。聞かない親切というものがある。私はそれを、この小屋で教わった。
「あの人は言った。『帰りに寄ります』と」
風が、小屋の戸を一度叩いた。
「……七年、来ない」
お読みくださりありがとうございます。
言葉を貯める人の帳面は正確です。ゼップの通行帳には天気の欄まであって、七年前の秋のその日は「風」でした。風の日に、匙一本で峠を越えた人がいます。
帰りに寄ります、という約束は、破られたままの形で番小屋の棚に置かれていました。捨てる物でもなかろう、はたぶん、番人の言葉でいちばん長い部類です。
次回、峠を下ります。下るほど、霧が濃くなります。




