第37話:では、行きましょう
出立まで三日、と決まってからの店は、旅支度より先に、留守の支度で騒がしくなった。
言い出したのはヘルタさんだった。前に店を閉めた四十二日のあいだこの街に飲める茶がなかったことを、あの人はまだ根に持っている。今度は許さないと宣言して、宿の帳場を昼だけ番頭に任せる算段までつけてきた。
「湯は沸かせるのよ、あたしだって。三十年、宿で客に白湯を出してきたんだから」
「白湯と茶は、別の飲み物です」
「分かってるわよ。だから葉っぱの置き場所と、量りだけ教えなさいな。難しい客はやらない。眠れないだの悲しいだのは、あんたが帰ってからまとめて聞かせるからそれまでの繋ぎ。……いい? この街はね、湯気が立ってれば保つの」
私は三種類だけ量りを教えることにした。朝の葉と昼の葉と、疲れた人の葉。竈の脇に貼り紙をして、匙のすり切りの高さを木べらに刻んで渡した。ヘルタさんは刻み目を親指でなぞって任された者の顔になった。
グレーテは屋敷から出入りの帳面を一冊持ってきて、店の隅の棚に置いた。留守のあいだ誰が来て何を飲んだか、全部つけておいてくれるという。
「お帰りになってから、お読みください。四十二日ぶんの噂話を一度に浴びるより、帳面のほうが体に優しゅうございます」
「……前回、浴びた側の言い方ですね」
「浴びました。それはもう」
戸口には、もう貼り紙の下書きができていた。グレーテの字で、こうあった。〈またしばらく閉めます。今度も閣下がご一緒です〉。
「グレーテさん。二行目は」
「大事でございます。この土地では、一行目より」
前にも同じことを思ったし、たぶん今回も、二行目のほうが大事なのだった。
ニナの話は、こじれる前に終わった。
私は正直、迷っていた。峠の向こうは地図が白い。白いところへ十四の子を連れて行く算段を口に出す前に何度も引っくり返した。留守番を頼むつもりで切り出すと、ニナは灰を掻く手を止めてこちらを見ずに言った。
「あたしの鼻、置いてくの」
「危ないから、置いていくのです」
「逆だよ」
灰かき棒が、竈の縁で、こん、と鳴った。
「霧の中で灰の葉の群れに突っ込む前に、いちばん先に気づくの、あたしだよ。ユーフェミア様の鼻は良いけど、あたしのは早いの。良いのと早いのは違うって、教えたのユーフェミア様じゃん」
「教えました」
「でしょ。だから、あたしの鼻、連れてきなよ。ついでにあたしも付いてくるから」
理屈が通っていて、悔しかった。
「……分かりました。見習いとしてではなく、同業者として、お連れします」
「どうぎょうしゃ」
「鼻の要る仕事に、鼻を持った人を頼む。それを同業者と言います」
ニナは灰かき棒を握ったまま、しばらく口の形だけでその言葉を繰り返していた。
悔しかったので荷物は自分で背負うこと、峠では黙って大人の後ろを歩くこと、知らない草を舐めないことの三つを約束させた。三つ目でニナは長いこと渋った。渋るところがこの子の鼻より正直だった。
それに、と私は口に出さずに数えた。この子を残していく先の街には、ロータルの革挟みがまた来ないともかぎらない。金貨で量る話になった舌を、留守の店に置いていく胆力は、私には無かった。連れて行く理由と置いていく理由を並べて、連れて行くほうが一つ重い。帳面ならそれで決まりだ。
荷造りでいちばん時間を食ったのは、着替えでも路銀でもなく、茶箱だった。
旅に持てる葉には限りがある。私は棚の前に立って、半刻かけて七種まで絞った。朝の葉と昼の葉。冷えた体を起こす実の皮。眠りの浅い人の花。それから霧の葉を多めに——谷の水は軽いとファルクさんが言っていたから、軽い水に負けない腰のある葉がいい。
湿気には蝋引きの布で包んで、匂い移りの順に箱へ詰める。強い匂いの物を下に、繊細な物を上に。この詰め順は母の帳面の旅の頁にあったもので、頁の端にはこうも書いてあった。葉は七種あれば、どこでも店が開ける。
七種選び終えてから、その一行のために自分が七種に絞ったのだと気がついた。帳面というものは、読んだ人の手を、書いた人の手に似せていく。
クヌートさんは昼に来て、何も言わずに小刀を一本、卓に置いていった。研ぎたてで、鞘は使い込んだ古い物だった。旅に行く者への、鋏研ぎの流儀の餞別なのだと思う。礼を言うと、老人は器の底を見たまま、山の草は硬い、とだけ言った。
ヨナスは隊の割り振りで峠まで同行が決まって、本人は任務の顔を作ろうと苦労していた。作りきれずに、口元がずっと嬉しそうだった。
出立の前の晩、店を閉めてから、レオハルト様が最後の一杯にいらした。
今日の葉は迷って、結局いつもの霧の葉にした。旅の前の晩に新しい味を試すものではない。変わらない一杯を出して変わらない三つを数えて、顎は上がらなかった。
「出ないな」
「はい。これで十二日です」
「向こうの水で、どうなるかだな」
レオハルト様は器を置いて卓の上の私の手元を見た。手元には油紙の包みがあった。棚の奥から出してきた母の匙。明日から、これは店の棚ではなく、私の胸元で北へ向かう。
「持っていくのか」
「はい。……これは道しるべですので。行き先が裏に彫ってある道しるべは、そうありません」
「そうだな」
湯気が細くなるまでしばらくどちらも黙っていた。沈黙の座り心地が悪くないことを、私はこの一年で覚えた。この方の沈黙は次の言葉を探している沈黙ではなくて、いまある言葉で足りている沈黙だ。
「閣下。ひとつ、申し上げておきます」
「なんだ」
「峠の荷の検めも、灰の葉の出どころも、谷の願い出も、全部本当です。ですが私は——」
一度、湯呑みの中の揺れが収まるのを待った。
「私は、母を、探しに行きます」
行かない理由を数えていた口で、とうとう言った。言ってしまえばたった一文だった。七年ぶんの重さがあるはずの一文は、口から出ると湯気と同じ速さで卓の上へ広がって、消えなかった。
レオハルト様は、頷きもしなかった。ただ器を取り上げて残りを飲み干して、いつもの声で言った。
「知っている。……最初から、君の用と、俺の用は同じ方角だ。都合がいい」
「都合、ですか」
「ああ。都合がいい。隣を歩く理由としては、それで足りる」
出立の朝は、霧だった。
街の霧としては濃いほうで、橋の向こうの屋根が半分溶けていた。荷馬車が二台、屋敷の門前に並び、ニナは約束どおり自分の荷を自分で背負って早くも眠そうだった。見送りは思ったより多かった。ヘルタさんが木べらを振り、ロッテさんが竹筒を二本押しつけるように寄越した。
レオハルト様は馬車ではなく馬だった。旅装のこの方を見るのは初めてで、初めて見る姿のほうが元の姿に見えるのは、この人が屋敷より道の上で生きてきた年数のほうが長いからだと思う。馬上から一同を見渡して、号令も挨拶もなく、ただ顎を一つ北へ振った。それで全部が動き出すのだから、号令とは声の大きさのことではないらしい。
「では、行きましょう」
誰にともなく言うと、隣の荷台でニナが毛布にくるまったまま片手を挙げた。
馬車が動き出して街の音が後ろへ流れていく。
北の空は、霧の白と同じ色をしていた。地図の白いところの色だと思ってから、それは考えすぎだと思い直した。霧はただの霧で、白紙はただの白紙だ。
それでも街道が山側へ折れて最初の登りにかかったとき——風が一度、北から抜けた。
霧の奥から、湯の匂いがした気がした。
お読みくださりありがとうございます。
留守の支度が旅支度より賑やかなのは、良い店の証だと思います。湯気が立ってれば保つ、というヘルタの店論は、たぶんこの物語ぜんぶの要約です。
「都合がいい」は、この寡黙な人の語彙の中では、かなり上等な部類の言葉です。
次回から第2章、峠道に入ります。最初の一杯は、番小屋の番人に。七年前の通行帳が、そこで待っています。




