第36話:三番の匙
文は、屋敷経由で届いた。
宛名は「ヴァイスバルト領 茶房 ユーフェミア・アルテンフェルト様」。差出の名は無く、王都の私印がひとつ。グレーテが盆に載せて運んできて盆ごと卓に置いて、離れずにそこに立った。屋敷の家令が離れない文というのは、屋敷が中身を案じている文ということだ。
紙は上等だった。上等な紙に、行間の詰まった、忙しい字が並んでいた。一画目が強くて終いが流れる。書きながらもう次の字を考えている手だ。読みながら、私はこの字の呼び方を先に決めた。湯を待たない字。
文面は、時候の挨拶を三行で済ませて、すぐ用件に入った。
——四番どの。ご高名はかねがね。王都で調茶の看板を預かる者として、一度ご挨拶をと思いながら、先に文にて失礼します。さて単刀直入にうかがいます。原方は、どこにありますか。
「げんぽう、って何」
盆の横からのぞき込んだニナが、眉を寄せた。
「元の方、と書いて原方。配合の、いちばん元になる書き付けのことです。写しではない、最初の一枚」
「それ、うちにあるの」
「ありません。……無いことを、私はつい先日まで、切り口の形でしか知りませんでした」
母の帳面から切り取られた一枚。あれを「原方」と呼ぶ者が、王都にいる。呼び名を知っているというのは、中身を知っているということだ。
文の署名の場所には、名前が無かった。代わりに、こうあった。
——王家調茶寮 三番。
「番号の話を、順にしてくださいな」
その晩、店じまいのあとでヘルタさんまで卓に居座った。文の噂はグレーテの盆から半日で街を一周して、夜には常連が三人湯ももらわずに座っていた。レオハルト様は戸口の定位置で腕を組んでいらした。
「王家調茶寮は、王家の茶を預かる寮です。人数は多くありません。寮に入ると、匙を一本与えられます。柄に、輪の中の王冠と、寮の名と、入った順の番号が刻まれます」
私は自分の匙を棚から出して、卓の真ん中に置いた。刻印の番号は、四。
「一番は先々代。匙に番号を刻むようになったのは、その方の代からだと教わりました。私は名も存じません。二番が、母イレーネ。そして私が、四番です」
「……三番は」
ヘルタさんが、皆の顔を代わりに聞いた。
「存じません。母が消えてから私が城に上がるまで、二年の空きがあります。その二年は誰の仕事でもなかったと、私は教えられてきました。ですが匙の番号は、嘘をつきません。二と四のあいだには、三が要ります。誰かが一度、寮に入って、匙を受け取っている」
ヘルタさんは腕を組んで、椅子の背を鳴らした。
「妙な話じゃないの。二年もやってた人がいるなら、なんであんたは教わってないのさ。城ってとこは、そんなに人の出入りが雑なの」
「雑ではありません。雑ではないからこそ、です。名簿から名前を消すには、名簿を預かる方の手が要ります。二年が『誰の仕事でもなかった』ことにされているなら、そうすることに決めた方が、上にいたのです」
「……やな話。続けて」
「で、その誰かさんが、いま王都で調茶の看板を出してると」
「署名が本当なら」
嘘の署名ならそれはそれで話が早い。けれどあの忙しい字は番号を騙る字ではなかった。騙る者は署名だけ丁寧に書く。あの署名は文のほかの字と同じ速さで、書き慣れた形に流れていた。三番、と名乗ることに、あの手は慣れている。
「ねえ」
ニナが卓の匙を、触らずに顔だけ近づけて見ていた。
「寮を出た人の匙って、どうなるの。返すの」
「返します。寮を離れる者は、匙を寮に納めて、番号ごと退きます。納められた匙は、寮の棚に戻ると教わりました」
「じゃあ三番の匙も、その棚にあるんだ」
「あるはずです」
言いながら私は自分の言葉に躓いた。あるはずの棚は、東の廊下の調合室の棚だ。あの部屋の扉には古い釘で板が打ちつけてあった。棚ごと、封じられている。誰かが、匙の並びを見られたくなかったのだとしたら——番号の欠けは、扉一枚で隠せる。
「ユーフェミア様。顔、こわい」
「そうですか」
「うん。考えごとの顔が、だんだん閣下に似てきてる」
それは聞き捨てならなかったが、聞き捨てることにした。
常連が帰ったあと、私は母の帳面をもう一度開いた。
探し物の当てはあった。鎮静の頁の欄外。母の字がいちばん小さくなる場所に、一行だけ、名前の入った書き込みがある。五年間、意味の分からないまま読み飛ばしてきた一行だ。
——ヴェンデル、匙を欲しがる。渡さない。
名前に、覚えがあった。帳面の字ではなく、耳のほうに。
十の歳だったと思う。母に連れられて一度だけ城の調合室に入ったことがある。東の廊下の突き当たりの、窓の高い部屋。母は私に隅の丸椅子を与えて、仕事のあいだ静かにしていなさいと言った。
そのとき部屋にもう一人いた。若い男の人で、母の隣で葉を量っていた。手際は良かった。良かったのに、母は一度だけ低い声で言った。
——待ちなさい、ヴェンデル。湯はまだ、二百に届いていません。
男の人は笑って何か軽い返事をして、届いていない湯を注いだ。あのときの少し焦げたような匂いの立ち方を、私の鼻はまだ覚えている。葉が湯に負けた匂い。急がされた葉の、悲鳴のような匂い。
母はその日、帰りの馬車で一度だけ言った。あの人は腕がいいの、と。腕がいいのにね、と。褒め言葉を二度言って、二度とも褒めていない言い方だった。
十の私は意味が分からず、窓の外の王都の屋根を数えていた。
いまなら分かる。腕は、待てない人のところでは半分しか働かない。母が渡さないと書いたのは、匙という物ではなくて匙に付いてくる立場のほうだ。王家の茶を、待てない手に任せるわけにはいかない——そういう一行を、母は帳面のいちばん小さい字で書いて、それきり誰にも説明しなかった。
説明されなかった側の男が、いま、原方を探している。
「返事は、書くのか」
翌る朝、レオハルト様が一杯目の器を置いてから聞いた。今日の顎は、上がらなかった。もう十日、出ていない。帳面の点が並ぶ。
「書きません。原方の在り処を、私は知りませんので。知らないことは、書けません」
「知らない、で済ませておく気か」
「いいえ」
答えてから、私は湯を確かめに竈へ立った。北行きの支度は、屋敷のほうで静かに進んでいる。峠までの馬と、番小屋への先触れと、留守の警備の割り振り。レオハルト様は昨日、隊の者への沙汰を済ませたと聞いた。国境の巡回を副官に預けるのは、この方の三年で初めてのことだそうだ。初めてのことを、この方は初めてらしくない顔でやる。
「閣下。出立は」
「三日後の朝と決めた。それまでに、店の側の段取りを終えてくれ」
「承知しました」
私は文を畳んで、帳面と同じ引き出しにしまった。しまってから、気づいた。文の最後に、追って書きが一行ある。畳み皺の内側に隠れるような場所に、忙しい字が、そこだけ少しゆっくり書いていた。
——なお、お母上が持ち出したものは、もともと寮のものです。お返しいただく日を、楽しみにしております。
持ち出した、と三番は書いた。
母が何を持って消えたのか、この街で知っているのは私だけだ。いや——私と、王都の誰かだけ、だ。
お読みくださりありがとうございます。
字は人を映します。湯を待たない字を書く人は、湯を待ちません。署名を番号で済ませる人は、名前より番号のほうが自分だと思っている人です。
二と四のあいだの三は、五年間、誰も口にしませんでした。口にされない番号は、消えたのではなく、しまわれていただけです。
次回、旅支度の話です。店を空ける段取りと、同行者がひとり増える話と。




