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第35話:灰の葉

その晩、店を閉めてから、母の帳面を卓に出した。


蝋燭を二本使うのは、うちでは贅沢の部類に入る。けれど母の字は後ろへ行くほど小さくなるから、一本の明かりでは読み落とす。読み落としてはいけない頁を、今夜は読むつもりだった。


鎮静の配合の頁は、帳面の真ん中より少し後ろにある。開くたびに思うのだが、この頁だけ紙の傷み方が違う。角が丸く綴じ元が緩み、頁の下の隅にだけ薄い染みがある。何百回も、たぶん何千回も親指で押さえて開かれた頁だ。三十一年ぶんの朝がこの一枚に通っている。


材の名は、王城の帳面と同じ雅な名で書いてある。その脇に、母の手で小さく、谷の呼び名が添えてあった。


——灰の葉。岩場のもの。霧の濃い年は強く出る。


続く数列は、私が五年間受け継いだ逓減の記録だ。四分の一匙から始まって八分の一へ。年に僅かずつ誰にも気づかれない速さで減らしていく。減らし方の刻みがあるところから急に細かくなる。細かくなった行の余白に、あの一文がある。これは、いずれ誰かが止めねばならない。


この頁を初めて開かされたのは、十四で城に上がった年の冬だった。教えてくれる母はもういなかったから、私は帳面から直接教わった。量り方も減らし方の刻みも、匙を拭く布の畳み方まで全部この頁の周りに書いてあった。


書いていない事柄は一つだけで、それは「なぜ」だった。なぜ王家の茶にこの草が入っているのか。なぜ減らさねばならないのか。十四の私は「なぜ」を飛ばして手順だけを覚えた。飛ばした「なぜ」は五年後の秋に、婚約破棄の壇の上でまとめて追いついてきた。


止めねばならない、の先が、この帳面には無い。あるべき場所に、切り口だけがある。


私は毛羽立った切り口を指でなぞって、それから帳面を閉じた。切り取られた一枚に何が書いてあったのか、五年考えて分からなかったことがこの数日で少しだけ形を持ち始めている。母は減らし方を書き残して、何かを書き残さなかった。減らし方が「止め方の半分」だとしたら、残りの半分を母は紙ごと持って北へ行ったのではないか。



翌る日は朝から風が南寄りで、店の湯の減りが早かった。風の向きで客の顔ぶれが変わる。南風の日は橋向こうの女たちが洗い物を早く終えるので昼前の卓が埋まる。


埋まった卓の噂話は今日も峠の話で、人足の賃金が上がったの荷馬の値まで上がったのと、銭の匂いのする話ばかりが行き交った。街というのは正直な生き物で、遠くで大きな銭が動くと届く前から産毛が立つ。


昼、レオハルト様が検めの札の初めの実りを持っていらした。


峠を今朝越えた荷が一つ。中身は乾いた草の俵が六つで、番人が札を付けて俵の口から一掴みぶんを預かった。卓の上の布包みを開くと、蔵に預けたあの包みと同じ黒っぽい乾いた草が出てきた。ただし、こちらは揉まれていない。刈って干しただけの、素性のままの姿だった。


「谷の北の岩場に群生している。ファルクの言ったとおりだ。手を入れんでも勝手に育つ。刈っても翌年また生える」


「作物として、都合が良すぎますね」


「ああ。茶の木は十年、こいつは一年だ。植え替えろと言われた家の算盤が、どちらへ傾くかは考えるまでもない」


私は乾いた草を一本つまんで茎の折れ口を確かめた。折れ口が白く粉を吹いている。この粉が、たぶん本体だ。葉のほうは香りの入れ物で、眠らせる力は茎の髄に溜まる。王城で量っていた粉の手触りと記憶の中で照らし合わせて、齟齬はなかった。


「閣下。これがどういう草か、うちの帳面の側から、順にご説明します」


ニナが盆を抱えたまま、店のいちばん遠い隅へ移った。あの子の鼻に、この草の説明は近くで聞かせられない。


「王家の茶には、三十一年前から、この草がごく僅かに入っておりました。先々代の調茶師の代に、王が眠れなくなって、四分の一匙から始まったと帳面にあります。以来、代々の調茶師の仕事は二つでした。今夜の分を量ること。そして、量を減らしていくこと」


「減らす、というのが分からん。効くなら、そのままでよかろう」


「効き続けないのです。この草は」


私は器を三つ、卓に並べた。湯は注がない。注がない器で、量の話をする。


「一つ目の器を、最初の年とします。四分の一匙でよく眠れます。二年目、同じ量では眠りが浅くなります。体が慣れるのです。三つ目の年、眠るためには半匙が要ります。……この階段は、上りしかありません。上るほど、朝が遠くなります。眠っているのではなく、目が覚めないだけの夜が増えます」


「下りる方法は」


「あります。一段ずつ、体に気づかれない速さで減らすことです。三十一年かけて上った階段を、母は七年で八分の一まで下ろし、私が五年で三十二分の一まで下ろしました。あと二年で、零になるはずでした」


「はずでした、か」


「私が城を出ましたので。階段の途中で、量る者がいなくなりました。……いなくなった段から人がどうなるかは、ヘルタさんの妹さんの手紙が教えてくれています。王都の眠れない方々は、いま、誰の量りも通らない包みで、あの階段を三段飛ばしに上っています」


自分の声が硬くなっているのが分かった。私が階段を下ろしていたことを王都の誰も知らない。知らないから、誰も引き継がない。引き継がれなかった仕事の跡地に看板だけが立った。調茶、という看板が。


レオハルト様は並んだ器を順に見て、それから、いちばん手前の空の器を指の背でそっと押した。


「……三年前の俺の毒は」


「同じ系統です。王都へ入る前の晩に申し上げたとおり、閣下を狙って作られた毒ではなく、王都から流れた同じ材でした。あのときは、それ以上の出どころを考えずにおりました。ですが」


卓の上の、刈ったままの灰の葉を見る。


「出どころは、育つ場所です。この草は、谷の岩場にしか育ちません」


「つまり三年前も、誰かがあの谷から運んだわけだ」


「はい。細く、少なく、目立たずに。……いまは俵で運ばれています」


店の中が、しばらく湯の音だけになった。レオハルト様は自分の器——空の三つではなく、いつもの一杯のほう——を取り上げて、飲み込んで、三つ待った。顎は上がらなかった。上がらないことを確かめてから、この方はいつもどおりの声で言った。


「今日も、出ない」


「はい」


「出ないが、分かったことがある。俺の三年は、あの岩場から始まっている。領主としては峠の荷を数えれば済む話だが——」


器が、卓に戻った。


「一人の男としては、その岩場を、自分の足で見たい。見に行く理由が、増えた」


レオハルト様が帰られたあと、隅からニナが戻ってきて、卓の上の空の器を三つ、まとめて洗い場へ運んだ。運びながら鼻の頭に皺を寄せたままだった。


「あの草、まだそこに匂い残ってる。器、置いただけなのに」


「洗ったら、酢で拭いてください」


「言われなくても。……ねえ、ユーフェミア様。あの草の話するとき、声、低くなるよ」


「そうですか」


「うん。帳面の話するときと、同じ低さ」


ニナは器を湯に沈めて、それきり何も言わなかった。私は卓を拭き終えてから、自分の指がまだ帳面の切り口の毛羽立ちを覚えていることに気がついた。低くなる声の出どころは、たぶんそこだ。

お読みくださりありがとうございます。


量の話を空の器でするのは、ユーフェミアの癖です。湯を注いだ器は美味しさの話になってしまうので、怖い話は空の器でやります。


上りしかない階段、という説明は帳面には書いてありません。書いてあるのは数列だけです。数列を階段として読めるのは、量る仕事を五年やった人だからです。


次回、王都から一通の文が届きます。差出人の署名は、名前ではなく、番号です。

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