第34話:買い付け人
例の包みは朝のうちに屋敷の蔵へ預けた。グレーテは中身を聞いて眉一つ動かさず、蔵のいちばん奥の酢の甕の隣に置いた。匂いの強い物の隣に置けば、匂いで人を引く物は働けない。この人の仕事の勘所はいつも置き場所にある。
店に戻ると、朝の口開けはクヌートさんだった。鋏研ぎの荷を担いだまま卓の端に座り、出された温い茶を長い時間かけて飲み、器の底が見えるころに一言だけ置いていった。橋向こうの刃物の注文が増えている、峠へ行く人足が増えたからだと。
この人の一言はいつも、研いだ刃物のように余計な部分がない。峠の向こうの銭の動きが、街の鋏の数にまで響き始めている。
昼を回ったころ、その男は入ってきた。
旅装なのに埃がなかった。埃のない旅装というのは、埃を払う小者を連れているという意味だ。歳は三十半ば。物腰は柔らかく、卓につく前に店の中を見た——ファルクさんと同じように、竈と湯と棚を順に。ただし見る目が違った。ファルクさんは物の扱いを見た。この人は物の値段を見ている。
「評判どおり、良いお店だ。一杯いただけますか。お任せで」
私は今日の霧の葉を淹れた。男は器を受け取って香りを確かめ、一口含んで少し目を細めた。
「渋みの角が落ちている。北の葉でここまで丸いのは初めてだ。湯は——八十より、少し下ですか」
「七十八度です。今日の葉は若いので」
「なるほど。数えて淹れる店は、王都にももう残っていない」
飲み方に素人の隙がなかった。器の持ち方も香りの確かめ方も、飲み込んでから息を鼻へ抜く間の取り方も、どれも茶の側の作法だった。茶を知っている人だ。そして茶を知っている人が知らない土地の茶房をまず褒めるときは、たいてい褒め終わったあとに用件が来る。褒め言葉は商人の前掛けのようなもので、締めてから仕事が始まる。
男は器を置いて、懐から折り畳んだ革の挟みを出した。
「ロータルと申します。王都で、買い付けを生業にしております」
「茶葉の、ですか」
「物は選びません。良い物と、良い物を作る道具と、道具を使う手。この三つなら何でも」
革挟みから出てきたのは、白い紙だった。金額の書かれていない、判だけが先に押してある手形。金額を書く欄が、こちらを向けて差し出された。
「アルテンフェルトの配合帳を、譲っていただきたい。値は、そちらがお書きください」
断りの言葉は、考えるまでもなく口にあった。けれど私は先に、聞いておくべきことを聞いた。
「どの帳面のことを、仰っていますか」
「先代さまの帳面です。イレーネさまの手のもの。当代さまの写しでも構いませんが、できれば元のほうを」
母の名をこの男は正しい響きで言った。王都でアルテンフェルトの名は、婚約破棄と一緒に埃をかぶったはずだ。その埃の下から母の名だけを正確に拾い上げてくる者が、いまうちの卓で茶を飲んでいる。
母の帳面は店の奥の私の部屋にある。革の背が柔らかくなるまで使い込まれ、頁の縁は指の脂で飴色になり、綴じ目には一枚ぶんの切り口が毛羽立ったまま残っている。あの帳面の値打ちを知る者は、切り口の意味まで知っているかもしれない。そう思ったら、断りの声が一段だけ低くなった。
「お断りします」
「値が欄に収まらないなら、手形を二枚にしても」
「値の話ではありません。帳面は、道具ではないのです。あれは母の手の記録で、記録は書いた手から離れると、読めない部分から順に嘘になります」
ロータルは怒らなかった。困りもしなかった。挟みに手形を戻し、代わりに次の話を出した。商人の荷は、いつも二段になっている。
「では、手のほうはいかがです。そちらのお嬢さん」
竈の前のニナが、ゆっくりと振り向いた。
「その舌と鼻。王都でなら、いまや値のつけようがない。眠りの茶の検めができる舌は、金貨で量る話になります」
「あたし、前も売れかけたんだよね」
ニナは布巾で手を拭きながら、心底うんざりした顔をした。
「前は銀貨六枚だった。金貨になったってことは、相場、上がってる?」
「上がっております。倍どころではなく」
「ふうん。……やだ。あんたのとこの葉っぱ、あたし嫌いだって、もう分かってるもん」
ロータルが初めて、ほんの少しだけ商いでない顔をした。嫌い、という値段のつかない言葉は、この人の帳面のどこにも書く欄がないのだと思う。
戸口で、影が立った。
レオハルト様が巡回の途中の立ち姿のまま、店の中のやり取りを聞いていらした。ロータルは椅子から立って綺麗な礼をした。綺麗すぎて、誰に習った礼か分からない礼だった。
「ヴァイスバルト辺境伯とお見受けします。お噂は」
「峠の手形を書いているのは、お前か」
挨拶を切ってレオハルト様は懐から通行帳の写しを出した。この春からの北行きの荷、十一のうち八つ。卓の上に広げられた写しの筆跡と、さっき革挟みに戻された手形の筆跡が、素人目にも同じだった。
「私の手です。お恥ずかしい。手形の字だけは、人に任せられない性分で」
「谷で買っているのは、灰の葉だな」
「はい。良い草です。よく効いて、よく売れる」
悪びれる隙間がどこにもなかった。ロータルは荷を検められた商人の顔ではなく、帳簿を見せる番頭の顔で、すらすらと数字まで並べた。谷の買値、王都の売値、来月からの先物。乾いた俵で幾ら、揉んで包んで幾ら、辻の店に卸して幾らと続く。
数字は綺麗に揃っていて、聞いているだけで銭の川が峠を越えて流れていく音が見えるようだった。
ただ、揃った勘定のどこにも、飲む人の朝が入っていなかった。仕入れの欄と売りの欄のあいだに、本当なら人が寝て起きる欄が要るのに、この帳簿はそこを白いまま飛ばして合計に進む。
「良い草、と言ったな」私は口を挟んだ。「あれを続けて飲んだ人が、朝、起きられなくなっています」
「量の問題です。量は、飲む方の裁量ですから」
「量りを知らない人に袋で売るのは、裁量とは呼びません」
「手厳しい」
ロータルは笑って茶代を卓に置いた。置いた銀貨は一枚で、うちの茶の値のきっちり十倍だった。多く払う客は、多く払ったことを覚えていてほしい客だ。私は釣りを数え始めた。きっちり、九枚ぶん。
レオハルト様は写しを畳んで、それを追いはしなかった。谷は領の外で、買い付けそのものは罪ではない。罪ではない物事が積み重なって、どこかの誰かの朝が消えている。領主にできるのは道の数を数えることまでで、この方は自分にできることの境目を正確に知っている人だ。知っていて、境目のこちら側を一歩も引かない人でもある。
「ロータル。峠の道は俺の道だ。次に通る荷から、検めの札を付けさせてもらう」
「結構です。うちの荷は、検められて困る物を運びません。……困るのはたぶん、荷ではなく、行く先のほうでしょう」
「またうかがいます。帳面のお気持ちが変わったら——ああ、それと」
戸口で、男は思い出したように振り返った。思い出したように見せる振り返り方だった。
「主が、よろしくと申しておりました。主は、あなたのお母上を、よくご存じだ」
お読みくださりありがとうございます。
値札のない手形というのは、いちばん高い値札です。あれを出されて気持ちのいい人と、腹の立つ人がいて、ユーフェミアは後者でした。帳面は道具ではない、という言い分は、帳面を書いたことのある人にはたぶん通じます。
ニナの「嫌い」に欄がないのは、ロータルの帳簿の唯一の欠陥です。本人はまだ欠陥だと気づいていません。
次回、灰の葉という草の素性を、この店の帳面のほうから調べます。五年量り続けた人の調べ方で。




