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第33話:眠りの茶

朝のうちに昨日のファルクさんが谷へ発っていった。峠までの荷馬車に乗せてもらえることになったと、わざわざ報せに寄って店の前で深く頭を下げて行った。願い出というのは出して終わりではなく出したあとのほうが長い。谷の返事を待つ側になった若者の背中は、来た日より少しだけ重そうに見えた。


その背中と入れ替わるように、ヘルタさんは手紙を振りかざして入ってきた。挨拶より先に用件が来るのはいつものことで、今日は用件より先に紙が来た。


「妹からよ。読んで」


「私が読むのですか」


「あの子の字は細かいの。あたしは声に出されたほうが頭に入る」


ヘルタさんの妹さんは、王都の鐘楼脇で宿をやっている。姉妹で三十年、北と南で同じ商売をしていることになる。手紙は宿の繁忙の話から始まって、二枚目の途中から字の間隔が急に詰まった。人は本題に入ると字が細かくなる。


読み上げながら、私は自分の声が平らであることを、途中から意識しなければならなかった。


——近ごろ王都では、眠りの茶というものが流行っている。茶葉屋ではなく薬種屋でもなく、新しい店が辻ごとに包みを売る。よく眠れると評判で、うちの泊まり客も買ってくる。たしかによく眠る。眠るのだが、朝、起きてこない。揺すっても半刻は戻らない客が、この月だけで二人いた。


——番頭は流行り病かと言うが、わたしは茶のほうが怪しいと思っている。姉さんの街の、例の茶房の先生に聞いてもらえないか——。


「例の茶房の先生ですって」


ヘルタさんは自分の器を引き寄せて、勝手に注ぎ足した。


「で、どうなの。茶で、朝が消えるなんてことがあるの」


「茶では、起きません」


「茶では、ってことは」


「茶でないものなら、起きます」


ヘルタさんが帰ったあと、私は手紙の二枚目をもう一度、今度は声に出さずに読んだ。


王都では誰も眠れなくなっている、と聞いたのは去年の話だ。王家の茶から香りが消え、鎮静の配合が絶え、城の上のほうから順に夜が浅くなった。


あの香りは戻りません——私がそう告げて去った国は、一年かけて眠りを銭で買う工夫を覚えたらしい。工夫そのものは責められない。眠れない人は眠るためなら何でも買う。責められるとすれば、売る側の量りだ。


三十二分の一匙。私が最後に量っていた分量を、いまの王都の包みが守っているとは、手紙の「半刻戻らない」が思わせてくれなかった。



その茶でないものは、昼過ぎに、向こうから歩いてきた。


行商のハンネスさんが背中の荷を下ろして、いちばん上の包みを卓に置いたのだ。月に二度の王都の噂と一緒に、今日は現物を運んできた。


「王都土産です、奥さん」


「奥さんではありません」


「これがいま王都で飛ぶように売れてる。眠りの茶。話の種に一包み買ってきた——んですが、どうも俺は、これが好きになれない」


「お飲みになったのですか」


「一口だけ。よく眠れました。眠れたのに、翌朝の目覚めが、こう……借金の残ってる目覚めでした」


うまいことを言う。私は包みの紐を解いた。


解く前から鼻の奥に見当はついていた。紙の合わせ目から漏れてくる匂いがある。雨の日に竈の灰が湿ったときの匂い。土でも葉でもなく、灰。


中身は黒っぽく乾いた草だった。茶葉の形に揉んではあるが、揉んだ手は葉を知らない手だ。よじれが浅く乾きが急で、香りの底が抜けている。手のひらに載せて崩すと、灰の匂いの奥からうっすらと甘い、眠たい匂いが立った。


そこまで確かめたところで、竈の前のニナが盆を置いて、大股で三歩こちらへ来た。来て包みの上に鼻を寄せて、寄せた瞬間に三歩ぶんそのまま下がった。


「なにそれ。やだ、それ」


「どう、やなのです」


「分かんない。……喉の奥が、勝手にあくびする。葉っぱの匂いじゃない。あたし、それ嫌い」


ニナは店のいちばん遠い隅へ行って濡れ布巾を鼻に当てた。この子の鼻は、私の言葉より正確に物を言う。喉が勝手にあくびをする匂い。嗅いだだけで体が眠りの側へ引かれる、ということだ。私は包みを紐で二重に縛り直して棚のいちばん高いところへ上げた。


この匂いを、私は五年間、毎朝量ってきた。


王家の茶に入っていた鎮静の配合。その主材。母が四半匙を八分の一に減らし、私が十六分の一を三十二分の一に減らした、あの草。王城の帳面では別の雅な名で呼ばれていたけれど、乾かす前の姿は見たことがなかった。そして昨日、谷の若者が言った草の名がこの匂いにそのまま重なった。


灰みたいな匂いがするんで——灰の葉。


「ハンネスさん。これは、茶ではありません」


「でしょうね。で、何です」


「眠らせる草です。王家の茶に、ごく僅かだけ入っていたもの。僅かなら、眠りの底を静かにします。この包みの濃さは——僅かでは、ありません」


ハンネスさんは包みを摘まみ上げて、遠くから眺めた。


「こいつは、飲み続けると、どうなるんです」


「効かなくなります。効かなくなった人は、量を増やします」


「増やすと」


「朝が、遠くなります」



夕刻、レオハルト様がいらした。峠道の荷の調べは早くも動き始めていて、番小屋の通行帳の写しが今朝屋敷に届いたという。この春からの北行きの荷は十一。うち八つが同じ筆の手形で、行き先はどれもグラウフェルト。帰りの荷は乾いた草の俵だと番人が覚えていた。


私は包みを棚から下ろして卓に置き、昼からのことを順に話した。王都で売られている物と、谷で植えろと言われている物が、同じ草の名で繋がったことは早いほうがいい報せだった。


レオハルト様は包みを開けて、顔を近づけて、それから静かに戻した。


「……匂いを、説明してくれ」


一瞬、言葉が遅れた。この方は自分の鼻で確かめられない。確かめられないまま、領の道を通る荷の正体を判断しなければならない。


「雨の日の、湿った灰です。その奥に、甘いような、眠たいような」


「眠たい匂い、というのがあるのか」


「ございます。嗅ぐと顎の力が抜ける匂いです。……閣下の三年前の毒も、これと同じ系統でした。王都へ入る前の晩に、申し上げた話のとおりに」


「覚えている」


レオハルト様は器の茶を一口飲んで、いつもの三つを待って、それから言った。


「つまり俺は、その眠たい匂いに、一度殺されかけたわけだ」


「はい」


「今も分からんまま、隣に置いている」


「はい」


「……君が隣にいてよかったな」


それは茶の感想ではなかったと思う。私は器に湯を足すことで、返事の代わりにした。湯音が細く鳴り、湯気がいつもの高さまで立ち、店の中の匂いが茶の側に戻ってくる。


棚の上の包みは紐を二重にしてもまだそこにあって、そこにあるというだけで、店の空気の隅が一箇所だけ眠たかった。明日には屋敷の蔵へ預けようと決めた。うちの棚は、眠らせる物を置く棚ではない。


ハンネスさんが荷をまとめながら、思い出したように振り返った。


「そうだ、言い忘れてた。奥さん——じゃない、先生。王都じゃこれを、なんて呼んで売ってると思います」


「眠りの茶、では」


「それは客の呼び名で。店の看板にはこうあるんです。『調茶』と」

お読みくださりありがとうございます。


朝が借金になる、という言い方はハンネスの発明ですが、実際この草の勘定はそういう仕組みです。今夜の眠りを前借りして、利子は明日の朝から引かれます。貸主は、取り立ての日まで顔を見せません。


ユーフェミアが五年量り続けた草は、量る人の手を離れて、看板を掲げました。


次回、その看板の店から、買い付け人がこの街へ来ます。欲しがっているのは葉ではなく、帳面です。

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