第32話:二百二十を数える男
朝のうちに雨が通って、昼には橋の板が乾き始めていた。こういう日は匂いがよく動く。店の中の葉の匂いが戸の外まで届くから、初めての客が迷わずに入ってくる。
その客は、戸口で雪靴の紐を解いてから入ってきた。
この街の人は夏に雪靴を履かない。革の当てが厚く爪先が上へ反った、岩場を歩くための靴だった。背負い籠を戸の脇に下ろして、卓につく前に店の中を一度ぐるりと見た。竈と湯と棚の葉を、順に。物を見る順番で、その人の生業は半分分かる。この人は茶を扱う手の人だ。
「湯を、もらえますか」
「茶ではなく、ですか」
「湯だけで。葉は、持っています」
若い男だった。二十歳前だろう。日に灼けた首と、指の腹の固そうな手。懐から出した布包みをほどくと、よじれの強い見慣れない揉み方の葉が出てきた。香りが立つ前から私は少し落ち着かなくなった。霧の葉に似ている。似ているのに、うちの棚のどの葉とも違う。
湯を渡すと、男は器に手をかざして湯気の高さを確かめ、それから葉を入れて、目を閉じた。
唇が、小さく動いている。
数えているのだ。私も釣られて、頭の中で一緒に数えた。二百で、男の目は開かなかった。二百十。二百二十。そこで目が開いて、器が持ち上がった。
「……二百二十」
思わず声に出すと、男は驚いた顔をした。
「分かるんですか」
「唇が動いておりましたので。うちでは二百で止めます。八十度の湯なら」
「谷では二百二十です。水が軽いから。……あんた、数える人だ」
男はそう言って、初めて少し笑った。ファルクと名乗った。峠の向こう、グラウフェルトの谷の生まれで、茶摘みの家の息子だという。
私は自分の手が静かなことを、確かめなければならなかった。谷。地図の白いところの、手前の最後の字。
「その数え方は、どなたに習いましたか」
「茶婆に」
「ちゃばあ」
「谷の婆さまです。皆そう呼びます。谷の者は、湯の数え方も、葉の揉み方も、たいていあの人に習う」
ファルクは自分の器に湯を足して、二杯目は数えずに、ただ待った。二杯目の待ち方まで、様になっていた。
「変わった婆さまでね。人の話を、何も聞かないんです。悩みごとを持っていっても、うん、とも言わない。ただ、ぬるい茶が出てくる。ぬるいのに、なんだか収まりのいい茶が」
竈の前で、ニナの手が止まったのが分かった。
ぬるくして、何も聞かない。
クヌートさんの声が耳の奥で二度、繰り返された。あんたの母親も、こういう淹れ方をした——二度言うことは、たいてい本当だ。
「ファルクさん。その葉を、少しだけ分けていただけますか」
布包みから出た葉を、私は手のひらで転がしてから鼻へ運んだ。よじれの奥から立ってくるのは、雨が上がったすぐあとの石の匂いだった。うちの棚の霧の葉と同じ系統の、けれどもっと古い匂い。うちの霧の葉が若い弟子なら、これは師匠の手つきをしている。渋みの角が最初から落ちていて、湯を注ぐ前からもう伸びていく先の見当がつく。
「……いい葉です。谷の霧は、うちの街の霧より深いのですね」
「夏でも、昼まで晴れません。爺さまは、霧が葉を揉むんだと言ってました」
霧が葉を揉む。うちの棚に置きたい言葉だった。北の霧が渋みを落とすことを、私はこの冬に配合で確かめたけれど、谷の人たちは百年、体で知っていたわけだ。同じことを知るのでも知り方に年季の差がある。
「ファルクさん」
「はい」
「今日は、湯を飲みにいらしたのではありませんね」
若い男は器を置いて、背筋を伸ばした。伸ばすと、日に灼けた顔の中の目が、急に真剣になった。
「辺境伯さまに、願い出に来ました。谷の茶が、売れなくなったんです」
話は、順を追うと単純で、順を追うほど嫌な形をしていた。
谷の葉は細々とだが売れてきた。峠を越えて月に一度、仲買が来る。それが今年に入って、来るたびに値を下げた。葉が悪いのではない。買い手が要らないと言っている、と仲買は言う。
そして値下げと入れ替わりに、別の話が来た。茶の木を抜いて、灰の葉を植えろ。灰の葉なら、いくらでも倍の値で買う。
「灰の葉というのは」
「谷の北の岩場に、勝手に生えてる草です。誰も摘まなかった。煮出すと、灰みたいな匂いがするんで」
「それを、倍の値で」
「変でしょう。誰も飲まなかった草ですよ。でも、頭数のいる家から順に、畑を返し始めてる。谷の冬は、銭の埋め合わせが利かないから」
ファルクは膝の上で拳を握った。
「茶の木は、抜いたら十年戻らない。爺さまが植えた木です。俺は抜きたくない。だから、峠のこっち側の殿さまに、谷を見てほしくて」
「その願い、届け先はすぐそこにあります」
ニナが竈の前から、顎で戸口を指した。
戸口の椅子で、レオハルト様が器を持ったままこちらを向いていらした。いつからか、たぶん最初からだ。ファルクが雪靴の紐を解いている時から、この方はそこにいた。
「へ」
「ヴァイスバルト辺境伯。うちの常連」
ファルクは立ち上がって椅子を倒しかけて、倒れる前に自分で掴んだ。掴んだまま礼の形が思い出せずに固まっている若者を、レオハルト様は器を持ったまま眺めていた。急かしもしないし助け舟も出さない。この方は人が立て直すのを待てる人で、待てるというのはそれだけで一つの技だ。
レオハルト様は、卓を一つ挟んでファルクの話をもう一度、最初から聞いた。聞き終えるまで、一度も口を挟まなかった。
「谷は、俺の領の外だ」
「……はい。それは、谷の者も」
「だが峠道は俺の道だ。その道を、素性の分からん荷が月に三度通る。領主が数を確かめる理由には足りる」
ファルクの顔が、そのままの形で明るくなった。単純で、いい顔だった。
「葉を、少し置いていけ。それと、買い付けに来る者の名を、覚えている限り」
「名乗らないんです、あの人たち。手形だけ置いていく。王都の判のある手形を」
「手形は残っているか」
「谷の寄り合いが持ってます。誰も読めないまま」
「なら読める者を連れて行けばいい話だ」
レオハルト様は懐から小さな帳面を出して、短い言葉で幾つか書き付けた。荷の数と月と峠の名。この方の帳面は字が大きくて頁の余白が広い。書いてある量は少ないのに、あとから読んだ人間が迷わない書き方をする。グレーテの出入り帳と同じ流儀で、つまりこの屋敷の流儀なのだと思う。
ファルクは自分の願いが紙の上で形になっていくのを、じっと見ていた。谷から峠を越えて三日歩いてきた願いが、卓一つ分の距離で領主の帳面に載った。世の中の願いの大半は、この卓一つ分の距離が越えられずに消えていく。
「今夜は橋向こうの宿に泊まれ。女将にヴァイスバルトの名を出していい」
「……ありがとうございます。あの、お代は」
「茶代なら店に払え。俺は道の数を確かめるだけだ」
私は洗い場で手を拭いて、それから聞くつもりのなかったことを聞いた。聞かずに今日を終える手も、あったのだけれど。
「ファルクさん。茶婆というお方は——お幾つくらいの、どんな方ですか」
「歳は知りません。白髪で、背がしゃんとしてて」
若者は器の底の葉を見ながら、思い出す顔になった。
「そうだ。字を書くんです、あの人。谷の者は誰も読めない字を。荷の札にも、帳面にも」
「読めない字」
「王都の字だって、行商が言ってました。谷の婆さまが、なんで王都の字を書くんだか」
お読みくださりありがとうございます。
湯だけを頼む客は、葉に自信のある客です。数えて待てる客は、待った先に何があるか知っている客です。ファルクは十九歳ですが、待ち方だけなら王都の茶会の誰より年季が入っています。教えた人がいい先生だったのだと思います。
ぬるくして、何も聞かない。その淹れ方を、この店の常連は一人だけ知っています。
次回、王都から別の風が届きます。眠りの茶、という売り文句の話です。




