第31話:白い地図
店を開ける前に、匙の裏を見る。
いつからそうしているのか自分でも分からない。棚の奥から油紙の包みを出してほどいて、裏の細い彫りに朝の光を当てる。グラウフェルト。後ろへ行くほど小さくなる母の字を端から端まで目でなぞる。なぞり終えたら油紙に戻して、棚の奥へ置く。置いてから、湯を沸かす。
順番は毎朝同じだ。祈りに似ているが、祈りではないと思う。祈りなら目を閉じる。私は開けて、確かめている。
「また見てる」
ニナが竈の灰を掻き出しながら言った。灰は毎朝この子の仕事で、掻き方で機嫌が分かる。今朝は雑だった。
「見ていません。確かめただけです」
「毎朝確かめるのを、世間では見てるって言うんだよ」
店を再び開けて、今日で六日になる。最初の日に十一人並んだ行列は、三日目には落ち着いていつもの順番に戻った。朝はヘルタさん、昼前に守備隊の非番、午後に街の女たち。
四十二日閉めた分の噂話が、まだ卓の上に少し残っている。王都の話は皆聞きたがって、聞いたそばから忘れていった。この街の人にとって、王都は天気の悪い遠い土地でしかない。それでいいと思う。
戸を開けると、外に産婆のロッテさんが立っていた。立ったまま、目を閉じていた。
「ロッテさん」
「……起きてるよ」
起きている人はそう言わない。中へ入れて、卓ではなく竈に近い椅子に座らせた。夜通し外にいた人は口で何と言おうと、まず背中が冷えている。上着の肩に朝露の跡が丸く残っていて、外で夜を越した長さがそれで分かった。
「橋向こうの双子でね。夜中から明け方まで。二人とも、よく泣く子だった」
「おめでとうございます」
「ありがとう。……濃いのをおくれ。まだ寝られないんだ。昼にもう一軒、様子を見に行く」
私は葉を量りながら、少しだけ考えた。濃い茶はロッテさんを昼まで立たせる。そして昼過ぎに、立ったまま倒れさせる。徹夜の体に濃い茶を続けて入れるのは、坂道で荷馬を鞭打つのと同じだ。坂の上までは保つ。上で膝が折れる。
だから器を二つ使うことにした。一つ目は濃く、熱く、いま飲む分。二つ目は温くて薄い分を竹の筒に詰めて、口を蝋で止めた。様子見が終わって家の戸を閉めてから飲むように言うと、ロッテさんは筒を耳の横で振って笑った。
「あんた、うちの仕事まで段取るのかい」
「段取りません。今日の分をお出しするだけです」
「その台詞、母親そっくりの顔で言うね」
ロッテさんは何気なく言って濃いほうを一息に飲んだ。私は何気なく聞き流すのに、二つ数えるぶんの間が要った。この街には、母を覚えている人が思っているより多い。
レオハルト様は開店から半刻ほどして戸口の椅子にいらした。街へ戻ってから、この方の朝はまた道の途中になっている。巡回の順路が店の前を通るように引き直されたことを、私は知っているが聞かないことにしている。
一杯目を出す。今日の葉は谷寄りの霧の葉に、乾いた実の皮をひとつまみ。飲み込んで三つ数えるあいだ、私はその喉を見る。顎は、上がらなかった。
「今日は、出ない」
「はい」
「昨日も出なかった」
「はい。二日続きです」
「数えているのか」
「帳面につけております。出た日と、出ない日と、その日の葉と、湯の数と、天気を」
嘘ではない。店の帳面の最後の頁に、私はこの半年の分を線で引いて残している。出た日には丸、出ない日には点。丸は二十日に三つか四つ。並べて眺めても、まだ法則は見えない。雨の翌日に多い気がするだけで気のせいと言われれば引き下がる程度の偏りだ。
レオハルト様は器を持ったまま、少しだけ黙った。
「……俺の体の帳面が、この店にあるのか」
「お嫌でしたら、焼きます」
「いや」
器が卓に戻った。
「続けてくれ。俺には、つけられない帳面だ」
昼前には守備隊の非番が三人来て、いちばん若いヨナスが器を受け取りながら聞いてもいない話を置いていった。北の峠道で、このごろ荷が増えているらしい。王都の紋のない、けれど王都の匂いのする荷馬車が、月に二度も三度も峠を越えていくという。
「峠の向こうに、買う物なんてあったかなって、隊で話してるんです。あっちは茶の谷が一つあるきりで」
「茶の谷、ですか」
「昔からそう呼ぶだけです。俺も行ったことはないですけど」
ヨナスは器を返して、慌ただしく橋のほうへ戻っていった。私は空いた器を洗いながら荷馬車の数を頭の隅で数え直していた。買う物のない谷へ、月に三度、荷が向かう。数の合わない話は、帳面の付け間違いか、誰かが数を隠しているかの、どちらかだ。
昼下がりに、屋敷から借りた物が届いた。領の地図だった。
グレーテが自ら抱えてきて卓を一つ空けさせ、その上に広げた。羊皮紙の四隅が癖で反っていて、ニナが両端に湯呑みを置いて押さえた。地図を借りたいと屋敷に頼んだのは三日前で、グレーテは理由を聞かずに今日持ってきた。
ヴァイスバルトの街がある。橋があり、北へ向かう道が一本、山へ入っていく。道は峠でいちばん細くなり、峠に小さく番小屋の印がある。その先の谷あいに、小さな字でグラウフェルトとあった。
そこから先は、白かった。
道の線は霧の絵にのまれて途切れて、あとは羊皮紙の地のままだ。測った者がいないのだ。地図というものは、誰かが歩いて、帰ってきて、描いた分しか埋まらない。白いというのは、何も無いという意味ではない。帰って描いた人がいない、という意味だ。
私は癖で数えていた。街から峠まで、荷馬車の足でおよそ一日半。峠から谷まで、下りで一日。合わせて三日弱。七年前の母は、この道を歩いたはずだ。荷は匙一本と、切り取った紙が一枚。軽い荷だ。軽い荷で行く人は、遠くまで行く。
「ここまでは、道があるのですね」
「峠までは番小屋がございます。冬のあいだは閉じますが、いまの季節なら人が置かれております」
グレーテは地図の白いところを、指で示しはしなかった。示す物が無いのだから、当然だった。
ニナが湯呑みの位置を直しながら、地図をのぞき込んだ。
「ねえ。行くの?」
「店があります」
「聞いてない。行くの? って聞いた」
私は白いところを見ていた。
「……母は、生きて、ここから北へ行きました。七年前に。それきりです」
言葉にしたのは、初めてだった。ニナにも、誰にも、母の話は匙の話までしかしてこなかった。
死んだかもしれない、とは言わなかった。匙の刻印を削って、行き先を裏に彫って、床下に残していく人は、帰るつもりの支度をしていない。けれど、死ぬつもりの支度でもない。あれは、届けるつもりの支度だ。誰にかは、まだ分からないけれど。
「七年って、あたしの半分だ」
「そうですね」
「長いね」
「長いです」
ニナはそれ以上聞かなかった。代わりに湯呑みを持ち上げて、地図の端がぱたんと反り返った。白いところが折れて、見えなくなった。
「今日はもう店じまい。目が疲れる地図だった」
夕方、グレーテが地図を引き取りに来た。
丁寧に巻いて、紐をかけて、抱え直して、それから、いつもの簡潔な声で言った。
「ユーフェミア様。北の道なら、閣下がいちばんご存じですよ」
「存じております。国境の巡回で」
「はい。峠の番小屋も、閣下の代で建て直しました」
紐の結び目が、きゅ、と鳴った。
「……お聞きにならないのですか」
お読みくださりありがとうございます。
第2部の一話目でした。店は元どおり開いて、匙は棚の奥にあって、ユーフェミアは毎朝それを確かめてから湯を沸かします。行かない理由を先に言う人は、たいてい行きたい人です。
地図の白いところは「何も無い場所」ではなく「帰って描いた人がいない場所」です。この言い分けが、第2部のあいだずっと効いてきます。
次回、その白いところから、お客が来ます。湯を頼んで、自分で淹れて、二百二十を数える人です。




