第30話:北へ帰る
九日目の夕方に、匂いが変わった。
石と煙の匂いが薄れて、湿った木と、冷えた土の匂いが混ざり始める。馬車の窓を指の幅だけ開けると、頬に触れる空気の重さが違った。北の霧はまだ見えないのに、霧のいる場所の匂いだけが先に届いていた。
「ニナ。窓を」
「開けてるってば。さっきから」
ニナは窓枠に顎を乗せたまま動かなかった。王都では一度も窓を開けなかった子が、九日目には犬のような顔をしていた。
レオハルト様は向かいで腕を組んで、目を閉じていらした。眠ってはいなかった。この方は馬車の中で一度も眠らない。眠らないまま十日、王都まで往復した。
「閣下。匂いが変わりました」
「そうか」
彼は目を開けなかった。
「俺には分からん。だが、道の音が変わった。石畳が終わった」
私は少し驚いて、それから、そうかと思った。この方は三年、匂い以外の全部で世界を確かめてきたのだ。道の音、風の当たり方、部下の歩幅。分からないものが一つ増えた人は、分かるものを増やすしかない。
「閣下」
「なんだ」
「王都では、一度も出ませんでした」
「ああ」
「戻ってから、出るとはかぎりません。水が変わっても、体のほうは変わっておりませんので」
「かまわん」
彼は組んでいた腕をほどいた。
「出る日と出ない日がある、というのは、三年前には無かったことだ。無かったものが二つに増えた。それでいい」
ニナが窓から顔を戻して、じろりと彼を見た。
「辺境伯サマ、旅の間で一番喋った」
「そうか」
「うん。あと九日で、たぶん三十回」
「多いのか」
「ふつうの人の、二日ぶん」
十日目の昼過ぎに、街が見えた。
門のところにグレーテが立っていて、馬車が止まるより先に戸を開けた。
「お帰りなさいませ。ユーフェミア様、お痩せになりましたね」
「王都の水が硬うございました」
「まあ。それが理由でございますか」
「それが理由でございます」
茶房の戸には、グレーテの字で貼り紙が出ていた。〈しばらく閉めます。閣下も一緒です〉。二行目が余計だと思ったが、たぶんこの土地では二行目のほうが大事だった。
翌朝、私は戸を開けた。
開けきる前に、外に人が立っているのが見えた。宿のヘルタさんが一番前で、その後ろに、国境守備隊のヨナス、それから弔いの帰りにいつも寄る老人のクヌートさん。数えて十一人。うちの卓は六つしかない。
「並ばないでください」
私はそう言うつもりだった。言う前に、ヘルタさんが先に喋った。
「四十日よ。四十日、この街に飲めるお茶がなかったの」
「四十二日でございます」
「そういうところ、変わってないわねえ」
ニナが竈の前で肩を回した。
「ヘルタさん。一番は無理。うちは湯の沸いた順」
湯を沸かし、葉を出した。北の水が湯になる音は、王都のそれより低い。二百を数えるあいだ、店の中は妙に静かで、誰も喋らずに私の手を見ていた。
三杯目を受け取ったのは、クヌートさんだった。この人はいつも何も頼まず、卓の端に座って、出されたものを長い時間かけて飲む。
「ぬるいな」
「はい。ぬるくしております」
「あんたの母親も、こういう淹れ方をした」
「以前もそう仰いました」
「言ったか」
「はい。冬の初めに」
老人は器を両手で包んだまま、少し笑った。
「じゃあ、二度言ったことになる。二度言うことは、たいてい本当だ」
四杯目を出したあたりで、ヨナスが遠慮がちに口を開いた。
「あの、閣下」
戸口の椅子に、レオハルト様が座っていらした。街へ帰った翌朝から、もう道の途中だった。
「なんだ」
「王都で……その、閣下はもう、治られたので」
店の中の音が減った。
三年、この人は部下の前で「分からない」と言わなかった。ヨナスがそう言っていたのを、私は覚えている。あの日この店で一度だけ漏れたのを、この人は聞いて、隊の誰にも持ち帰らなかった。だからこの問いは、ここで一番聞いてはいけないことだった。
レオハルト様は、器を卓に置いた。
「治っていない」
はっきりした声だった。
「三年前から、俺は何も感じない。花も、飯も、雪も。今も感じない。医者は七人来て、七人とも鼻を診た」
誰も動かなかった。
「この人の茶だけは、飲み込んだ後に、時々、喉の奥から匂いが上がってくる。土の匂いだ。雨の降った後の。——それも毎度ではない。王都では一度も出なかった」
彼は器を持ち上げて、口をつけた。
飲み込んで、少し待った。私はその喉を見ていた。この半年で何度も見てきた動きだった。上がってくるときは、飲み込んでから三つ数えるあたりで、顎がわずかに上がる。
上がらなかった。
「今日は、出ない」
彼はそう言って、器を置いた。
言い訳も、間もなかった。晴れの日を晴れと言う言い方だった。ヘルタさんが口を開けたまま固まっていて、ヨナスが、真っ赤な顔で洟をすすった。
「そういうことだ。だから憐れむな」
レオハルト様は立ち上がった。
「座って飲め。明日も来る」
「閣下」
ヨナスが慌てて立った。
「隊の者に、話してもよろしいですか」
「好きにしろ」
「……はい」
「ヨナス」
「はい」
「言うなら、正しく言え。治っていない、と」
ヘルタさんが、前掛けで顔を拭いた。それから、いつもの調子で私に向き直った。
「ユーフェミア様。あたし、二杯目もらうわ」
「眠れませんよ」
「今日はいいのよ。今日くらいは」
その日は、暗くなるまで人が絶えなかった。
ニナは十四杯目あたりで手つきが荒くなり、二十杯目にはもう何も言わなくなった。それでも、湯から目を離さなかった。二百を、この子は一度も間違えない。
戸を閉めたのは、月が出てからだった。
「ユーフェミア様」
ニナが盥に湯を張りながら言った。
「匙、出して」
私は油紙をほどいて、床下の匙を渡した。柄の削り跡は、王都の宿で見たときと同じで、何も読めない。
ニナは盥の湯に、今日出がらしになった葉をどさりと放り込んだ。ずいぶんな量だった。それから匙を沈めて、しばらく置いた。
「何をしているのです」
「渋を入れてんの。傷に色が入るんだよ。うちの水は、渋が乗る」
「どこで覚えましたか」
「覚えてない。……あたし、なんとなくが当たるんだって」
「誰が仰いましたか」
「ユーフェミア様。あたしが弟子入りした日」
「そのようなことを申しましたか」
「言ったよ。それは才能です、って。あたし、あれ根に持ってる」
ニナは盥の縁に肘をついて、湯の面を見ていた。
「ねえ。あたし、王都でずっと言わなかったでしょ」
「はい」
「あそこ、うるさかった。匂いも音も多すぎて、口開けたら全部入ってくる感じ」
「戻ってきて、どうです」
「静か。……あと、ここの水、においがない。水ににおいがないの、すごいと思う」
「よく分かりましたね」
「またそれ」
四半刻ほどしてから、ニナは匙を引き上げて、布で拭った。拭って、手が止まった。
「ユーフェミア様」
柄の削り跡に、細い茶色が残っていた。
削り跡から浮かび上がったのは、王家調茶寮の刻印だった。輪の中に王冠、その下に寮名の三文字と、寮へ入った順の番号。母の番号は二番だ。私の匙には、同じ位置に四番が入っている。
七年前、母はこの街に立ち寄って、床下に自分の匙を残していった。空き家に残っていた匂いは、前の住人のものではなかった。あれは母の葉の匂いだった。
そして母は、匙の刻印を削ってから、ここを出ている。
「これ、消したの、お母さん?」
「そうでしょうね」
「なんで」
「王家の調茶師のままでは、行けないところがあったのだと思います」
私は匙を明かりに近づけた。
近づけて、裏を返した。
握れば手のひらに隠れてしまう位置に、細い彫りがあった。削られていない。削られなかったのではなく、削る必要がないほど小さかったのだ。渋の色が入って、それは黒く浮き上がっていた。
母の字だった。後ろへ行くほど小さくなる、あの字。
——グラウフェルト。
地名だった。ヴァイスバルト領の北の端の、さらに先。辺境伯領の地図では、霧の手前で線が途切れる場所だ。
母は、ここから先へ行ったのだ。
お読みくださりありがとうございます。
この回で戻ってきたのは、香りではありません。三年間、自分の欠けを人前で認めずに立っていた人が、街の者の前で「今日は、出ない」と言えた——戻ったのはそちらです。香りのほうは、この先もずっと、出る日と出ない日があります。
匙の刻印は、母が自分で削っています。王家の調茶師の匙のままでは通れない場所があったということで、七年前の彼女は、それを承知で北へ歩いていきました。
ここから第2部「北へ」が始まります(毎日18時更新)。評価とブックマークは、次の湯を沸かす薪になります。薪は、多いほど長く保ちます。
次回から、ユーフェミアは母が消えた方角へ一歩踏み出します。霧の向こうにも、湯を沸かして二百を数えている人間がいます。




