第29話:誰も淹れられなかった半年
王都の宿は、辺境の宿の三倍の値がして、寝台が硬かった。
朝、私は借りた竈で湯を沸かしていた。王都の水は硬い。同じ葉を同じ数だけ、同じ時間だけ蒸らしても、辺境で出るものは出ない。半年で舌が北に慣れていたのだと、湯の面を見ながら知った。
「これは、王都の水では出んな」
一杯目を飲み終えて、レオハルト様が仰った。
「はい。出ません」
「分かるのか」
「閣下のお顔で分かります。喉を使う前に、器を置かれました」
彼は器を持ち上げて、底を確かめるような持ち方をした。三年間、そうやって何度も空を確かめてきた手つきだった。
「怒らんのだな」
「水のせいでございますので」
「水は変えられんぞ」
「変えられません。ですので、十日かけて水のあるところへ戻ります」
ニナが寝台の上で膝を抱えたまま、口を挟んだ。
「ねえ、王都の人って、この水で平気なの」
「平気なのでしょうね。生まれたときからこの水ですので」
「うわ。かわいそ」
その言い方には遠慮がなかったが、たぶん半分は当たっている。硬い水は葉の渋みだけをよく引き出す。王都の茶がいつも少し尖っているのは、腕の問題ではなく、地面の下の問題だった。
戸を叩く音がした。ニナが跳ねるように立って、戸を細く開けた。
「ユーフェミア様、なんか、湯を運んでる人」
湯を運んでいる人、というだけで誰なのか分かった。王城の厨房から宿までは、走って四半刻ある。走ってきたのだと、肩の上下で分かった。
「ユーフェミア様」
見習いの少年だった。名をトビアスといった。五年間、私は彼の名を知らないままだった。婚約破棄の日、廊下で渋い茶の話をした、あの子だ。
「二百」
彼は息を切らせたまま、それだけ言った。
「二百、数えております。毎朝。……あの日から、ずっと」
「渋みは、落ちましたか」
「落ちました。半年かかりましたけど」
半年。王都に入って三日のあいだに、何度も聞いた数だった。宿の主人が言うには、この半年で王都の眠り薬の値が三倍になり、茶葉の値は下がったのだそうだ。飲めば眠れると言われるものは売れ、飲んでも眠れないと分かったものは売れなくなる。人はそうやって、卓の上のものを一つずつ諦めていく。
私は椅子を勧めた。彼は座らず、立ったまま話した。話しに来たというより、置きに来たという顔だった。
「あの、ミレーユ様のことなんですけど」
ニナが露骨に耳を寄せた。
「茶会を、三度なさいました。一度目は人が集まって、二度目は半分で、三度目は——」
「来なかったのですね」
「はい。楽師と、あと厨房の者だけで」
半年前、この城では茶が「置いておくもの」になりつつあった。置いておかれるうちはまだよかったのだと、今は思う。人が来なくなれば、置く卓そのものがなくなる。
「一度だけ、厨房にいらしたんです」
トビアスが言った。
「ミレーユ様が、直に。湯の温度を教えろと」
「教えましたか」
「教えました。八十度、沸いてから二百、と」
「数えられましたか」
少年は、少し言いにくそうにした。
「八十くらいで、注がれました」
私は何も言わなかった。
言うことがなかったわけではない。八十で注いだ湯は、あの方にとっては二百と同じ湯だ。香りを感じ取れない人には、待った分が何に変わるのかが最後まで見えない。見えないものを二百数える人はいない。
「それで、その」
「はい」
「うまくいかなくて、お帰りになりました。今は領地です。ご婚約は、なくなってはいませんが、その、話が進んでおりません」
「そうですか」
「……怒らないんですね」
「湯の温度の話でしたら、怒るところもございません」
ニナが横で、ふん、と鼻を鳴らした。
「あたしは怒ってる」
「ニナ」
「だってさ。教えてもらったんでしょ。二百って。それ、ユーフェミア様が置いてった数字じゃん」
トビアスが目を丸くした。それから、初めて笑った。
「うん。俺の数字じゃないです」
もうひとつ、と彼は言った。今度は声を落とした。
「殿下が、夜中に厨房へ降りてこられます」
「殿下が」
「はい。三月ほど前からです。眠れないと仰って、湯を沸かせと。医者を四人替えられました」
「何かお話しになりますか」
「同じことを、毎回」
トビアスは、言うかどうか少し迷ってから言った。
「あの茶は何だったのか、と」
私は湯を捨てた。
「トビアス。昨日、城で何かございましたか」
「……はい。奥方様が、奥の一切から退かれると」
「そうですか」
「厨房まで触れが回りました。ですが、誰も理由を知りません。皆、上の方の話だと」
上の方の話。三十一年ぶんの量は、そういう言葉の下に片づけられていく。それでよかった。片づけられずに残るのなら、母は七年もかけて落とす必要がなかった。
城を出たあの朝、私は殿下に明朝の分をどういたしましょうと伺った。殿下は本当に不思議そうな顔で、厨房の者が淹れるだろう、と仰った。あれは嘘でも意地悪でもない。あの方には最初から、そう見えていた。
「トビアス」
私は初めて、彼を名で呼んだ。
「二百の続きを、置いていきます。紙に書きます。渋みが落ちた次にやることがあります」
彼は顔を上げた。目のあたりが赤かった。
「いいんですか」
「私の数字ではありませんので。もう、あなたの数字です」
昼過ぎに、宿へもう一人来た。
侍従長だった。名をクレーマーという。五年前、私が城へ上がった日に「お茶汲みのお嬢さん」と呼んだ人で、その呼び方は誰にも直されないまま定着した。
彼は戸口で外套を脱ぎ、それから、深く頭を下げた。
「調茶師どの」
ニナが「うわ」と小さく言った。レオハルト様が窓辺で身じろぎもしなかったので、たぶんこの人は最初から、この展開を予想していたのだと思う。
「王家の調茶師に、お戻りいただきたい」
「どなたのご意向でしょう」
「城の意向でございます。厨房も、侍従も、医師団も。名を連ねております」
「殿下は」
「殿下は……ご存じありません」
正直な人だった。五年前も、この人は嘘をつかなかった。ただ、私の仕事に名前をつけなかっただけだ。名前のないものは、なくなっても誰も気づかない。半年かけて城が気づいたのは、そういうことだったのだと思う。
「条件は、いかようにも」
「条件の話ではございません」
「では、何の話でございましょう」
「お断りいたします」
「理由を、伺っても」
「私の客は、北におります」
侍従長は顔を上げなかった。
「明朝の分を、どうか」
半年前、同じ言葉を私のほうが言った。相手はそれが何の話か分からなかった。今度は逆で、それが何の話か分かっているのは、この人のほうだ。
「厨房の方がお淹れになります」
私は言った。
「トビアスという子がおります。二百を数えられます。数えられる人が城にいるというのは、けして小さいことではございません」
侍従長は長いあいだ黙って、それから、もう一度頭を下げて出ていった。
戸が閉まってから、ニナが天井を見上げて言った。
「ねえ。今の、断ってよかったの。王都の給金って、たぶんすごいよ」
「すごいでしょうね」
「……まあ、いいけど。あっちの水、まずいし」
レオハルト様が、窓の外を見たまま短く言った。
「十日だ」
「はい。十日でございます」
夜、荷をまとめた。
行きの荷は、母の帳面が一冊と、着替えが少しだった。帰りも同じだった。王都でもらったものは、紙が一枚と、走ってきた少年の名前だけだ。
帳面を包み、その下に、油紙にくるんだ匙を入れた。床下から出てきたあの匙は、柄の文字が削られたまま、まだ何も読めない。何度も明かりに透かしたし、湯にも通した。削り跡は残っているのに、そこに何があったのかは分からないままだった。
ニナが横から覗き込んで、窓の桟に肘をついた。
「ねえ、それさ」
「はい」
「うちの水で洗ったら、なんか出ると思う」
「なぜです」
「なんとなく。……あたし、なんとなくが当たるんだよ」
お読みくださりありがとうございます。
半年ぶんの後日談を、本人たちの口ではなく、走ってきた厨房の少年の口から届けました。ユーフェミアはこの回、王城へ一度も上がっていません。留飲というのは、たぶん相手の顔を見に行かなくても済むことだと思っています。
ミレーユ様は湯を八十まで数えて注ぎました。二百と八十の差は、彼女には最後まで見えません。見えないものを二百数えられる人は、そういません。
次回、北へ帰ります。十日の馬車の先で、辺境伯が街の者の前である一言を言います。そして、床下から出た匙の削られた文字が、ようやく読めます。




