第28話:王家の茶に入っていたもの
「イレーネの娘ね」
王妃エレオノーラ陛下は、一口だけ召し上がって、器を置かれた。
「はい」
「顔は似ていません。手つきが同じ」
陛下は器の縁を指でなぞられた。かちり、と爪が触れる音がした。婚約破棄の日、大広間で扇が閉じた音と同じだった。あの音を出せる人は、あの広間で陛下だけだった。
「あの人も、湯を注ぐ前に一度、器を回しました」
「温めるためでございます」
「存じています。二十年、見ておりましたから」
窓の外は雨だった。王都の雨は土の匂いがしない。石畳が多すぎるからだと、母が帳面の隅に書いている。
奥の間は広くも狭くもなく、卓が一つと椅子が三つ。壁には何も掛かっていなかった。この部屋の主は、飾りを置くと埃が増えることを知っている人だった。
私が今朝お出ししたのは、辺境から持ってきた葉だった。湯は八十度、蒸らしは六十。北の霧を吸った葉は渋みが出ないので、薄く淹れても水にはならない。淹れているあいだ、陛下は一度も手元を御覧にならなかった。見なくても分かる人が、見ないのだと分かった。
レオハルト様は壁際の椅子から立ち上がって、そのまま座り直されなかった。護衛の名目でここまで通されて、剣は預けている。ニナは私の後ろで手を前に組んだまま、王都に入ってから驚くほど静かだった。
「用件を申しましょう」
陛下が仰った。
「この半年、王都の者が眠れません。城の者も、街の者も。医者は流行り病だと言い、神官は星のせいだと言います」
「さようでございますか」
「あなたは、そうは言わないのね」
「私は医者でも神官でもございませんので」
陛下は指を止められた。
「言いなさい。王家の茶に、何が入っていましたか」
私は膝の上の包みをほどいた。革の表紙が湿気を吸って重くなっている。十日の馬車と、王都の雨のせいだった。
母の字は、後ろへ行くほど小さくなる。書き足すことが増えて、余白が足りなくなったからだ。三十一年前の頁には、まだ大きな字が並んでいる。前の人の筆跡を、母が写し直したものだった。
「母の帳面でございます。三十一年前の頁から、お読みいただけます」
侍女が受け取り、陛下の前へ運んだ。陛下は頁をめくらなかった。手も伸ばされなかった。
「わたくしが読む必要はありません。あなたが言いなさい」
「かしこまりました」
私は姿勢を直した。
五年間、毎朝この城で葉を量ってきた。量りながら一度も、誰にもこれを言わなかった。言う機会がなかったのではない。言えば、私の五年は最初から罪の数え上げになる。だから私は数えるだけにして、数字を毎年小さくしてきた。
「王家の茶には、鎮静の配合が入っております。三十一年前から、代々」
ニナが後ろで、息を吸うのをやめたのが分かった。
「先々代の調茶師が入れ始めました。理由は帳面にございます。——陛下、当時の王がお眠りになれなかったと」
「ええ。夜通し灯りをつけて歩いておいででした」
「その頃の配合が、一杯につき四分の一匙。母が引き継いだときも、同じ量でございました」
「イレーネは、それを続けたのですか」
「いいえ」
私は言葉を選んだ。ここから先は、言い方をひとつ間違えるだけで告発になる。私はそれをしに来たのではなかった。
「母は七年かけて、八分の一まで落としました。どなたにも申し上げずに、でございます」
味が変わらないよう、母はまわりの葉を毎年ひとつずつ作り替えている。帳面にはその手順だけが淡々と並んでいて、理由はどこにも書かれていない。卓の上では何も起きなかった。誰にも気づかれないことが、その仕事の出来のよさだった。
「あなたは」
「私は五年かけて、十六分の一に。去年の秋には、三十二分の一でございました」
雨の音が、少し強くなった。
「あと二年で、零にできる見込みでございました」
陛下は動かれなかった。
「——理由を聞かせなさい」
「入れ続けますと、それなしでは眠れなくなります。それだけでございます」
「それだけ」
「はい。害があるとも、罪だとも、私は申しません。存じているのは配合と量だけでございます」
薬のことは知らない。知っているのは、量と、量が人にさせることだけだ。
私は帳面を指した。
「ですので、私が申し上げられるのはここまでです。三十一年、量がございました。去年の秋に、それが止まりました。以上でございます」
陛下が、初めて私をまっすぐ御覧になった。
「つまり、王都の者が眠れないのは、途中で断たれたからだと」
「そうかどうかは、私には分かりかねます」
「分からない、と」
「はい。私は配合を申し上げただけでございます。それを何と結びつけるかは、陛下のお仕事でございましょう」
長い沈黙があった。
雨の音が細くなり、それから、また戻った。器の中の茶はもう冷めている。冷めた茶は、湯気で運ばれていた分の香りを失って、代わりに舌の上に残る分だけが濃くなる。この部屋にいる誰も、それを飲もうとしなかった。
侍女が一人、口元を押さえて後ろへ下がった。控えていた文官が筆を落とし、拾う音がやけに響いた。誰も、私を止めなかった。止められるだけの言葉を、私はひとつも使っていなかったからだ。
「辺境伯」
陛下が、壁際へ声を向けられた。
「そなたは、この茶を飲んで何か感じましたか」
レオハルト様は少しの間を置いてから、短く答えられた。
「何も」
「何も」
「三年前から、何も感じません。この人の茶だけは、飲み込んだ後に時々、後ろから匂います。今日は出ませんでした」
そこで一度、言葉が切れた。
「証人には向かん男です」
陛下は、ほんのわずかに目を細められた。それが笑いだったのか確かめる前に、陛下は帳面のほうへ視線を戻された。
「あの人は」
「はい」
「イレーネは、七年前の春に、わたくしのところへ来ました」
私は膝の上で手を組み直した。
「量を零にする日取りを持ってきたのです。二年後の秋、と紙に書いてありました。日付まで書いてありました。あの人はそういう人でした」
「陛下は、何と」
「まだ早い、と申しました」
私は膝の上で指を組んでいた。組んだ指の関節が白くなっていることに、しばらく気づかなかった。七年前の春——母が最後に王都を発った季節と、その紙の話とが、ここでようやく同じ一本の線の上に並んだ。
陛下の声は平らだった。責めてほしそうでも、詫びたそうでもなかった。
「わたくしは知っていました。三十一年、何が入っているか知っていて、止めませんでした。止めれば、陛下が眠れなくなる。眠れない王のいる国がどうなるか、わたくしは自分の目で見ておりましたから」
「はい」
「三月後に、あの人はいなくなりました。どこへ行ったかは知りません。——これは、知らないという意味です。分かりますか」
「分かります」
私は頭を下げた。母の行方をこの部屋で聞くつもりはなかった。聞けば、この人はきっと答えを作ってくださっただろう。それは要らなかった。
「不思議な娘ね」
陛下が仰った。
「あなたは、わたくしを責めに来たのだと思っていました」
「配合を申し上げに参りました」
「同じことです」
「いいえ」
私は帳面を閉じた。
「同じでしたら、母は七年もかけて量を落とす必要がございませんでした。責めるのでしたら、一日で済みます」
陛下が立ち上がられた。
裾が卓に触れて、器がわずかに鳴った。侍女たちが慌てて動いた。陛下はそれを手で制して、窓のほうへ二歩だけ歩かれた。細い方だった。婚約破棄の日、玉座の陰でそう見えたのは距離のせいだと思っていたが、近くで見ても細い方だった。
「今日をもって、わたくしは奥の一切から退きます。茶も、薬も、厨房も。陛下には、わたくしから申し上げます」
「陛下」
「言い訳ではありません。三十一年分の量を、わたくしはひとりで数え直します。数えられるものが、それしか残っていませんので」
雨が、窓の下のほうを叩いていた。
私は帳面を膝に戻して、包みの紐を結んだ。結びながら、この部屋を出たあとに何が起きるかを考えなかった。考えることは、たぶん私の仕事ではなかった。私は量を言いに来て、量を言い終えた。それだけが、五年と七年ぶんの、私と母の仕事だった。
壁際で、レオハルト様が一歩だけ横へ動かれた。私が出やすいように、というだけの動きだった。
陛下は振り返られなかった。振り返らないまま、静かに仰った。
「あの香りは、戻らないのね」
お読みくださりありがとうございます。
第1話でユーフェミアが言った「以後この国に、あの香りは戻りません」は、脅しでも呪いでもありませんでした。ただの予定表です。あと二年で零にするはずだった工程が、婚約破棄の日に途中で止まった——それだけの話でした。
彼女が最後まで告発しないのは、優しさではなく職業です。調茶師にできるのは量を言うことだけで、その量が何を意味するかは、量を使っていた人が数えるしかありません。
次回、王都に残ってほしいと請う人が現れます。頭を下げに来たのは、五年間ずっと彼女を「お茶汲みのお嬢さん」と呼んでいた人でした。




