第27話:王妃陛下の前で、一杯
朝のうちに、私は木箱の封を切った。
辺境から持ってきた葉のうちで、いちばん良いものだ。北の霧を三度くぐらせた葉を、去年の秋にニナと二人で摘み分けた。全部で二十杯ぶんもない。
「それ、使うの」
ニナが言った。
「使います」
「……ふうん」
道具を布に包みながら、私は湯の温度のことを考えていた。王都は北より暖かい。とすると二度下げる。いや、あの部屋は北向きで、この季節はまだ冷える。下げてはいけない。
考えているあいだは、ほかのことを考えずに済んだ。
迎えに来たのは、昨日の侍従だった。
城の廊下はよく磨いてあって、靴の音が高く響く。私の靴、レオハルト様の長靴、ニナの継ぎの当たった靴。三種類の音が、同じ速さで並んで進んだ。
「あんた」
ニナが小声で言った。
「手、震えてないね」
「震えますと、湯がこぼれますので」
「ふうん」
ニナは自分の手のひらを見て、それから外套の裾で二度拭いた。
扉の前で、侍従が一度だけ咳払いをした。それが合図らしかった。
王妃陛下のお部屋は、思っていたより狭かった。
五年城にいて、私はここに三度しか入ったことがない。三度とも、茶を運んだだけだ。運んで、置いて、下がった。陛下のお顔をまともに見たことは、たぶん一度もない。
「そこへ」
陛下が仰った。
「道具は卓に。火はその炉をお使いなさい」
「拝借いたします」
窓は北向きで、外は雨だった。部屋はよく冷えていて、朝なのに明るくない。香りの立ちにくい部屋だ。
「ヴァイスバルト卿」
「はっ」
「立っていなくてよい。座りなさい。あなたを立たせておくと、廊下の者が落ち着きません」
「では」
レオハルト様は壁際の椅子に腰を下ろされた。座られても、外套は脱がれなかった。この方は三年、どこにいても帰り支度のまま座る。
私は湯を火にかけた。
沸くまでのあいだ、誰も喋らなかった。陛下は膝の上で扇を閉じたまま、こちらを見ていらした。見られていることは分かったけれど、手のほうは勝手に動いた。五年やっていれば、誰でもそうなる。
沸いた。二百を数える。冷えた部屋なので、二百二十まで。
匙で三度。湯を、器の縁に沿わせて回し入れる。
香りが立った。
雨が上がったすぐあとの、まだ濡れている石の匂い。それが湯気の中で一度だけ大きくなって、それから細く、長く伸びた。細く伸びていくところまで含めて、この葉の香りだ。霧をくぐった葉にしか、この伸び方はしない。
伸びた先が、途中で切れずに残る。良い葉は、そこで終わらない。摘んだ日の朝が晴れていたかどうかまで、香りの終わりぎわに出る。
六十を数える。
数えているあいだに、部屋の空気が変わったのが分かった。陛下の指が、扇の骨を一度だけ撫でた。
ニナは、何も言わなかった。
「お待たせいたしました」
私は器を陛下の前へ置いた。
陛下は器を持ち上げ、鼻先へ運んで、そこで少しのあいだ止められた。
それから、飲まれた。
飲んで、飲み込んで、目を閉じられた。閉じていらっしゃる時間が、少し長かった。
「……温いのね」
「はい。八十度で止めております」
「熱くしないの」
「熱くいたしますと、香りが先に飛びます」
「先に、飛ぶ」
陛下は、その言葉を確かめるように繰り返された。
「イレーネも、そう言いました」
私は湯を回す手を止めなかった。止めたら、次が続かない気がした。
「辺境で、店をやっているそうね」
「はい」
「王都の茶葉を使っていないと聞きました」
「北の葉で足ります」
「足りる」
陛下は器を置かれた。
「この半年で、王都の茶商が三軒潰れました。四軒目が今月危ないそうよ。……理由が誰にも分からないのだそうです」
「さようでございますか」
「あなたには分かりますか」
「私は、辺境におりましたので」
嘘ではない。嘘ではない、というだけの答えだ。陛下もそれはお分かりだった。
「三軒のうち一軒は、この城へ納めていた店です」
「存じております」
「知っていて、何も仰らないのね」
「申し上げることがございませんので」
「そう」
陛下は、かすかに笑われた。責める笑い方ではなかった。
「わたくしは、二十年この城で茶を飲んでいます。誰が淹れても同じものだと思っていました。……いいえ。思っていたことにしていました」
「陛下」
「言い直しなさい、とは言われませんのね」
「言い直すのは、私の役目ではございません」
陛下は扇の端で、卓の縁を軽く叩かれた。
「陛下」
「なに」
「なぜ、私をお呼びになったのでしょうか」
「まだ言いません」
扇が膝の上に戻った。
「先に申し上げれば、あなたは道具を片づけてしまうでしょう。……飲むほうが先です」
「ヴァイスバルト卿」
「はっ」
「三年前のことは、聞いています。……その茶は、卿には分かるの」
レオハルト様は少し黙ってから、答えられた。
「香りは分かりません」
「では」
「ですが、この部屋の温度が変わりました」
陛下が初めて、目を上げてレオハルト様をご覧になった。
「私は嗅げませんが、人が息を吸う音は聞こえます。たった今、この部屋で三人が同じところで息を吸いました。それが何の匂いなのかは、私には分かりません。……分からないまま、三年ぶんの話をしております」
「分からないまま、卿はその者の茶を飲むのですか」
「毎朝、飲んでおります」
「毎朝」
「はい」
「三年、何も感じない者が、毎朝ですか」
「出る日があるからです。出ない日もあります。……今は、出ない日のほうが多い」
レオハルト様は、そこで一度言葉を切られた。こちらはご覧にならなかった。
「それでも、明日は出るかもしれません。三年前の私には、明日という言葉が要りませんでした」
陛下は、しばらく何も仰らなかった。
湯が、炉の上で細く鳴っていた。窓を打つ雨の音が、少しだけ強くなった。ニナは扉の脇で背筋を伸ばしたまま、床の一点を見ていた。
やがて陛下は、器を持ち上げて、口をつけずにまた置かれた。
置いてから、私の手のほうをご覧になった。手順を覚えようとしている目ではなかった。もっと古いものを思い出している目だった。
「……あなた、いくつになりました」
「十九でございます」
「イレーネがこの部屋に初めて来たのは、二十一のときでした」
私は匙を置いた。置いてから、ゆっくり息を吸った。
「陛下は、母をご存じでいらっしゃいますか」
「知っています」
陛下は、卓の器の縁を指の先で撫でられた。
「あの人は、わたくしに一度だけ逆らいました。一度だけです」
「どのように」
「言いません」
「……はい」
「いずれ、あなたが自分で知ることになります。知ったときに、わたくしを憎むかどうかは、あなたの勝手です」
それきり、陛下は何も仰らなかった。
やがて器を卓の中ほどへ押しやり、膝の上の扇を持ち上げて——閉じられた。
かちり、と音がした。
五年前、大広間で聞いたのと同じ音だ。あの日、あの音を出せる人は広間で陛下おひとりだった。今日は、この部屋に三人しかいない。
「ユーフェミア・アルテンフェルト」
「はい」
「あなた、母親に似てきましたね」
陛下は、窓のほうへ顔を向けられた。
「イレーネの娘ね」
お読みくださりありがとうございます。
この回のニナは、一度も口を開きません。
彼女の「うわ、また高いやつ淹れてる」は第4話から出続けているのですが、いちばん高い葉を開けた日にだけ、言いませんでした。理由を書くのは野暮なので、地の文でも一行しか触れないことにしました。あの子はあの部屋の空気を、たぶん誰よりも先に測っていたのだと思います。
王妃陛下は、まだ何も認めていません。認めていませんが、母の名を出しました。
次回、陛下がご自分から用件を口になさいます。




