第26話:殿下は、眠れていない
王城の門は、五年間毎朝くぐった門だった。
くぐるとき、衛兵が私の顔を見て、それから隣のレオハルト様を見て、背筋を伸ばした。私ひとりなら、たぶん止められていたと思う。
「これはこれは。お茶汲みのお嬢さん」
石段の上に、侍従長が立っていらした。五年前、私をそう呼んだ人だ。その呼び方を誰も直さないまま定着させた人でもある。
「ご無沙汰しております」
「まさか本当においでとは。北の暮らしはいかがでした。……ずいぶん日に焼けられましたな」
「よく歩きますので」
隣でニナが何か言いかけたので、私は袖を軽く引いた。この子の口は速い。
「そちらの娘は」
「連れでございます」
「連れ」
侍従長は、ニナの継ぎの当たった外套を上から下まで眺めた。ニナは鼻先で空気を一度吸って、目を細めた。
「ここ、香油くさい」
「ニナ」
「くさいって言ってない。多いって言ってる」
「辺境伯閣下におかれましては、ご遠方より」
「書付を三通持ってきた」
レオハルト様は、それだけ仰った。侍従長は続きを待って、続きがないと分かって、咳払いをした。
通されたのは東の廊下だった。
突き当たりに調合室がある。ある、はずだった。
扉には板が打ちつけてあった。新しい釘ではない。何年も雨と乾きを繰り返した釘の色だ。
私は少しだけ足を止めて、それからまた歩いた。侍従長は何も言わなかったし、板のことに気づいた素振りもなさらなかった。
「あの部屋は、いつから閉じておりますか」
「さて。私が来た頃にはもう、ああでしたな」
「どなたが打たせたのでしょう」
「城の扉に板を打つのは、大工の仕事です」
答えになっていない答えだった。答えになっていない答えを返す人は、答えを持っている。
廊下の途中で、湯の桶を抱えた若い男とすれ違った。
すれ違ってから、向こうが先に立ち止まった。
「……ユーフェミア様」
顔に見覚えがあった。城を出た日の朝、厨房の前で湯の温度の話をした少年だ。半年で、少しだけ背が伸びていた。
「二百を、まだ数えております」
「そうですか」
「毎朝、数えております。表面から泡が消えるところまで見ております。ですが」
彼は、桶を持ち直した。
「殿下は、お眠りになりません」
私は何も言えなかった。この人は何ひとつ間違っていない。間違っていないのに足りない、ということが、この世にはある。
「……続けてください。二百は、正しいです」
彼は頭を下げて、湯を運んでいった。廊下には、渋く煮詰まった茶の匂いが残っていた。五年前と同じ匂いだった。
小広間で待たされたのは、四半刻ほどだった。
入っていらした殿下は、痩せておられた。
顔の輪郭が変わるほどではない。ただ、目の下の色が、五年のあいだに私が見たどの日よりも濃かった。
「久しいな」
「ご無沙汰しております」
「座れ」
「はい」
殿下は卓の向こうに腰を下ろされ、それから額の左側を押さえられた。一度。
一度なら濃く、と私は思った。思ってから、もうその必要がないことに気がついた。
「北は寒いか」
「寒うございます」
「……そうか」
殿下は言葉を探していらした。この方が言葉を探すところを、私は五年で数えるほどしか見ていない。
「ヴァイスバルト卿」
「はっ」
「なぜ、そこにいる」
「護衛です」
「一介の茶商に護衛が要るか」
「要ります」
レオハルト様は表情を変えずに答えられた。
「北では、あの者の茶が国境の兵の眠りを作っております。倒れられると困る」
殿下は、理解できないという顔をなさった。理解できない顔のまま、額を押さえられた。二度目。
「ユーフェミア」
「はい」
「一つ、聞きたい」
来た、と思った。
「あの茶は、何だったのだ」
殿下の声は低かった。責める声ではなかった。責められれば、まだ楽だったかもしれない。
「お前が城を出てから、私は眠れん。厨房の者にも、ミレーユにも、王都じゅうの茶商にも淹れさせた。誰のものも同じだ。同じなのに、眠れん」
「さようでございますか」
「同じなのだぞ。葉も、湯も、器も同じだ。倉の茶葉はお前が数えていたものがまだ残っている」
「はい」
「だから聞いている。あの茶は、何だったのだ」
私は、殿下の目の下の色をもう一度見た。三日ではない。もっと長い。
言おうと思えば、言えた。この方の朝の茶に何をどれだけ入れていたか。なぜ去年の秋から少しずつ減らしていたか。減らしはじめた理由。全部、この場で言えた。
けれど、この方が今お聞きになっているのは、そういうことではない。
この方は「何だったのか」と問いながら、答えを受け取る場所を持っていらっしゃらない。持たないまま五年が過ぎて、今も持っていらっしゃらない。
「お茶でございます」
「……なんだと」
「お茶でございます、殿下」
殿下は私を見た。それから、額の左側を押さえられた。三度目。
「ふざけているのか」
「いいえ」
「では説明しろ。何を入れていた。薬か。北の何かか。まじないの類か」
「湯を注いでおりました」
私は言った。
「注ぐ前に、十七通りの葉から選んでおりました。注いだあとに、六十を数えておりました。殿下のお顔を見て、その日の濃さを決めておりました。……それだけでございます」
「そんなもので、人が眠るか」
「そんなものでございます」
殿下は口を開いて、そのまま閉じられた。
「……ならば、戻れ」
「いえ」
「厚遇する。以前より良い部屋をやろう。婚約のことは、まあ、あれはあれだ。ミレーユとのことは今さら動かせん。だが、茶だけならお前が」
「殿下」
「なんだ」
「明日の朝の分は、どういたしましょう」
殿下は、五年前と同じ顔をなさった。心の底から不思議そうな顔だ。
「……厨房の者が、淹れるだろう」
そう仰ってから、殿下はご自分の言葉が落ちる場所を探して、そこに何もないことに気づかれた。
気づかれたことだけが、五年前との違いだった。それ以上のことは、たぶん起きない。この方は最後まで、ご自分が何を手放したのかを正確にはご存じないままでいらっしゃる。
卓の上には、殿下の前にも茶が置かれていた。誰も口をつけていない。
レオハルト様が、それを一つ取って、飲まれた。
飲んで、置いて、仰った。
「湯だな」
「……卿。それは王家の茶だ」
「そうか」
レオハルト様は、もう殿下を見ていらっしゃらなかった。
「私は三年、何も感じません。ですから私の言うことは当てになりません。……ですが、当てにならん男の口にも、これは湯です」
殿下は答えられなかった。
答える代わりに、額の左側を押さえられた。四度目だった。
七回を超えた日には砂糖を落としていた、と私は思い出した。思い出したところで、もう匙は私の手にない。
殿下はもう、こちらを見ていらっしゃらなかった。卓に並んだ、誰も口をつけない杯のほうを見ていらした。
小広間を出るとき、廊下で侍従の一人が私を待っていた。
「アルテンフェルト様。明朝、王妃陛下がお会いになります」
「……承知いたしました」
「陛下からのお言伝がございます。『茶道具を持って参るように』と」
隣で、ニナが小さく息を吸った。
お読みくださりありがとうございます。
この回は「元婚約者を改心させない回」です。
彼は反省もしませんし、悪人にもなりません。ただ眠れなくなって、何が減ったのかを聞きにきて、答えを受け取れないまま帰っていきます。謝られてすっきりする話にはしないつもりでしたので、彼女の返事は五文字だけにしました。
なお額を押さえる回数は、第1話から数えていただいた方には見当がついているかと思います。四度目です。
次回、王妃陛下の前で、ユーフェミアは持ってきた中でいちばん良い葉の封を切ります。




