第25話:同じ匂いだった
鐘楼の脇の宿は、ヘルタさんの言ったとおりの場所にあった。
女将さんは姉によく似ていて、腰に手を当てる角度まで同じだった。この一族はきっと、生まれたときからその角度で立つのだと思う。
「北の姉から、文が先に届いてるよ」
「もう、でございますか」
「馬より鳥のほうが速いからね。あんたの店の休みの札、爺さんが三度見に来たとさ」
夕食のあと、ニナはすぐに眠った。
十日の道中、この子はずっと窓側にいた。南へ下るほど匂いが増えて、そのたびに眉を寄せていた。眠っている顔は、まだ十四だった。
私は蝋燭を一本だけ点けて、帳面を開いた。
開いたのは、二月ほど前に見つけたページだ。母の字で配合が七行。その下に分量が三段。余白に、走り書きが一行。
『これは、いずれ誰かが止めねばならない』
何度読んでも、そこから先へは進めなかった。母が何を止めたかったのか、どこにも書いていない。書かないまま、母は消えた。
——鎮静の配合。
眠りを深くするための組み方だ。強すぎれば人は起きられなくなる。長く続ければ、いくつかのものが鈍る。
私は、指を止めた。
鈍る。
その二文字の上で、指が止まった。
半年前、王都から辺境の茶房へ届いた茶葉に、毒が入っていた。ニナが一舐めして「舌が痺れる」と言い、私は封を開けた瞬間に配合を言い当てた。
言い当てられたということは、私がそれを知っていたということだ。
あのとき私は、こう思った。——この匂いを、私は知っている。
どこで知ったのかは分からなかった。分からないまま、半年が過ぎていた。
蝋燭の芯が傾いて、炎が細くなった。
私はページを目の高さまで持ち上げて、紙に鼻を近づけた。紙には、書いた者の手の匂いと、そこに置かれていた葉の匂いが残る。七年経っていても、閉じた紙のあいだには少しだけ残る。
吸い込んだ。
同じだった。
半年前にあの封を開けたとき立った匂いと、母のこのページから立つ匂いは、同じ材料の匂いだった。乾いた草を石で潰したときの、青いのに甘い匂い。分量が違うだけだ。片方は眠りを深くする量で、もう片方は——
戸が、二度叩かれた。
「起きているか」
レオハルト様だった。
戸を開けると、廊下の灯りを背にしていらしたので、お顔は影になっていた。
「灯りが漏れていた」
「起こしてしまいましたか」
「もともと眠らん」
椅子をすすめて、湯を沸かした。旅の湯は温度が読みにくい。宿の火は薪の質が違う。沸いてから二百数えて、そこへ二十足した。
匙で三度。湯を回し入れて、六十を数える。
「どうぞ」
レオハルト様は器を持ち上げ、飲み、飲み込んで、待った。
待って、それから、器を置かれた。
「……今日は、出ない」
「はい」
「湯の温度か」
「たぶん、お体のほうです。今夜は、匂いを受け取る順番ではないのだと思います」
「そういうこともあるのか」
「ございます。私にもございました」
私は嘘をつかなかった。この方に「次はきっと」とは言わない。最初の日から、そう決めている。
レオハルト様は空の器を指で回された。三年のあいだ、この方はこうやって空の器を回してきたのだと思う。
——言うなら、今だ。
言わずにおくこともできた。この方は、三年前の毒を隣国の仕業だと聞かされて、そう思ったまま今日まで来ていらっしゃる。そのままにしておけば、この方の敵は国境の向こうにいる。遠い。遠い敵は、人を毎日は壊さない。
私が言えば、敵は近くなる。
「閣下」
「なんだ」
「三年前のことで、申し上げたいことがございます」
私は帳面を卓に置いて、ページを開いた。
「これをご覧になっても、閣下にはただの文字だと思います。ですが、これは眠るための組み方です。分量を過てば、眠り続けるための組み方になります。……そして、鼻と舌が先に鈍ります」
レオハルト様は、何も仰らなかった。
「半年前に王都から届いた茶葉に入っていたものと、材料が同じです。私はあのとき、匂いで気づきました。気づいたのに、何と同じなのかが分かりませんでした。……今夜、分かりました」
「隣国ではない、と」
「隣国では、この草は採れません。北の、霧の出る山でしか育ちません。三年前に閣下の杯へ入っていたものは、王都から流れたものです」
薪が一つ、崩れた。
「三年前、閣下は何を召し上がったか、覚えていらっしゃいますか」
「茶だ」
「どちらの」
「王都から来た使者が持参した。祝いの品だ。国境の砦が一つも落ちずに済んだ年でな」
「お一人で」
「三杯飲んだ。うまい茶だと言われたから、うまいのだろうと思って飲んだ。……あのころは、まだ匂いが分かった」
そこで、レオハルト様は初めて言葉を切られた。
「その日の朝は、雨だった。それだけは覚えている」
雨の、降ったあとの土の匂い。この方が最初に取り戻したものが、それだった。偶然かどうかは、私には分からない。分からないので、何も申し上げなかった。
「誰が流した」
「存じません」
「調べられるか」
「調べれば、分かるかもしれません。ですが」
「ですが」
「私が調べれば、私が誰かを指すことになります。指すのは、私の仕事ではございません」
レオハルト様は少し黙ってから、低く息を吐かれた。
「……君は、そういう女だな」
「褒めていらっしゃいますか」
「知らん」
「もう一つ、申し上げます」
自分の声が薄くなっていくのが分かった。
「この材料を、私は王都で扱っておりました。五年のあいだ、毎日でございます。分量も、扱い方も、この国で私がいちばん知っています。……閣下が三年前に飲まされたものを、私は同じ手で量っておりました」
言い終えてから、私は卓の木目を見ていた。
「私のせいでございます」
「違う」
短かった。
「三年前、君は俺の名を知らん」
「存じませんでした」
「顔も知らん。俺も君を知らん。君の手は、俺の杯に届いていない」
「ですが、私の量った材料が」
「量ったのは君だ。盛ったのは別の奴だ」
レオハルト様は、卓の上の帳面を見た。読んでも意味の分からない配合の列を、それでも一行ずつ目で追っていらした。
「刃を打った鍛冶屋は、人殺しではない」
「……閣下」
「俺が言いたいのはそれだけだ。あとは知らん」
器を持ち上げて、空だと気づいて、置かれた。
「言わずにおくこともできただろう」
「はい」
「なぜ言った」
私は少し考えた。理由はいくつかあったけれど、いちばん短いものを選んだ。
「閣下が、私に何も隠さないからでございます」
レオハルト様は、それきり黙られた。
長い沈黙のあとで立ち上がり、戸のところで一度だけ振り返って、仰った。
「もう一杯、頼めるか」
何も出ないと分かっている茶を、この方は頼まれた。
私は湯を沸かし直した。二杯目も、やはり何も出なかった。それでも最後まで飲んで、器を丁寧に卓へ戻してから、レオハルト様は出ていかれた。
一人になってから、私は帳面をもう一度開いた。
そして、綴じ目に指が触れて、止まった。
紙が一枚、根元から切り取られている。切り口は古い。母がこのページを書いたあとで、自分の手で切ったのだ。
切り取られた紙にだけ、書いてあったことがある。
蝋燭が燃え尽きるまで、私はその切り口を指の腹でなぞっていた。紙の切れた縁は、七年経っても少しだけ毛羽立っていた。
窓の外で、王都の夜番が時を告げていた。
お読みくださりありがとうございます。
この作品でいちばん書きたかった線が、この回で一本に繋がりました。彼女が五年間毎日量っていたものと、彼が三年前に失ったもの。それは、悪意で結ばれた線ではありません。悪意でないぶん、たちが悪いのだと思います。
彼女は「私のせいだ」と言い、彼はそれを短く否定します。この場面で彼にたくさん喋らせないことだけ、気をつけて書きました。
次回、王都の城で、ユーフェミアはかつての婚約者に会います。




