第24話:王都へ、二人と一冊
召還状の封蝋は、指で触れると少し盛り上がっていた。
王家の印だ。五年のあいだ毎朝この印の押された茶櫃を開けていたので、目をつぶっても形が分かる。蜜蝋の匂いまで同じだった。
「日付は、十四日後でございます」
グレーテが読み上げた。王都まで馬車で十日。支度に使えるのは四日だ。
「宛名を、もう一度読んでいただけますか」
「はい。——『調茶師、ユーフェミア』」
「家名は」
「……ございません」
家名がない。アルテンフェルト家の息女ではなく、調茶師と書いてある。あの城が私を呼ぶときの言い方は、五年のあいだずっと「お茶汲みのお嬢さん」だったのに。
紙の上でだけ、私の仕事には名前があった。
「断れるか」
レオハルト様が、窓の外を見たまま仰った。庭の隅にはまだ雪が残っている。
「断れるものでしたら、閣下は断らせたいのですか」
「俺が断りたい」
「まあ」
正直な方だ。顔のほうは三年前から表情が出にくくなっていらっしゃるのに、言葉のほうは隠しごとが下手でいらっしゃる。
「私は行きます」
「理由を聞く」
「呼ばれたからでは、いけませんか」
「いかん」
私は少し考えてから、卓の上に帳面を置いた。母の配合帳だ。表紙の角が擦り切れて、指の当たるところだけ色が薄くなっている。
「王都に、この帳面の続きがございます」
続き、という言い方は正確ではない。母が七年前まで使っていた調合室が、王城の東の隅にまだあるはずだった。誰も入らない部屋だ。誰も入らないから、片づけられてもいないはずだった。
「戻りたいのか」
「いいえ」
「では、なぜだ」
「置いてきたものを、置いてきたままにしたくないのです。それだけでございます」
レオハルト様はしばらく黙って、それから短く息を吐かれた。
「護衛を出す」
「ありがとうございます」
「俺が出る」
「……閣下が、でございますか」
「辺境伯が王都へ出向く名目など、いくらでもある。税の報告でも、国境の書付でもいい」
そんなに都合よく揃うものだろうか、と思ったのだが、あとでグレーテに聞いたところ、未提出の書付は本当に三通たまっていたそうだ。三年ぶん、きれいに。
「あたしも行く」
戸口でニナが言った。いつからそこにいたのか分からない。この子は足音がしない。
「王都は、寒くありません」
「知ってる」
「人が多くて、匂いも多いところです。あなたには、たぶん、つらい」
「知ってる」
ニナは棚の茶櫃を端から順に指でなぞりながら、こちらを見ずに言った。
「ねえ。あんた王都で毒盛られたら、誰が気づくの」
私は、返す言葉を持たなかった。
「ほらね」
「……ニナ」
「あたし、美味しいは分かんないけど、まずいのは分かる。毒ってまずいでしょ」
理屈にはなっていない。なっていないのに、そのときにはもう、私は連れて行くつもりになっていた。
出立の前日、ヘルタさんが宿から出てきて、腰に手を当てた。
「店はどうすんだい」
「閉めます。四十日ほど」
「四十日ね」
「はい」
「あのねえ、ユーフェミアさん。この街には、あんたの店のために三里歩いてくる爺さんがいるんだよ」
「存じております」
「なら札を出しな。閉店じゃなく、休みだって書いた札を」
そのとおりだった。閉店と休み。字数は変わらないのに、待つ側にとっては別のものになる。私は板に炭で「やすみ」とだけ書いて、戸に打ちつけた。
「グレーテさんは、いらっしゃらないのですか」
「わたくしは残ります」
グレーテは即答した。
「屋敷を空にはできません。それに、閣下がお留守のあいだ、この街の者には文句を言う先が要りますので」
「文句の、先」
「三十年やっております」
グレーテは、十日ごとに手紙を書くと言った。街のこと、茶葉の届き具合、井戸の水の具合。
「ヘルタさんは、お客の言ったことを書いてくださいますか」
「あたしゃ覚えが悪いからね。聞いたそばから書くよ。誰が何をこぼしたか」
「助かります」
「あんた、そういうのが要る商売だろう」
要る。誰が何をこぼしたかは、その人の茶を決める材料になる。この人は宿の女将を三十年やっていて、たぶん私より人を読む。
「宛先は、王城でよろしいでしょうか」
「城に手紙なんぞ出したら、読まれるに決まってる」
ヘルタさんは鼻で笑った。
「王都の南、鐘楼の脇の宿へ出しな。あたしの妹がやってる。ついでに、あんたたちもそこへ泊まりな」
出立の朝、戸口に籠が三つ置いてあった。
誰が置いたかは、どこにも書いていない。中身は干し肉と、蜂蜜の壺と、繕った手袋が二組だった。手袋は大きいのと小さいのが一組ずつで、私とニナの手の大きさを、誰かがちゃんと見ていた。
三日目の宿で、ニナが夕食に手をつけなかった。
「食べられませんか」
「油が古い。あと、鍋が魚くさい」
「では、これを」
私は湯に葉をひとつまみ落として、器の縁に息を当ててから渡した。ニナは鼻先で器を一度回し、それから黙って飲んだ。
「……あんた、あたしが食えないの、なんで先に分かんの」
「お顔でございます」
「顔」
「匙をお持ちになる前に、鼻から一度だけ息を吸われました。あれは、食べる前の息の吸い方ではありません」
ニナは何か言おうとして、やめた。やめてから、器の中身を全部飲んだ。
その夜、レオハルト様は宿の主人と長く話しておられた。翌朝から、私たちの止まる宿は少しずつ質の良いところになった。理由は仰らなかったし、私も伺わなかった。
馬車は四日目に峠を越えた。
雪が消えると、匂いが増える。土。草。人の煮炊き。馬。北の空気は匂いを吸い取って薄くしてしまうけれど、南へ下るほど、それは戻ってくる。私は窓を少しだけ開けて、その戻り方を確かめていた。
「何をしている」
「匂いを数えております」
「数えられるのか」
「六つほど」
レオハルト様は窓の外へ目をやり、それから膝の上のご自分の手を見た。
「俺には、風の冷たさしかない」
その声に恨みはなかった。三年前ならあったのかもしれない。今はもう、書付を読み上げるときと同じ声だ。
私は水筒の茶を器に移した。揺れるので、半分までしか注げない。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
毛布の下からニナが顔を出した。
「これは高くありません。屑葉を炒っただけです」
「嘘。匂いが違う」
「……匂いで、お分かりになったのですね」
ニナは黙って、毛布をかぶり直した。この子は褒められると隠れる。
レオハルト様は器を受け取り、揺れに合わせて手首を動かしながら口をつけた。飲み込んで、少し待って——
「……焦げた麦の匂いだ。遠いが」
遠い。
その言い方を、私は覚えておくことにした。三年前、この方は「何もない」と仰っていた。冬には「土の匂いがする」になった。今日は「遠い」。
遠いということは、そこに何かがあるということだ。近いか遠いかは、無いものには言えない。
「王都の茶は」
不意に、レオハルト様が仰った。
「王都の茶は、俺には分からんが」
そこで、言葉が止まった。
止まった先を、私は聞かなかった。聞けば答えてくださっただろう。けれどこの方が途中で言葉を置くときは、その先がまだご本人の中でも形になっていない。
馬車は坂を下りはじめていた。窓の向こうに、灰色の帯のようなものが低く横たわっている。
王都の城壁だった。
お読みくださりありがとうございます。
舞台が動く回です。舞台を動かすときにいちばん怖いのは、前の場所にいた人たちが背景になってしまうことだと思っています。ですのでグレーテとヘルタさんには、この先も十日ごとに手紙を書いてもらうことにしました。あの街は、彼女が留守のあいだも普通に動いています。
持っていくのは、ニナと、辺境伯と、母の帳面が一冊。荷物としては少ないほうです。
次回、王都に入る前の夜。ユーフェミアは帳面のあるページを開いて、半年前に一度だけ嗅いだ匂いを思い出します。




