第23話:空振りの買い占め
谷の柵は、十日で立った。
辺境の人は仕事が速い。速いというより、待つという選択をしない。雪解けの水が引いた翌日には測量が終わっていて、三日目には道の砂利が入り、六日目には斜面に杭が並んでいた。
私はそこへ苗を運んだ。運んだのは私だけではない。街の人が勝手に来た。
北の斜面は、朝のうちは何も見えない。谷底から上がってきた霧が腰の高さに溜まって、杭の頭だけが並んで浮かんでいる。昼近くになると霧は上から順に薄くなり、そこで初めて、斜面がどれだけ広いかが分かる。
その霧の中に立っていると、服が湿る。湿った服は匂いを吸うので、私は帰り道でいつも自分の袖を嗅いだ。土と、濡れた草と、雪が最後に残っている場所の匂いがした。
「ここいらの葉は昔から売り物にならんかったんだ」
橇に苗を積みながら、大工のホルガーさんが言った。
「渋くないってのは、腰がないってことだからな。王都の商人が来て、いつも半値だ」
「渋くないのではありません。渋みが出る前に霧が来るのです」
「同じだろ」
「違います。渋みを落とすには、普通は手間がかかります。ここは、その手間がいりません」
ホルガーさんは杭に寄りかかって、少し笑った。
「あんた、それを広場の壁に貼った女だな」
「貼りました」
「あれ、なんで貼った」
大市の日、私は北の葉だけで成立する配合を紙に書いて、広場の板壁に貼った。分量も、湯の温度も、蒸らしの数も、全部書いた。
「誰でも作れるようにしておかないと、私が倒れたときに、この街の茶が止まりますので」
「そんだけ?」
「そんだけです」
ホルガーさんは首を振って、橇を引いていった。
その配合は、冬のあいだに街から街へ写された。
写して回ったのは私ではない。宿のヘルタさんが最初に写して、隣の宿場に持っていった。そこから先は勝手に広がった。北の五つの街と、国境の守備隊の宿舎と、それから雪の切れ目に開く小さな市。
私は一度も、写すなとは言わなかった。言う理由がなかった。配合というのは、隠すと消える種類のものだ。母の帳面が七年もったのは、書いてあったからで、しまってあったからではない。
三月の終わりには、北の人間はもう、王都の葉を待たなくなっていた。待たなくなったことに、誰も気づいていなかった。冬のあいだ普通に茶を飲んでいたら、春に王都の荷が来なかった、というだけの話だからだ。
気づいたのは、荷を持っていた側だった。
ハンネスが荷を下ろしながら言った。
「奥さん。王都の商会、えらいことになってるよ」
「奥さんではありません」
「そりゃ失敬。……いや、笑い事じゃないんだ。あの人ら、去年から北向けの葉を買い集めてたろ」
「はい」
「倉が三つ、満杯だそうだ。北で売る前提で、値を吊り上げて買った分だ。それが」
「北が、買わない」
「買わない。誰も」
ハンネスは荷紐を締める手を止めた。
「王都で売ればいいと思うだろ。ところが王都は、今もっと高い葉が売れる。眠れないってんで、みんな上等なやつを買うんだ。北向けの安い葉なんぞ、置く棚がない」
「行き場がなくなったのですね」
「そう。腐るぞ、あれ」
ニナが器を拭きながら、横で聞いていた。
「うわ、また高いやつ淹れてる、って言おうと思ったけど」
「どうぞ」
「今日、あんまり高くないやつだ」
「北の葉です」
「あ、じゃあ言えないや」
言えなくなった、というのが、この半年で起きたことの全部だった。
四日後に、手代の男が来た。
バルド・ケーニヒの手代だ。以前この店で茶を飲んで、困った顔をして帰った人だった。今日は、もっと困った顔をしていた。
「旦那が」
「はい」
「商会を離れることになりまして」
私は湯を落とす手を止めなかった。
「本家が、北の買い付けは旦那の一存だったと。損は旦那の腹で、という話に」
「一存だったのですか」
手代は口を開いて、閉じた。
「……そうなりました」
なりました、と彼は言った。だった、ではなく。
私は器を出した。彼は座らなかった。座らずに、立ったまま両手で受け取った。
「あの、お尋ねしてもよろしいですか」
「はい」
「なぜ、配合を貼ったんです。あれを隠しておけば、うちは倉を抱えたまま、あなたに頭を下げに来るしかなかった。旦那を潰せたはずだ」
「潰すつもりがありませんでしたので」
「……は」
「私が貼ったのは、この街の人が冬に茶を飲めるようにするためです。ケーニヒ様のことは、考えておりませんでした」
手代は、器を持ったまま長く黙っていた。湯気が細くなって、途中で折れた。
私は嘘をついていなかった。大市の日、あの紙を書いていたときに考えていたのは、雪で道が塞がる四十日のあいだ、宿と兵舎と産婆の家に茶が要る、ということだけだった。ケーニヒ様の倉のことは、一度も頭に上らなかった。
上らなかったということが、この人にとっては、たぶん一番悪い知らせだった。
「それが、一番きついんですよ」
そう言って、彼は飲んだ。飲み終えて、器を丁寧に置いた。置き方が、この店で覚えたものになっていた。
夕方、レオハルト様が来た。
外套の肩に土がついていた。谷から直接来たのだと分かった。
「杭を打ってきた」
「ご自分で」
「人手が足りん」
彼は手を洗ってから卓に着いた。爪の間に、まだ黒い土が残っていた。
「北の斜面の土は、握ると崩れる」
「はい」
「握ってみたが、匂いはせん」
彼は自分の手のひらを見た。
「冷たいことは分かる。重いことも分かる。それだけだ」
「土の匂いは、私にもほとんどしません」
「嘘だな」
「本当です。土の匂いだと思っているものの半分は、そこに生えているものの匂いです」
彼は少しのあいだ黙って、それから低く息を吐いた。笑いに似ていた。
谷の葉は、まだ苗が根づいたばかりだ。今日出したのは、去年の秋にあの斜面の下で摘んだ、市に出せなかった分だった。腰がないと言われて半値で買い叩かれ、結局売れ残っていた葉だ。
それを、湯を七十八度まで落として淹れた。渋みを引く必要がないので、そこへ手をかけない。かけない分、香りを喉の奥へ残す配合に寄せられる。
一杯出した。彼は飲んで、飲み込んで、止まった。
「……来た」
「はい」
「近い。喉の上だ。今日は——」
彼は言葉を探した。
「今日は、あの谷の匂いがする」
「そのように配合しております」
「作れるのか、そんなものが」
「作れます。谷の葉で淹れておりますので」
彼は器を置いて、しばらく卓を見ていた。それから、まったく事務的な声で言った。
「登記は通した。谷はもう君のものだ」
「……早すぎませんか」
「遅いと死ぬかもしれん」
「縁起でもございません」
「事実だ」
戸が開いたのは、その直後だった。
グレーテさんが入ってきた。彼女がこの店へ来るときは、必ず用件を持っている。今日は、手に持っていた。
「閣下。ユーフェミア様へ、王都から」
差し出されたのは、封書だった。
厚い紙だった。北ではまず使わない、王都の紙。ハンネスの荷でもヘルタさんの伝手でもなく、早馬で運ばれてきた重さの封書だった。
封蝋を見て、私は手を止めた。
見間違えるはずがなかった。五年のあいだ、毎朝の茶の記録に、私自身がこれと同じ印を押していたのだから。
王家の印だった。
レオハルト様が立ち上がった。
「読むな、と言っても読むだろう」
「読みます」
私は封を切った。
短い文だった。定型の挨拶があって、日付があって、それから、一行。
——調茶師ユーフェミア・アルテンフェルトを、王都へ召還する。
差出人の名を、私は二度読んだ。
王太子でも、父でもなかった。
「誰からだ」
私は紙を下ろした。
「王妃陛下です」
お読みくださりありがとうございます。
第3章の最後でした。バルドの決着は、ユーフェミアが何もしないうちに終わっています。彼女がしたのは、大市の日に配合を一枚、広場の板壁に貼ったことだけです。潰そうとしていない相手が勝手に転ぶ——というのが、この作品のざまぁの形になります。
手代の「それが一番きついんですよ」は、この章でいちばん書きたかった台詞でした。
ここまでお付き合いくださった方へ。ブックマークの数は、こちらからは湯気のように見えています。数えるのが職業病ですので、数えております。
そして、王都から呼ばれました。呼んだのは王妃です。この人は第18話でバルドが口を滑らせてから、ずっと名前だけが出ていた人でした。
次回、ユーフェミアは荷をまとめます。二人と、一冊を連れて。




