第22話:こわい、と言った人
三日、あの人は来なかった。
国境の見回りが延びると、そうなる。雪解けの季節は道が崩れるので、守備隊が総出で見に行く。グレーテさんがそう教えてくれた。
「四日目には戻られます」
「かしこまりました」
「……ユーフェミア様。毎朝、一杯落としておいででしょう」
「はい」
「どなたも飲まない分を」
「冷めたら私が飲みます」
グレーテさんは、それ以上何も言わずに帰った。ニナは戸が閉まってから、器を洗いながら言った。
「あれ、たぶん褒められてたよ」
「そうでしょうか」
「グレーテさん、褒めるとき黙るもん」
三日のあいだ、私は毎朝、同じ手順で一杯落とした。
葉を選び、湯を八十度で止め、六十数えて、卓のいつもの位置に置く。置いてから、店の掃除をする。掃除を終えて戻ると、湯気は消えている。消えた器を持ち上げて、私が飲む。
意味のない手順だと自分でも思った。思ったが、やめなかった。やめると、手のほうが数え方を忘れる。
二日目の朝、ニナが後ろから覗き込んで言った。
「うわ、また高いやつ淹れてる。……誰も来ないのに」
「来ない日のほうが、腕が落ちます」
「そういうもん」
「そういうものです」
ニナは何か言いかけて、やめた。やめて、代わりに私の隣に立ち、器を並べるのを手伝った。この子は、続きを言わないほうがいい場面を選べるようになっている。
三日目の朝、ヨナスさんが茶房に寄った。国境守備隊の若い兵で、故郷の煮込みの味を思い出せないと言って来た人だ。
「閣下、明日には戻られます」
「ご無事ですか」
「無事です。……ただ、その」
ヨナスさんは器を両手で持ったまま、言葉を選んでいた。
「昨夜、峠の小屋で飯を食ったんです。俺たち十二人で」
「はい」
「みんな、うまいうまいって言うんです。……閣下も、同じだけ食って、同じだけ椀を空けて」
「はい」
「『よく煮えている』って、仰るんです。毎回、それだけ」
私は湯を落とす手を止めなかった。
「よく煮えている、というのは味の話ではありません」
「そうなんです」
ヨナスさんはうなずいた。
「見れば分かることしか、仰らないんです。何年も。俺たち、最初は気づかなかった」
「今は」
「今は、全員知ってます。知ってて、誰も言わない」
彼は器を置いた。
「言ったら、閣下があの椀を持たなくなる気がして」
四日目の夜に、戸が鳴った。
夜だった。この人が夜に来るのは初めてだった。外套の裾も、靴も、泥だった。雪解けの泥は黒い。
「湯はあるか」
「ございます」
「頼む」
彼は卓に着いた。着いてから、しばらく何も言わなかった。手袋を外すのに、いつもの倍の時間がかかっていた。指がかじかんでいるのだと分かるまで、少しかかった。
「道は」
「二か所、崩れていた。人は出ていない」
「よろしゅうございました」
「四人、川に落ちた。全員上がった」
「……それは」
「全員上がった」
彼は同じことを二度言った。二度言う人ではない。
私は湯の温度を落とした。八十度より、さらに下げた。冷えた体に熱いものを一気に入れると、体は温まる前に驚いてしまう。急いで飲めない温さのほうが、遠くまで届く。
葉は、この冬いちばん低いところで摘んだ分を使った。谷底に近いほど霧が長く残るので、渋みが薄く、代わりに土の匂いを深く抱える。そこへ、乾かしすぎた葉をほんの少しだけ混ぜる。焦げる手前で止めた葉は、割れた石のような匂いを出す。
匙で三度。湯を回し入れる。
葉が開くのを、私は上から見ていた。冷えた店の中で、湯気が真上へ細く立った。香りは私の鼻先まで来て、そこで一度たわんだ。冷たい空気は香りを重くする。重い香りは、高くは行かないが、遠くまで行く。
六十数える。
四十を過ぎたあたりから、湯の色が急に濃くなる。そこで止めない人が多い。母の帳面には、この一手について何も書いていない。書かなくても分かることは、母は書かなかった。
「どうぞ」
彼は器を持って、飲んだ。
飲み込んで、喉が動いて——止まった。
長かった。いつもより、ずっと長かった。
「……近い」
低い声だった。
「今日は、近い。喉の、すぐ上まで来ている」
「はい」
「土だ。それから、乾いた石を割ったときの匂い。……石は、初めてだ」
「初めてお出ししました」
「そうか」
彼は器を置かなかった。両手で持ったまま、卓を見ていた。
そして、喋り始めた。
「峠の小屋で、飯を食った」
「伺いました。ヨナス様から」
「あいつは喋りすぎる」
「はい」
「……あいつは喋りすぎるが、悪くはない」
彼は指で器の縁をなぞった。
「十二人で食う。全員がうまいと言う。俺は椀を空ける。空けたあと、何を食ったか思い出せん。食ったことは覚えている。何を食ったかが、無い」
私は座らなかった。座ると、聞く姿勢になってしまう。この人は、聞かれる姿勢を向けられると喋らなくなる。
「三年、それでいいと思っていた。実際、困らん。飯は食える。眠れる。指は動く。国境も守れる」
「はい」
「困らんのに、年々、部屋が狭くなる」
薪がひとつ、崩れた。彼はそちらを見なかった。火の音は聞こえている。聞こえているのに、火の匂いは無い。この人の世界では、音だけが残っていて、そのぶん音が大きすぎるのだろうと思った。
彼は初めて、私のほうを見た。
「分かるか。世界が減っていくのではない。俺のほうが、後ろへ下がっていく。飯の席で、皆が話しているところから、少しずつ」
「……はい」
「憐れむなよ」
「憐れんでおりません」
「そうだな。君は一度も、そういう顔をしたことがない」
彼は器を持ち上げて、底に残った色を見た。
「初めて君の茶を飲んだ日、俺は器を返しながら考えていた。これは長く続かん、と。医者が七人、皆そうだった。最初はよく効いて、そのうち効かなくなる。だから期待するのはやめようと思った」
「今は」
「二十九日目だ。切れた日もあるが、無くなってはいない」
彼はそこで、一度息を吸った。
吸って、吐いて、また吸った。喋るために息を整える人を、私は初めて見た。
長く喋るのは茶の感想のときだけの人だ。その人が、息を整えていた。整えないと言えない言葉が、この人の中に一つだけ残っていた。
「ユーフェミア」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「君の茶がなくなったら、俺はまた三年前に戻る」
器が、卓に置かれた。音がしなかった。
「……それが、こわい」
私は返事をしなかった。
初めてこの人に二杯目を出した日と、同じだった。返事をしたら、この人が今つかまえているものが逃げてしまう気がした。だから私は立っていた。立っている自分の手が、湯の柄杓を持ったまま、下りていかなかった。
「こわい、と言った」
彼は自分の言葉を、自分で確かめるように繰り返した。
「三年、誰にも言わなかった。言えば、皆が俺を病人にする」
「私は、いたしません」
「知っている」
彼は立ち上がった。立ち上がって、それから、まったく違う声で言った。
「谷をひとつ出す」
「……谷、ですか」
「北の斜面だ。霧が朝から昼まで抜けない。あそこの葉は渋みが出ん。君が春の大市で言っていたことだ」
「覚えていらしたのですか」
「覚えている。土地の話は、俺の仕事だ」
彼は外套を取った。
「柵と道は領が出す。人手も出す。ただし——畑は君の名で登記する」
「私の」
「俺の名にはせん。城に入れとも言わん」
彼は戸口で足を止めた。
「言えば、君は断るだろう」
「……」
「俺が明日死んでも、あの谷は君のものだ。そういう書き方にする。三年前に一度死にかけた人間は、そこを先に決めておく」
私は、まだ柄杓を持っていた。
「レオハルト様。それは、大きすぎます」
「大きくない」
彼は戸を開けた。夜の冷たい空気が入ってきて、店の中の湯気が一度、傾いた。
「君に淹れ続けてもらうために必要な分だ。俺は、それしか計算していない」
彼が出ていったあと、私は器を片づけた。
片づけて、洗って、伏せて、それから何もすることがなくなった。
何もすることがなくなると、さっきの言葉が戻ってくる。戻ってきて、行き場がないまま、店の中を回っている。
私は火のそばに座った。
——雨のあとの土。乾いた石を割ったときの匂い。
彼が言い当てたものは、いつも同じ場所から来る。私が配合で作っているのは香りであって、記憶ではない。それなのに、この人が拾い上げるものには、必ず北の土の匂いが混じる。
あれは、この人が三年前より前に嗅いだ何かなのだろうか。
それとも、私が渡したものを、この人が自分の中にあった何かで受け取り直しているのだろうか。
私には、分からなかった。
分からないまま、私は明日の葉を選び始めた。
——三年前に一度死にかけた人間は、そこを先に決めておく。
あの人は、自分が何を飲まされたのかを、いまだに知らない。
お読みくださりありがとうございます。
第22話です。この作品の中心に置くつもりで書きました。
レオハルトが「こわい」と言うまでに、二十二話かかりました。長かったと思います。ただ、この人は自分の欠損を人に渡さないことで三年間立っていた人なので、早く言わせるわけにはいきませんでした。言えるようになったこと自体が、この物語で彼に起きた一番大きな変化です。
彼が出したのは、土地です。彼女を城に入れることでも、囲うことでもありません。この人の好意は、いつもそういう形で出てきます。
次回、王都からの荷が北で行き場を失います。




