第21話:床下から出たもの
床が抜けたのは、ニナのせいではない。
「あたしのせいじゃないからね」
「ええ。板のせいです」
「ほんとに? ほんとにそう思ってる?」
「思っております」
ニナは片足を床に落としたまま、膝まで沈んで動けなくなっていた。埃が胸の高さまで立って、そこにいる二人分の姿を白くしていた。
雪の重みで庇が傾いたので、大工のホルガーさんに直してもらうことになったのが三日前だ。庇を直すには柱を見る。柱を見るには床を見る。見た結果が、この穴だった。
「腐ってるな」
ホルガーさんは穴の縁を指の関節で叩いた。
「表は生きてる。裏が駄目だ。湿気を吸って、下から食われてる」
「張り替えになりますか」
「ここらは全部だな。奥まで抜くぞ」
「お願いします」
ニナが引き上げられて、ようやく立ち上がった。膝から下が粉だらけだった。
「ユーフェミア様。あたし今、死にかけた」
「膝までです」
「膝までだって死ぬときは死ぬ」
「その場合は湯を沸かしておきます」
「なんで湯」
「体が冷えますので」
ニナは何か言い返そうとして、埃を吸い込んでむせた。
床板を剥がすと、下から冷たい空気が上がってきた。
土の匂いがした。それから、木の匂い。それから——止まった。
「ホルガーさん。少し、待っていただけますか」
「なんだい」
「匂いがします」
私は穴の縁に膝をついて、下へ顔を近づけた。冷えた空気は香りを運ばない。運ばないのに、届いた。
茶葉だ。
床の上に染みついていたものより、ずっと濃い。上のは十年ぶんの風で薄まった残り香だったが、下のは風が当たっていない。閉じ込められたまま、そこにあった。
「ニナ。灯りを」
「うん」
腹ばいになって腕を差し入れた。指が梁に触れた。梁の上——落ちて溜まった場所ではなく、人が手を伸ばして置く高さの、その上に。
布があった。
引き出すと、油を染ませた布だった。防水のために使う種類の布で、王都の調茶室でも茶葉を運ぶときに使っていた。四つに畳んで、紐で縛ってある。
紐の結び方を見て、私は手を止めた。
二重の返し結び。片手で解ける結び方だ。もう片方の手が塞がっている人の結び方。
母は、いつも片手に器を持っていた。私が覚えている母は、両手が空いている姿をほとんどしていない。
「ユーフェミア様。開けないの」
「開けます」
「手、震えてる」
「寒いのです」
床下から上がってくる空気は、確かに冷たかった。冷たかったが、私の手が震えている理由には足りなかった。
布の中には、匙が一本入っていた。
木の匙だった。柄が長い。先が薄い。薄いのは削ったからで、削り跡が均一ではない。何度も、少しずつ、使いながら削ってある。
私は自分の帯の匙入れから、一本抜いて並べた。
同じ形だった。
私が持っている三本は、母の使っていたものを見て、私が真似して削ったものだ。十四のときから、そうやって作ってきた。手本にした匙は王城の調茶室にあって、母が消えたときに一緒に消えた。
消えたものが、北の街の空き家の床下にあった。
「……ユーフェミア様」
ニナが灯りを持ったまま、私の顔を見ていた。
「なんで泣いてないの」
「泣くところでしょうか」
「あたしなら泣く」
「そうですね」
私は匙を布の上に置いた。置いた指が、思ったより動かなかった。
「ニナ。この匙は、七年前にここにありました」
「なんで分かるの」
「布が油を吸っています。油は年で色が変わります。それから——」
私は言葉を探して、探すのをやめた。
「それから、この削り方をする人を、私は一人しか知りません」
ニナは何も言わなかった。言わずに、灯りを少し近づけてくれた。
私は匙を洗った。
七年ぶんの埃を落とすのに、湯を三度替えた。木は水を吸うので、長く漬けてはいけない。それは配合帳に書いてあることではなく、私の記憶のほうに書いてあることだった。
乾かしてから、一杯だけ淹れた。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「本日は、そうします」
「なんで」
「新しい道具は、いちばん良い葉で慣らすものです」
「そういうもん?」
「そういうものだと、教わりました」
「誰に」
私は答えなかった。答えなくても、ニナは分かった顔をした。この子は察しがいい。察したことを口に出さない分別まで、この数月で身につけてしまった。
匙は、私の手にすぐ馴染んだ。馴染みすぎて、少し落ち着かなかった。
夕方、レオハルト様が来た。
戸を開けて、床の穴を見て、それから穴の縁に置いてある匙を見た。
「抜けたか」
「抜けました」
「ニナは」
「膝まででした」
「そうか」
彼は外套を脱いで、卓ではなく穴のそばに腰を下ろした。座り方が、部下の報告を聞くときの座り方に見えた。
「それは」
「床下にありました。梁の上に、置いてありました」
彼は匙を取り上げた。手が大きいので、匙が小さく見えた。
そして、鼻先へ持っていった。
私は止めなかった。
彼はしばらくそうしていて、それから手を下ろした。
「何もない」
「はい」
「君は」
「私には、まだ茶葉の匂いがします。七年ぶんの、いちばん下に残った分です」
「そうか」
彼は匙を私に返した。返すとき、指が触れないように角度を変えた。この人はそういう所作をする。
「俺には分からんものを、君は分かる。それは、便利だな」
「便利、でしょうか」
「便利だ。俺の鼻は、もう証人にならん」
言い方が乾いていた。憐れみを差し出す隙のない言い方で、それはこの人が三年かけて身につけた話し方なのだと思った。
「証人、とおっしゃいましたか」
「言った」
「なぜ、その言葉を」
彼は膝の上で手を組んだ。
「三年前のことを、俺は自分で証せん。何を飲んだか、何が混ざっていたか。全部、他人の話でしか知らん」
「見た方は、いらっしゃったのですね」
「見た者はいる。嗅いだ者はいない。嗅げたはずの者は、俺だけだった」
私は湯を落とす手を止めなかった。止めなかったが、数える数が一度、どこか飛んだ。
「レオハルト様」
「なんだ」
「七年前、この家に誰が住んでいたか、お調べになれますか」
彼は少し黙った。
「街の帳簿は焼けている。十二年前の火事でな」
「では」
「だが、人は焼けていない。年寄りが何人か残っている」
彼は立ち上がった。
「聞いてくる」
「よろしいのですか」
「君が淹れる場所のことだ。俺の領のことでもある」
そう言って、彼は戸口へ向かった。振り返らずに、一度だけ言った。
「その匙で淹れたものは、俺には分からんかもしれん。……それでも、使え」
戸が閉まった。
その夜、私は匙を灯りの下で回していた。
柄の裏が、わずかにへこんでいる。指の当たる位置ではない。もっと下、握らない場所だ。
灯りを近づけて、角度を三度変えた。
三度目で分かった。削られていた。
木目に沿って、浅く、削り落としてある。急いで削った跡ではない。丁寧に、時間をかけて消してある。
消してあるということは、そこに何か書いてあったということだ。
私は灯りを傾けた。傾けると、削り残った線が、かすかに影を作った。
線は、まだ形をしていた。消しきれなかった分だけ、残っていた。
母は、この匙に自分で何かを彫って、自分でそれを削り落としたのだ。
お読みくださりありがとうございます。
第21話は、床が抜ける話でした。物語の中で床を抜くのは古典的な手なので、抜くならせめて理由を正確に書こうと思い、木の腐り方から入れています。表が生きていて裏が死んでいる板、というのは実際にあります。
ユーフェミアが泣かないのは、我慢しているからではありません。この人は、驚いたときにまず手が止まる人です。感情より先に手順が来る。そういう職業の人として書いています。
削って消された文字が何であるかは、しばらく書きません。
次回、三日ぶりにあの人が来ます。




