第20話:王都で、眠れない人が増えている
雪が緩む季節になると、北の道に轍が戻る。
冬のあいだ止まっていた荷が一度に動き出すので、この街は三月の終わりだけ妙に騒がしい。その騒がしさに紛れて、噂も一緒に上がってくる。
行商のハンネスが北の道を上がってくるのは、月に二度だ。荷を下ろすより先に、王都の噂を下ろしていく。
「王都じゃ今、眠り薬が品切れだそうで」
私は匙を持ったままだった。三度目のところで、手が少しだけ浅くなった。
「品切れ、ですか」
「薬師の棚が空っぽだって話でさ。けしの粉も、酒に混ぜるやつも。値は三倍。それでも並ぶんだと」
「どなたが並んでいらっしゃるのでしょう」
「そりゃ、眠れない人でしょうよ」
ハンネスは自分の言葉が面白かったらしく、鼻から笑った。私は笑わなかった。
「ハンネスさん。並んでいるのは、どのあたりの方々ですか」
「どのあたり、ってのは」
「下町の方か、お城に近い方か」
ハンネスは荷を縛る手を止めて、少し考えた。
「……そういや、上のほうだって聞いたな。役人だの、女官だの。城勤めから始まって、外へ広がってったって」
「そうですか」
「奥さん、王都に知り合いでも」
「奥さんではありません」
湯を回すと、白い筋がひとつ立って消えた。ハンネスは肩をすくめて、干し肉の値の話に移った。値の話をしている間、私はずっと、彼の言った順番のことを考えていた。
城から。外へ。
昼過ぎに、宿のヘルタさんが来た。
「聞いた? 王都の話」
「ハンネスさんから、少しだけ」
「うちに泊まった商人のほうが詳しかったよ。夜中に窓が明るいんだってさ。どの家も、どの家も。灯りを消せないんだと」
ニナが皿を拭く手を止めた。
「なにそれ。こわ」
「あんた、そういう顔するとほんとに子供だね」
「子供だし」
ヘルタさんは卓に肘をついて、声を落とした。
「でね、噂の続きなんだけどさ。王宮のお茶が、去年から変わったって」
私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から上がりきる、少し手前。まだ早い。
「変わった、とは」
「味が違うんじゃないんだって。匂いが違うって言うんだよ。前のはもっと——なんて言ってたかな。ああ、そうだ。『部屋に残った』って」
「残る、ですか」
「飲み終わってしばらく経っても、部屋にまだ匂いがあったって。今のはすぐ消える。それだけの違いなのに、みんな妙にそこを言うらしいよ」
私は湯を落とした。数え始めた。ひとつ、ふたつ。
「ユーフェミアさん」
「はい」
「あんた、王都のお茶を——」
「ヘルタさん。今日は温めのほうがよろしいですか」
ヘルタさんは私の顔を見て、それ以上は聞かなかった。宿を三十年やっている人は、引き際というものを知っている。
「温めで。……ああ、それと。今日のは、いいやつだろ」
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「ニナ。お客様の前です」
「事実じゃん」
事実だった。私は少しだけ、いい葉を使っていた。噂を聞いた日に手が勝手に選ぶものが、いつもより一段上になる。それを自分でも止められなかった。
ヘルタさんが帰ったあと、ニナが器を並べながら言った。
「ねえ。眠れないのって、そんなに困ること?」
「困ります」
「あたし、夜は普通に寝るけど」
「ニナは昼も寝ています」
「あれは休憩」
私は笑いかけて、途中でやめた。笑いかけたところに、ヘルタさんの言葉がもう一度戻ってきたからだ。
——前のは、部屋に残った。
残る香りの作り方を、私は知っている。知っているどころではない。五年のあいだ、毎朝それを作っていた。
葉を選び、湯の温度を決め、蒸らしの数を決める。残す香りは、そうやって作る。作ろうとしなければ、香りは飲み終えた瞬間に消える。
だから、王宮の茶が「すぐ消える」ようになったというのは、腕が落ちたという話ではない。誰かが、残さない配合に変えたという話だ。
「ユーフェミア様。手、止まってる」
「……そうですね」
「あと、湯もう沸いてる」
「そうですね」
日が傾いた頃に、レオハルト様が来た。
朝に来られない日は、夕方に来る。国境の見回りが延びた日がそうだ。外套の肩が濡れていた。
「雨か」
「霧です」
「どちらでも同じだ、俺には」
そう言って、彼は卓に着いた。この人の座り方は半年前と変わらない。変わらないのに、外套を脱ぐようにはなった。
一杯出した。彼は飲んで、飲み込んで、しばらく黙っていた。
「……薄いな」
「本日は薄く淹れております」
「いや、そうではない」
彼は器を置いた。
「匂いのほうだ。来かけて、途中で切れる」
私は彼の喉を見た。喉の動きは、いつもより浅い。
「霧の日は、どなたでもそうなります。空気が湿ると、香りは遠くまで行きません」
「そうか」
彼はそれ以上、残念そうな顔をしなかった。この人は落胆を顔に出さない。出さないので、私が代わりに覚えておくことにしている。
彼は空になった器を傾けて、底の色を確かめた。飲めなかった三年ぶんの癖なのだと、私は勝手に思っている。
「今日で、何日目になる」
「届いた日でしたら、二十七日目でございます。本日は、入りません」
「数えているのか」
「数えております」
「届かなかった日は」
「そちらのほうが、まだ多うございます。……ただ、去年より減りました」
「そうか」
彼は器を置いた。置き方が、いつもより丁寧だった。
「ハンネスから聞いたか。王都の話を」
「眠れない、という」
「城勤めから始まったそうだな」
彼は指で卓を一度だけ叩いた。
「妙な話だ。飢饉でも戦でもない。眠れんだけで国が傾くわけでもない」
「……傾くかもしれません」
言ってから、自分の声が低くなっていたことに気づいた。
彼はこちらを見た。何かを見て、それが何であるかを確かめる目だった。
「君は、心当たりがあるのか」
「湯が沸きます」
私は火のほうを向いた。彼は追ってこなかった。追ってこないところが、この人の一番厄介なところだ。
戸口で外套を羽織りながら、彼は一度だけ振り返った。
「言いたくないなら言うな。ただ、抱えているものの重さくらいは、俺にも見える」
「見えますか」
「匂いは分からん。重さは分かる」
その晩、私は帳面を出した。
母の配合帳は、前から順に読むようにできていない。思いついた場所に思いついたことを書いてしまう人の帳面だ。私は七年、これを前から読んでいた。前から読んで、必要なところだけ使っていた。
だから、後ろから三分の一のあたりを開いたのは、その夜が初めてだった。
紙の色が違った。そこだけ、繰り返し開かれた紙の色をしている。
葉の名が四つ。分量。湯の温度。蒸らしの数。
それから、年号と数字の列。
七年ぶん、並んでいた。
一年目より二年目の数字が小さい。二年目より三年目が小さい。少しずつ、毎年、削られている。誰かが分量を減らし続けた記録だった。減らして、様子を見て、また減らして。
私はその列の最後を見た。最後の年は、母が消えた年だ。
そこから先の欄は、空いている。
空いた欄に、私は自分の字で数字を足していった。母より小さい数字を、五年ぶん。
十四のとき、私はこの列の意味を誰にも教わらなかった。教わらないまま、母の最後の年より一つ小さい数を書いた。そうするものだと思っていた。母がそうしていたから、そうした。
指が冷えていた。火は落としていないのに。
私はページの端を押さえた。押さえた指の先に、余白があった。母は余白に書く人だ。前後の脈絡なく、思いついたことをその場に書きつけてしまう人だ。
太い字だった。急いでいる字だった。
『これは、いずれ誰かが止めねばならない』
お読みくださりありがとうございます。
第20話は遠景の回でした。この作品のざまぁは、主人公が手を下さない形をとっています。王都で起きていることを、ユーフェミアは北で噂として聞くだけです。聞くだけなのに、彼女ひとりだけが意味を分かってしまう——という回でした。
母の帳面に並んでいた数字の列が何なのかは、まだ書きません。ここで書いてしまうと、この物語が「暴く話」になってしまうからです。彼女は暴きに行きません。数えるだけです。数えるのが、彼女の職能ですので。
次回、茶房の床が抜けます。




