第19話:三倍出そう、と言われた日
翌々日の朝、ケーニヒ様は手代を連れて来られた。
前と違って、外套を脱がなかった。長居をする気がないという合図だと、私にも分かった。
「お茶をお出ししましょうか」
「今日は結構。……いや、やはりいただこう。ここの茶は、飲めんのが惜しい」
「飲めない、というのは」
「私には分からんという意味ですよ。分からんものを惜しむのは、我ながらおかしな話だが」
ヨスト様が戸口で、私に向かって深く頭を下げた。その頭が上がる前に、ケーニヒ様は奥を見ていた。
「お嬢さん。あの子を借りても」
ニナが笊を抱えたまま立ち止まった。
「あたし?」
「そう、あんただ。ちょっと座りなさい」
ケーニヒ様は懐から小さな包みを三つ出して、卓に並べた。どれも指先ほどの量の茶葉だった。
「舐めてごらん。三つとも」
ニナは私を見た。私はうなずいた。
この子は器を鼻先で一度回してから舐める。癖ではなく、手順だ。誰に教わったわけでもない。街で残り物をもらって生きていた頃、傷んだものを口に入れないために自分で組み上げた手順だった。
包みの葉からは、私にも匂いが届いていた。ひとつ目は乾いた草。ふたつ目は、長く暗い場所に置かれた紙のような匂い。三つ目は——甘く、厚く、そのすぐ下に別の何かが沈んでいる。強い香りで弱い香りを覆うのは、王都で値をごまかすときによく使われる手だった。
「これは去年の。……こっちは古い。四年、いや五年」
「ほう」
「で、こっちは——変なの。二つ混ぜてる。片方が強くて、片方を隠してる。隠してるほうが、たぶん高いやつ」
ケーニヒ様が、ゆっくりと目を上げた。この日、初めて笑っていない顔だった。
「三十年やってきて、これを当てた者は四人だ」
「ふうん」
「そのうち三人は、私が高い金で買った」
彼は包みを片づけながら、そのままの調子で言った。
「その子の舌、王都でなら値がつく。三倍出そう」
薪が鳴った。
「部屋をやる。ひとり部屋だ。飯は三度、冬着は毎年新しいのを。銭は月に六枚。読み書きは商会で教える。……嫌なら十年で辞めていい。辞めるとき、辞め賃も出す」
ニナは何も言わなかった。
うちでこの子に渡しているのは、寝床と、三度の食事と、月に銀貨二枚だ。二枚というのも、私が値をつけたのではない。この街の見習いの相場をヘルタさんに聞いて、そのまま合わせただけだった。
三倍。六枚。冬着。ひとり部屋。読み書き。
私は湯を落とした。落とす手が震えないように、いつもより丁寧に落とした。
止める言葉なら、いくらでも出てきた。あの人の商いは赤字であること。三年で切られるかもしれないこと。王都は、感覚の鋭すぎる子どもに優しい場所ではないこと。
どれも本当だった。本当のことを並べて人を引き止めるのは、たぶん、いちばん質の悪いやり方だ。
「返事は急がん。三日おく」
ケーニヒ様は立ち上がって、それから、思い出したように付け足した。
「言っておくが、これは嫌がらせじゃない。私はね、あの舌を野ざらしにしておくのが惜しいだけだ」
そう言って、彼は出ていった。ヨスト様がもう一度、深く頭を下げて出ていった。
その日、ニナは一度も「うわ、また高いやつ淹れてる」と言わなかった。
夕方、レオハルト様がいらした。
いつものように一杯お出しした。彼は一度待ってから飲んで、飲み込んで、「石の匂いだ」と仰った。乾いた石を割ったときの、と付け足された。
その横で、ニナが唐突に聞いた。
「辺境伯サマ。金って、要る?」
「要る」
「即答すんの」
「要る。領も、俺も」
ニナは黙って床を見ていた。それから、小さい声で言った。
「あたし、まだ淹れられないんだよね。この前、あたしが淹れたやつ、どうだった」
「何も来なかった」
「うわ、はっきり言うじゃん」
「嘘を言っても、君の役には立たん」
レオハルト様は器を置いてから、少しだけ言い方を変えられた。
「……まだ、だ」
ニナは返事をしなかった。しないまま、その晩、屋根裏へ上がっていった。
火を落としてから、私は上を見た。屋根裏で、小さな金属の音が続いていた。数えているのだと分かった。何度も、最初から数え直している。
私は上がっていかなかった。上がっていって何か言えば、それはこの子の代わりに数えることになる。
二日目も、ニナは黙っていた。黙ったまま、いつもより丁寧に葉を広げ、いつもより長く笊を揺すった。手が空くと、指を折って何かを数えている。数え終えると、また最初から数え直していた。
昼に一度だけ、この子は聞いた。倉の残りはあと何日ぶんか、と。私は正直に答えた。ひと月と少しです、と。ニナは「ふうん」とだけ言って、それきり何も聞かなかった。
三日目の朝、ニナは私より先に起きていた。竈の前に座って、火を熾していた。
「ユーフェミアさん」
「はい」
「あたし、ちょっと本気で考えた」
「はい」
「ちょっとじゃない。すごい考えた。……六枚だよ。あたし、去年の冬、靴なかったんだよ。同じ小屋にいた子、春まで持たなかったし」
「存じております」
「怒んないの」
「怒りません」
私は湯を火にかけた。沸くまでに二百数える。数えるあいだ、この子は自分の指を見ていた。
「行くなら、紹介状を書きます」
ニナが顔を上げた。
「は?」
「あなたの舌がどういうものかを、あちらの人は正しく測れません。測り方を書いておきます。書いておかないと、安く使われますので」
「……あのさ。あたしが行くって言ったら、書くわけ」
「書きます」
ニナは長いこと私を睨んでいた。睨んで、それから、火のほうを向いてしまった。
「やめとく」
「そうですか」
「聞かないの、理由」
「伺います」
ニナは火箸で薪を突きながら、ぶっきらぼうに言った。
「ここの茶が一番うまいから」
私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から立ち始めている。まだ早い。
「あなたは、美味しいが分からないと仰っていたと思うのですが」
「分かんないよ。今も分かんない。……でもさ、よその飲むと『違う』って思うんだよ。違うって思うほうを、うまいってことにする。それでいいでしょ、別に」
「いいと思います」
「じゃあいい」
火の中で薪が崩れて、竈の前が明るくなった。この子の目のふちが赤いことに、私はそのときようやく気がついた。三日で三度、この子は自分の一生を数え直したのだと思う。数え直したうえで、勘定に合わないほうを選んだ。
私は、それを勇気とは呼ばないことにした。呼んでしまうと、この子が損をしたことになる。
ニナは立ち上がって、笊を取りにいった。取りにいく背中に向かって、私は一つだけ言った。
「ニナ。銭のことは、また私に言ってください。値上げのしかたは、母に習っております」
「……うわ、また高いやつ淹れる気だ」
昼過ぎ、ヘルタさんが息を切らして駆け込んできた。
「ユーフェミアさん。あんた、王都のお茶のこと、何か知ってるかい」
「どうかなさいましたか」
「昨日うちに泊まった行商がね、こぼしてったんですよ」
彼女は声をひそめた。ひそめる必要のない、誰もいない店の中で。
「王都じゃ今、みんな眠れないんですって。お偉い方から順に。……お茶が変わってから、ずっと」
お読みくださりありがとうございます。
ニナは三日、本気で悩みました。
この子を「お金には靡かない健気な子」にはしたくありませんでした。去年の冬に靴がなかった子にとって、月に銀貨六枚と冬着は、忠義よりずっと重いものです。悩まないほうが嘘になります。
そして断った理由も、恩でも義理でもありませんでした。よそのを飲むと違うと思うから、というだけです。個人的には、忠誠より当てになる理由だと思っています。
なお紹介状は、本当に書くつもりでした。
次回、王都の噂が北まで届きます。ユーフェミアは、母の帳面のある頁を探し始めます。




