第18話:王妃陛下のご意向だ
倉の残りは、二月ぶんから一月半ぶんに減った。
減った理由の半分は、うちで淹れたぶんだ。もう半分は、他所の店に分けたぶんだった。広場で葉を売っていた老人たちが店を畳んだあと、街の宿も食堂も葉が手に入らなくなっている。ヘルタさんが困った顔で来たので、樽ひとつを渡した。
「うちの分、減るじゃん」
ニナがそう言ったので、私は答えた。
「減ります」
「なんで渡すの」
「ヘルタさんの宿で朝に茶が出ないと、街道の商人がこの街に泊まらなくなります。泊まらなくなると、春に葉を運んでくる人もいなくなります」
「……ずるいなあ、その言い方」
「本当のことです」
この十日、街の広場では市が立たなかった。立てるだけの品がないのだ。代わりに、樽ひとつ、笊ひとつを抱えた人が、店から店へ黙って歩くようになった。売り買いではなく、貸し借りの形になっている。
ヨスト様は今も毎日、同じ道を四往復している。すれ違うたびに、深く頭を下げていかれる。
十日目の昼過ぎ、低い音がまた戸の前で止まった。
「いや、寒い。北はこれだから敵わん」
同じ台詞で、同じように笑いながら、ケーニヒ様が入ってきた。ただ、外套を脱ぐのが前より早かった。座るのも早かった。この人は、暇な時ほどゆっくり脱ぐ人なのだと思う。
「お茶をお出ししましょうか」
「いただこう。……いや待て、金は払う。手代がひどく世話になったそうで」
「薪を割っていただきました」
「あれは字を書かせると速い。薪も速いか」
「一冬ぶん割ってお帰りになりました」
ケーニヒ様は笑った。笑いながら、店の中を見回した。前と同じ順序ではなかった。今度は先に、私の背後の棚を見た。
「まだ、葉があるんですな」
「ございます」
「畑は全部押さえた。市も立たん。それでも、この街の店先からまだ湯気が消えていない。……なぜだと思います」
「みなさんが、分け合っておいでだからでしょう」
「その通り。分け合われるのがいちばん困る」
奥でニナが、私の手元を覗き込んで小さく言った。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「お客様ですので」
「この人にも?」
「この人にもです」
彼は器を持って、中身を見ずに飲んだ。飲み方が、本当に水を飲む人の飲み方だった。
「三月と言ったのは、私の見立てが甘かった。四月かかる。五月かもしれん」
「お待ちになりますか」
「待ちますよ。私は待つのが商いですから。……ただね、お嬢さん。待つあいだ、あんたの店の葉は増えない。減るだけだ。減るものと増えないものを比べる商いは、負けようがない」
「そうかもしれません」
「否定しないんですな」
「数えれば分かることですので」
「その分、損をなさるのでは」
私は聞いた。ずっと引っかかっていたことだった。
「この街の葉を全部お買いになって、王都でお売りになっても、荷賃のほうが高くつきませんか。北の葉は、王都では安く扱われます」
ケーニヒ様の目が、少しだけ細くなった。
「あんた、数字も読むのか」
「値のつけ方は、母に習いました」
「……なるほどな。その通りですよ。この商いは赤だ。三年やっても黒にはならん」
「では、なぜ」
言ってしまってから、私は少し後悔した。それは商人に聞いていい問いではない。
けれどケーニヒ様は、いつもの調子で、いつもの速さで答えた。
「これは王妃陛下のご意向だ。私の帳簿の話ではない」
火の中で薪がひとつ崩れた。
その音のあいだに、彼は自分が何を言ったのかに気がついた。器を持つ手が止まった。それから、ゆっくりと器を置いた。
置き方が丁寧すぎた。手土産の包みをほどいたときと同じ手つきだった。この人の丁寧さは、値の高いものを扱うときと、取り返しのつかないことをしたときに出るのだと、私はこのとき覚えた。
「……今のは」
「はい」
「今のは、酒の席の与太だ」
「ここでお酒はお出ししておりません」
「……そうだったな」
彼は笑おうとして、失敗した。この人が笑いそこねるのを、私は初めて見た。
取り繕う言葉を三つほど並べてから、彼は諦めたように息を吐いた。
「歳を取ると口が軽くていかん。……前にも同じことを言いましたな、私は」
「伺いました」
ニナが奥の戸口で、ぽかんとした顔で立っていた。何を聞いたのか、この子には半分も分かっていないと思う。分かっていないまま、それでも空気で立ちすくむくらいのことは分かる子だった。
ケーニヒ様は外套を取り、それから、思い出したように言った。
「まあ、そう構えなさんな。北へ荷を出すのは、これが初めてでもない」
「……初めてでは、ないのですか」
「三年前の秋にも一度、王都から北へ大きな荷を出した。王家の献上の荷でね。運んだのはうちだ。あれは儲かりましたよ」
私は湯を落としていた。落としている手が、そのままの形で止まった。
「三年前の、秋」
「そう。あれきり北の商いは冷えた。閣下が倒れられて、王都から北への荷が止まったんだ。おかげでうちは三年、この道を使っていない」
彼はそれを、本当に何でもない世間話として言った。世間話として言えるということは、この人は何も知らないということだった。
「では、また」
戸が閉まり、低い音が遠ざかっていった。
夕方、レオハルト様がいらした。
私はいつものように湯を沸かし、匙で三度取り、蒸らしを数えた。数えたはずだった。
彼は器を持ち、一度待ってから飲まれた。
飲み込んで、器を置かれた。
「今日は、何も来ない」
「……申し訳ございません」
「謝ることか」
「湯が、熱すぎました」
「そうか」
彼は少しのあいだ黙っていらした。それから、意外なことを仰った。
「君は、二百数える前に湯を落としたな」
「なぜ、それを」
「音だ。いつもより早い。……匂いは分からんが、音は分かる」
私は返事ができなかった。
この人は、三年ぶん何も感じない代わりに、他人の手の速さを覚えてしまう人になっていた。私が今日、何を聞いて、何を考えながら湯を落としたのかまでは、さすがにお分かりにならないと思う。ただ、狂っていることだけは、私より先に気づいていらした。
「もう一杯、頼めるか」
「はい」
二杯目は、間違えなかった。
彼はそれを飲んで、少し長く息を吐いてから、「木の匂いがする」と仰った。それだけ仰って、帰られた。
夜、火を落としてから、私は母の帳面を出した。
三年前の秋。王都から北へ出た献上の荷。あの年、私は十六で、母が消えて四年目で、王家の茶をひとりで調合するようになって二年目だった。
北へ出す献上の茶の配合を書いたのは、私だ。
いや——書いたのではない。私は、母の帳面にある配合をそのまま写した。まだ自分の配合というものを持っていなかったから、母の頁をそのまま使った。
どの頁だったか、覚えている。覚えているどころではない。あの秋、私は熱を出して寝込んでいて、寝床から匙の数だけを口で伝えた。伝えた相手の顔まで思い出せる。
王都から届いた葉でニナが舌を痺れさせた朝、あの葉から立った匂いを、私は知っていると思った。何と結びつくのかは、そのとき分からなかった。分からないまま、それきりにしていた。
私は帳面をめくった。北の霧の頁。その次。その次の次。
指が、止まった。
止まったのは、まだ開いていない頁の上だった。開けば分かる。分かってしまえば、明日から私は、あの人に毎朝どんな顔で茶を出せばいいのか。
私はその頁を、今夜はめくらなかった。
お読みくださりありがとうございます。
ケーニヒさん、二度目の来店で口を滑らせました。
彼は嘘のつけない人ではありません。むしろ嘘は得意なはずです。ただこの人は、自分の帳簿が赤字であることを恥じていて、赤字の理由を「私の判断ではない」と説明したくなってしまった。損をしていると思われたくない商人の見栄が、いちばん言ってはいけないことを言わせました。
そしてもう一つ、彼はまったく害意なく、三年前の荷の話をして帰りました。彼にとっては儲かった年の思い出話です。
次回、ケーニヒさんは今度こそ、いちばん効く手を打ってきます。狙われるのはユーフェミアではありません。




