第17話:敵の手代にも、茶は出す
その若い人は、三日続けて茶房の前を通った。
朝は畑のほうへ。昼は広場へ。夕方にまた畑へ。同じ道を一日に四度も往復する人は、この街には他にいない。荷を持たず、帳面と矢立だけを抱えて歩いていた。
三日目の夕方、彼は茶房の窓の前で足を止め、湯気を見て、また歩き出した。
この三日で、街の様子は少しだけ変わっていた。広場の隅で葉を売っていた老人が二人、店を畳んだ。畳んだのではなく、来年の分まで売れてしまったのだと、ヘルタさんが宿の噂として運んできた。売れた人たちは怒っていない。むしろ、いい冬になると言って笑っているらしい。
私の倉には、まだ霧の葉がある。あと二月ぶんほど。二月というのは、ケーニヒ様が言った三月より、ひと月短い。
「あいつ、また来た」
ニナが窓に張りついて言った。
「毎日毎日、うろうろして。見張ってんだよ」
「見張るなら、もっと寒くない場所を選ぶと思います」
「じゃあ何なの」
「畑を回っておられるのでしょう。畑の主の名と、去年の採れ高を、一軒ずつ」
私は戸を開けた。冷えた風が入って、湯気が一度、横へ流れた。
「お寒いでしょう。中でお待ちになりますか」
若い人は、雪の中で本当に飛び上がった。
「い、いえ。私は、その」
「ケーニヒ様の手代の方ですね」
「……ヨストと申します」
そう名乗ってから、彼は自分の口を押さえた。名乗るべきではなかった、という顔だった。名乗ってしまってからそういう顔をする人を、私は嫌いになれない。
「ヨスト様。中は暖かいです」
「し、しかし、私は」
「立っていらっしゃると、明日、膝が痛みます」
彼は三度断って、四度目に入ってきた。
戸口で靴の雪を落とすのに、たっぷり百は数えられるほど時間をかけた。落とし終えてから、卓のいちばん端の、いちばん火から遠い席に座った。
ニナが、私の袖を引いた。
「ねえ。あいつに出すの」
「出します」
「敵じゃん」
「お客様です」
「毒とか入れないの」
「入れません」
「ちょっとだけ」
「ちょっとも入れません」
ニナは大きな音を立てて笊を置き、それから、いちばん欠けの少ない器を出してきた。悪態と手つきが合っていない子だった。
私はヨスト様の顔を見た。それから、いつもの茶葉に手を伸ばしかけて、やめた。
この人の匂いは、ケーニヒ様のものと違っていた。外套に葉の匂いは移っている。けれどその上に、もっと近いところで生まれた匂いが乗っていた。空の胃で歩き続けた人の、乾いた紙を炙ったような息の匂いだ。王都の医師のところで、書き物ばかりしている若い弟子から、よくこれがした。
三日、同じ道を四往復。指の腹が青黒くなるほど字を書いて、頬がこけている。ここに座ってからも、彼は上着の上から腹のあたりを二度押さえた。眠っていない人は瞬きが遅くなる。この人の瞬きは、火を見ているあいだ、ほとんど数えられるほどだった。
湯は八十度より低くする。七十。茶葉は半分。蒸らしは短く、渋みも苦みも出る前に止める。色はほとんどつかない。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「薄くしております」
「薄くても、高いやつは高いやつでしょ」
「そうですね」
「敵なのに」
「そうですね」
「どうぞ」
「……これは」
「薄いです」
「はい」
「胃が荒れておいでですね。三日か、四日ほど」
ヨスト様が顔を上げた。口が半分開いていた。
「なぜ」
「匂いです。それと、腹を押さえておいでですので」
「……そんなことまで分かるんですか、あなたは」
「分かるのは、そのくらいです」
彼は器を両手で持って、少しだけ飲んだ。飲んでから、長い息を吐いた。
「あの、これ、いくらでしょう」
「二枚です」
「そんなに安いはずが」
「二枚です」
彼は財布を出しかけて、手を止めた。止めた指が震えていた。寒さではなかった。
「……申し訳ありません。私の財布の銭は、旦那様のお金です。あなたの店で使えば、私は」
「では、薪を割ってください」
「え」
「裏に、割っていない薪が積んであります。私が割ると三日かかります。あなたなら一刻でしょう」
ヨスト様は、しばらく私を見ていた。それから、笑うでも泣くでもない、器用な顔をした。
「あなたは、私が誰の使いか分かっていて」
「分かっております」
「なのに」
「お客様に出す茶を、誰の使いかで変える技術は、習っておりませんので」
そのとき、戸が開いた。
レオハルト様だった。外套の雪を払いながら、卓の端の若い人を見て、それから何も言わずに、いつもの席に座られた。
ヨスト様が椅子ごと後ろへ下がった。
「へ、辺境伯閣下」
「座っていろ」
「し、失礼いたします、私は、ケーニヒ商会の」
「知っている」
レオハルト様は器を受け取り、いつものように一度待ってから飲まれた。
飲み込んで、少し眉を寄せられた。
「温いな」
「はい。今日は温くしております」
「そうか」
「お分かりに、なるのですね」
「温さは分かる。冷たいのも分かる。……それだけだ」
ヨスト様が、思わずというふうに口を開いた。
「あの、閣下は、その、本当に味が」
言ってしまってから、彼の顔が白くなった。ニナが息を吸う音がした。
レオハルト様は器を置いて、若い人のほうを見た。
「本当だ。三年、何も分からん」
「……も、申し訳ございません。私は、なんと、その、お気の毒に」
「憐れむな。座って飲め」
ヨスト様は座った。座って、器を持って、それから、うつむいたまま飲んだ。ずいぶん長いこと飲んでいた。器の中身はとっくになくなっていたと思う。
その間、レオハルト様は何も仰らなかった。若い人のほうを見てもいなかった。ただ、自分の器の底を傾けて、光の当たり方を確かめるようなことをしていらした。
この人は、自分が何も感じないことを、他人を黙らせる道具に使う。使い方が上手すぎて、私は時々、どちらが憐れんでいるのか分からなくなる。
ニナが黙って、二杯目の湯を運んできた。運んできて、卓に置くときだけ音を立てた。この子なりの折り合いのつけ方なのだと思う。
「……うまいです」
小さな声だった。
「うちの旦那様は、味が分からないんです。私も、旦那様に教わったので、分かりません。値と、採れ高と、運び賃しか教わっていません」
「そうですか」
「三日、この街を回りました。畑の方に、値は言い値でいいと言って、判を押してもらって歩きました。喜ばれるんですよ。みなさん、こんな値がついたことはないと」
彼は矢立を握ったり離したりしていた。
「でも来年は、その畑の葉はここへは来ません。全部、王都へ行きます。私はそれを分かっていて、判をもらいに行っています」
ニナが何か言いかけて、口を閉じた。この子は、判を押した畑の主たちの顔を全部知っている。名前も、その家の犬の名前も知っている。
私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から立ち始めて、それがまだ早いことを教えてくれる。この三月、私はこの泡だけを見て暮らしてきた。泡を見ているあいだは、王都のことも、倉に残った二月ぶんのことも、考えずに済んだ。
「悪いことだと思っています。思っていますが、私は三度目の奉公です。ここで放り出されたら、次はありません。旦那様は強いんです。……あの人は、負けたことがないんです」
「強い、というのは」
私は湯を落としながら聞いた。ただ、聞いただけだった。
ヨスト様は、うつむいたまま言った。
「うちの旦那、王都に強い後ろ盾がいるんです。それも、ずいぶん上の」
言ってから、彼は自分の口を両手で押さえた。三日で二度目だった。
「……あの、今の。聞かなかったことに、していただけますか」
お読みくださりありがとうございます。
今回はユーフェミアが誰も打ち負かしません。敵の手代に、温い茶を一杯出して、薪を割らせただけです。
この人は主人公と戦う気がありません。判をもらいに歩きながら、自分がやっていることの意味を分かっています。分かったうえで歩いている人を、悪人と呼ぶのは少し難しい。ただし、畑の判は今日も一枚増えました。
ちなみにニナは「毒とか入れないの」と三回聞きました。三回とも断られています。
次回、ケーニヒが二度目に戸を開けます。この日、彼は言わなくていいことを一つ言います。




