第16話:商人が雪を踏んで来る
締まった雪は、踏むと高く鳴る。緩んだ雪は音を吸う。
この十日ばかり、街道はずっと高く鳴っていた。だからその朝、遠くで低い音がしたとき、私は湯を見ながら少しだけ手を止めた。重い物が、雪を潰しながら来る音だった。
「早いですね」
レオハルト様は、いつもより半刻ほど早く戸を開けられた。外套の肩に雪がない。降っていないのだ。
「街道を見てきた」
「雪ですか」
「荷馬車だ。六台」
奥からニナが顔を出した。昨日干した茶葉の笊を抱えている。
「六台って、多いの」
「多い」
「どのくらい」
「この街に、去年一年で入った荷が八台だ」
ニナが笊を置いた。置き方が少し乱暴だった。
「……うわ、また高いやつ淹れてる」
「高くはありません。北の霧のものです」
「高いやつの顔してる」
私は匙で三度、茶葉を取った。湯は八十度。沸いてから二百数える。それから蒸らしを六十数える。この順番だけは、どんな朝でも変えない。
レオハルト様は器を持ち、飲む前に一度だけ待たれる。待ってから、飲まれる。
飲み込んでから、喉の奥のどこかを探す顔をなさった。
「……木だな」
「木、でございますか」
「乾いた木を割ったときの。土ではない。今日は」
「はい。今日は違うものをお出ししました」
「そうか」
彼はそれ以上仰らない。空になった器を傾けて、底の色を確かめるようなことをなさる。三年ぶんの空白を、この人は毎朝、一杯ずつ埋めている。埋まる速さは、たぶん私が思っているよりずっと遅い。
窓の外を、人が二人、三人と通り過ぎていった。みな同じ方向へ歩いている。広場のほうだ。この街の人は、用がなければ雪の朝に出歩かない。用ができたのだと分かった。
やがて、その低い音が茶房の前まで来て、止まった。
車輪が軋み、幌の縄がほどかれ、誰かが指図をする声がした。指図の声だけが、この土地の言葉ではなかった。
「いや、寒い。北はこれだから敵わん」
戸を開けたのは、背の低い、丸い体つきの男だった。外套の裾を払いながら、挨拶より先に笑った。笑ってから名乗った。
「ケーニヒと申します。王都で茶葉を少々」
「少々じゃないでしょ」
ニナだった。私が答えるより先に出た。
「少々ですよ。少々を十年続けると、こうなる」
男は自分の腹を叩いて笑い、それから店の中をゆっくりと見回した。棚。笊。壁に吊るした乾かし網。見回す目だけは笑っていなかった。
その外套から、茶葉の匂いがした。
ひとつではない。南の乾いたもの、東の煙で燻したもの、それに私の知らないものが三つか四つ。どれも薄く混ざり、どれも古い。倉で眠っていた葉に何百回も触れた人の匂いで、淹れたての湯気を浴びた人の匂いではなかった。
香りというものは、その人が何をしてきたかの記録として残る。私はこの三月、それで客の眠りや胃の具合を当ててきた。この人については、当てられることが一つしかなかった。
「ご自分では、お淹れにならないのですね」
男の眉が動いた。
「なぜ分かります」
「手に匂いが移っておりません。外套にだけ移っております」
「これは驚いた」
彼は本当に驚いた顔をして、また笑った。
「その通り。私は淹れん。飲むのも仕事のうちですが、味のほうは正直よく分からん。分かるのは数字だけだ」
そこで彼は、卓の隅の人影に気がついた。気がついてから、笑顔の作りが少し変わった。
「これは、ヴァイスバルト辺境伯閣下」
「座っていろ」
「光栄です。王都でもお噂は聞きますよ。国境をおひとりで抑えていらっしゃると」
「ひとりではない」
「ご謙遜を」
レオハルト様は、それきり黙っていらした。
ケーニヒ様は肩の包みを卓に置いた。結び目をほどく手つきだけが、急に丁寧になった。中から出てきた茶葉には見覚えがあった。王都で年に一度だけ動く、いちばん上等な葉だ。
「手土産です。今年のいちばん良いもの。……お嬢さん、これを淹れてもらえますかな」
「淹れます」
「ほう。断られるかと思った」
「お客様がお持ちになったものは、お出しします」
私は湯を沸かし直した。この葉に八十度は低い。八十五。蒸らしは短く、渋みが立ち上がる前に止める。
ニナが横で私の手元を睨んでいた。
「なんでちゃんと淹れるの」
「まずく淹れる技術は、習っておりませんので」
三つ淹れた。ケーニヒ様に一つ、ニナに一つ、それからレオハルト様に一つ。
召し上がらないほうが、と言いかけて、私はやめた。この人は憐れまれることを何より嫌う。
レオハルト様は器を取り、一度待ってから飲まれた。飲み込んで、器を置かれた。
「湯だな」
店の中の音が、一拍だけ抜けた。
「悪くはない」
ケーニヒ様は笑っていた。笑ったまま、目だけがレオハルト様の器を見ていた。それから私の手を見て、棚を見た。値踏みの順番が、さっきと逆になっていた。
王都でいちばん値の張る葉が、この人にとってはただの湯だった。それは私が最初の日に済ませた失敗で、この店では今さら誰も驚かない。驚かないということ自体が、たぶんいちばん高くつく報せだった。北の外れの小屋で、辺境伯が毎朝ひとりぶんの茶を飲んでいる。飲めているという事実だけが、値段のつけようのないものとしてそこにある。
ケーニヒ様は、それを勘定の速さで理解したようだった。
「お嬢さん。名前を伺っても」
「ユーフェミアと申します」
「アルテンフェルトの」
「今は、ただのユーフェミアです」
「なるほど。——買いたい」
彼は指を一本立てた。
「あんたの配合を買いたい。帳面ごと。いや、店ごとでもいい。王都の表通りに構えてやる。名義はあんたのままでいい。私は数字だけ取る」
「お断りします」
「即答ですな」
「はい」
「金額も聞かずに」
「金額を伺うと、迷う顔をしてしまいますので」
ケーニヒ様はしばらく黙っていた。それから、心底残念そうに息を吐いた。演技には見えなかった。この人は本当に残念がっている——そのことのほうが、私には落ち着かなかった。
「気に入ってるんですよ、私は。北の霧だけで茶を組むなんてのは、王都の誰にも思いつかん。三十年見てきて、初めて見た」
「恐れ入ります」
「だからね、言っておく。私の一存なら、ここで引き下がる」
「一存では、ないのですか」
彼は口を開きかけて、閉じた。閉じてから、はっはっと声を出して手を振った。
「歳を取ると口が軽くていかん。今のは忘れてくださって結構」
「ひとつだけ伺っても」
「どうぞ」
「今日の荷は、六台と伺いました。何を積んでいらしたのですか」
「空ですよ」
彼はこともなげに言った。
「帰りに積むんです。この土地の葉を、来年の大市が立つ前に、畑ごと押さえる。値は言い値で結構。今年も来年も、その先も」
そういうことか、と私は思った。買い占めというのは倉を空にすることだと思っていたが、この人がやっているのは、葉が倉に入る前を押さえることだった。
彼は外套の襟を立て、戸口で振り返った。
「三月のうちに、この街に茶葉は一枚も入らなくなります。来年の大市も立たん。あんたの霧の配合も、葉が尽きれば終わりだ」
ニナが何か言おうとして、私は袖を引いて止めた。
「言っておきますがね、お嬢さん」
そこで彼は、この日いちばん穏やかな顔をした。
「商いだ。恨みはない。恨みはないが、潰れてもらう」
お読みくださりありがとうございます。
今回から、しばらくこの人が居座ります。
書いていて思ったのですが、この手の相手でいちばん厄介なのは、怒鳴る人でも嘲る人でもなく、こちらの仕事をきちんと評価したうえで潰しにくる人ですね。ケーニヒさんはユーフェミアの配合を本気で褒めています。褒めたうえで、三月で干上がらせる算段を立てて帰りました。
なお彼も味が分かりません。分からないまま平気で三十年やってきた人と、分からなくなって三年黙っている人が、同じ卓についた回でした。
次回、その男の手代が茶房の前に立ちます。ユーフェミアは、当たり前のように茶を出します。




