第14話:誰も飲めない茶会
谷の葉を干し始めて、三日目だった。
煙を当てずに乾かすというのは、思ったより場所を取る。店の卓も、床の板も、空いている面は全部使った。ニナは葉の上をまたいで歩くのがうまくなっていた。
乾き具合は目では分からない。指で触れて、冷たければまだ水が残っている。教えたのは一度きりなのに、この子は半日で確かめる癖をつけていた。
「まだ冷たい」
「では、まだです」
戸が勢いよく開いたのは、そのときだった。
「ちょいと、聞いたかい!」
ヘルタさんだった。宿の女将は挨拶より先に用件を言う人で、しかも用件はたいてい他人の話だった。
「まだ何も伺っておりませんが」
「王都だよ、王都」
彼女は葉を踏みかけて、私に止められ、そのまま戸口で足踏みをした。宿に昨日から泊まっている行商が、十日かけて王都から上がってきたのだという。話は王宮の茶会のことだった。えらい人ばかりが三十人からいたらしい。
「それがさ。誰も飲まなかったって」
私は手を止めた。
「誰も、と仰いますと」
「文字どおりだよ。器が三十、そのまんま冷めて下げられたって。誰ひとり口をつけなかった」
ニナが葉の向こうから顔を出した。
「うわ、それ気まずい」
「気まずいなんてもんじゃないよ。しかも、その茶を出したお嬢様が、みんなの前で言ったんだと。『これが正しい配合です』って」
正しい配合。
私は火のほうへ向き直った。手が勝手に動いていた。
「ヘルタさん。その方は、どんな匂いだったと仰っていましたか」
「匂い? そんなの、お客が覚えてるわけ……いや」
彼女は宙を見た。
「言ってたね。薬湯みたいだった、って。あと、焦げくさいとも」
「焦げ」
「そう。飲む前に鼻がだめだった、って笑ってたよ」
私は棚から木箱を下ろした。三つのうち、いちばん良い箱だった。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「淹れます」
「……なんで? 今それ、一箱と少ししかないやつだよね」
「確かめたいことがあります」
私は匙で三度すくって、それから、もう六度すくった。三倍の量になる。湯は沸きたてを、下げずにそのまま落とした。
葉が湯の中で暴れて、色がすぐに濃くなった。六十で止めるところを、二百まで数えた。
店の中に、覚えのある匂いが立った。厚い。厚くて、行き場がない。良い葉を強く出すと、甘みが真っ先に飛んで、あとに残るのは焼いた金物のような匂いになる。鼻の奥を押してくる匂いで、押されると人は無意識に顔を引く。
私はこれを、王城で何度も嗅いだ。新しく入った者が最初にやる失敗だからだ。たいていは一度で覚える。覚えられなかった人を、私は五年で一人しか知らない。
「うっ」
ニナが鼻を押さえた。
「なにこれ。焦げてる。……焦げてないのに、焦げてる」
「焦げてはおりません。強く出しすぎただけです」
私は器に注いで、卓に置いた。誰も手を伸ばさなかった。ヘルタさんは戸口から、器と私を交互に見ていた。
「あんた、それをわざと作ったのかい」
「王都で何が起きたのかを、確かめました」
私は器の縁に指を置いた。まだ熱かった。
「この淹れ方をした人は、量を間違えたのではありません。良い葉を使えば良い茶になると思って、良い葉を、たくさん使ったのです」
「そりゃ、そうならないのかい」
「なりません。多く入れて長く待てば、出てはいけないものまで出ます」
ヘルタさんが腕を組んだ。
「じゃあ、そのお嬢様は下手くそなんだね」
「いいえ」
「いいえ?」
「下手な人は、途中で気づきます」
私は言った。自分の声が、いつもより平らだった。
「途中で一度、匂いを嗅ぐからです。嗅げば分かります。これは駄目だ、と。……三十人の前まで持っていける人は、下手なのではありません」
ヘルタさんが、ゆっくりと口を開けた。
「あんた、まさか」
その行商が王宮へ出入りする者かどうかを尋ねると、ヘルタさんは首を振り、代わりに、宿にもうひとり王都から流れてきた女中がいるのだと言った。前は王宮の厨にいた娘らしい。
彼女は、思い出しながら喋る人の目になった。
「そういえば、変なこと言ってたね。あのお嬢様は昔から、匂いってものが分からないんだって。花を活けても分からない。厨から煙が上がっても、いちばん近くにいて気がつかなかったって。お医者は生まれつきだって言ったとか」
葉を干した部屋の中で、私の手だけが止まっていた。
——大広間。扇の陰。可哀想に、という顔。
『茶なんて、誰が淹れても同じでしょう』
あのとき私は、見下されているのだと思った。五年を趣味と呼ばれ、香りを数えて過ごした日々を無かったことにされたのだと思った。
そうではなかった。
あの方には、本当に、同じだったのだ。
私は五年間、毎朝、殿下の目の下の色を見てから量を決めていた。眠れていない日は減らし、行事の続いた週は薄くした。誰にも言わなかったし、誰も聞かなかった。
その五年を「同じ」と呼んだ人は、扇の陰から、何も届かない場所に座っていた。花の香も、焦げた匂いも届かない場所に。あの言葉は嘲りではなく、あの方から見えていた景色の、正しい報告だったことになる。
手の中で、器がぬるくなっていた。
「ヘルタさん」
「なんだい」
「では、あの方はずっと、分からないまま言っていたのですね」
自分の声が遠かった。
ヘルタさんは何か言いかけて、やめた。ニナだけが、器の中を覗き込んだまま、私を見上げた。
「……笑わないんだ」
「笑いません」
「なんで。ざまあみろじゃん」
「ニナ」
「だってさ。その人でしょ。ユーフェミアさんの仕事を、趣味って言ったの」
私は器を下げて、中身を捨てた。厚い匂いが湯気と一緒に消えていった。
「あの方に香りが分からなかったことは、あの方のせいではありません」
「じゃあ許すの」
「いいえ」
私は空になった器を洗った。
「分からないことは、罪ではありません。分からないまま、確かめもせずに、他人の五年を『同じだ』と言い切ったことが、あの方のなさったことです」
ニナは口の中で何か言って、それから干し葉の列に戻っていった。しばらくして「ふうん」とだけ聞こえた。
私は空の器を三つ並べて、布で拭いた。拭き終えても手が空かなかったので、四つ目まで拭いた。四つ目は最初から乾いていた。
床いっぱいに広げた谷の葉が、火の色を受けて薄く光っていた。三日前まで、売り物にならないと言われていた葉だった。
戸口の雪が鳴った。
レオハルト様が、外套の肩を払いながら立っていた。いつから聞いていたのか、顔からは分からなかった。
「閣下」
「見回りの帰りだ」
彼は卓の脇まで来て、干した葉を一枚つまみ、指の腹で潰した。
「俺には、何も分からん」
「はい」
「三年、何も分からん。だから、その女の言うことが分からんではない」
彼は葉を戻した。
「だがな。俺は分からんものを『同じだ』とは言わん。分からんときは、分からんと言う」
「……閣下は、部下の方の前では仰らないと伺いました」
「言わん」
彼は少しだけ、口の端を動かした。
「言わんが、飲まん。分からんものに、分かった顔で判を押すのがいちばん質が悪い」
私は湯を新しく汲んだ。今度は正しい量で、正しい温度で。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「私は、留飲が下がると思っていました。あの方が困っていると聞けば、少しは」
「下がらんか」
「下がりません。ただ、器が三十並んだところを想像しております。誰も手を伸ばさない卓を」
彼は椅子に座って、私が湯を落とすのを見ていた。
「その女は、君に詫びたか」
「いいえ」
「なら、それでいい」
「なぜでしょう」
「詫びられたら、君は許してしまう」
私は匙を置いた。置いた音が、思ったより大きかった。
薄い茶を出すと、彼はいつもどおり飲んで、いつもどおり喉を動かした。今日は何も言わなかった。言わないまま器を置いて、それから、ひとことだけ。
「今日のは、遠い」
「はい。谷の葉を混ぜております。まだ、香りが立ちません」
「そうか」
戸口で、ヘルタさんが思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。あんた、聞いてるかい。今年の市のこと」
「市」
「茶葉の市だよ。うちも、この街の宿も屋台も、一年分はあそこで仕入れるんだ。荷がどこにも入ってこないって、みんな言ってる」
彼女は戸に手をかけたまま言った。
「立たなかったら、うちは冬を越せないよ」
戸が閉まった。
この街の春の大市は、年に一度しか立たない。雪が緩む前のこの時期に、街道が通れるうちの荷を全部下ろして、宿も屋台も国境の隊も、そこで一年分を積む。大市が立たない年というのを、この街の誰も見たことがない。
ニナが顔を上げて、私を見た。私は北の窓の外を見ていた。窓の向こうに谷は見えない。見えないところで、いま霧が下りている。
市までは、あと五日だった。
お読みくださりありがとうございます。
第14話は、敵の正体が一段ややこしくなる回です。
「茶なんて誰が淹れても同じでしょう」——この台詞をここまで四回出してきました。四回目でようやく、言えた理由のほうが出てきます。悪意ではなかった。本当に分からなかった。
ただ、この作品は許しの物語にはしません。分からないことは罪ではありませんが、確かめずに他人の五年を切ったことは別の話です。ユーフェミアはそこだけを、きっちり分けて置きます。
次回、市が立ちます。北の谷の葉が、五日で間に合うかどうかという話です。




