第13話:茶葉が、届かない
荷馬車は、その日も来なかった。
倉の下の段は、先月まで木箱で埋まっていた。王都を出る荷は月に二度、街道を十日かけて北へ上がってくる。私が店を開けてから、その二度が遅れたことは一度もなかった。
いまは板の色がそのまま見えている。空いた棚というのは、思っていたより明るい。
私は朝のうちに二度、通りの角まで見に行った。二度目に戻ってきたとき、ニナが火の前に座ったままこちらを見ていた。
「二回行ったね」
「一回目は、雪で見えませんでしたので」
「嘘だ」
「……ええ」
私は上の棚から木箱を下ろした。三つのうち、二つ目の箱だった。蓋を開けると、干した果実に似た甘みが立つ。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「閣下の分です」
「それ、あと二箱しかないやつじゃん」
「一箱と少しです」
ニナが立ち上がった。
「一箱?」
「昨日、ヨナス様のところの隊が十人で寄られました。十人分は、思ったより減ります」
ニナは口を尖らせて、それから何も言わずに火を強めた。この子は困ると火の世話をする。
戸が開いて、グレーテさんが入ってきた。家令の人が朝から茶房に来ることはない。
「ユーフェミア様。荷のことでございます」
「はい」
「領へ入る荷が、今月は三割方落ちております。麦も塩も並みどおりですが、茶葉だけが」
「茶葉だけ」
「街道の宿場で、王都の商会が先に買い付けているそうです。北へ向かう荷を、荷ごと」
私は箱の蓋を閉じた。
「荷ごと、と仰いますと」
「値を聞かずに、まとめて。宿場の帳面には『王都茶葉商会』とだけ」
先月、丁寧な字の書簡が届いたばかりだった。茶葉の買い付けを一手に引き受けたい、と書いてあった。私は丁重にお断りする返事を出した。返事の速さは、向こうのほうが上だったらしい。
「閣下はご存じですか」
「昨夜お伝えしました。……閣下は、ひとことだけ」
「なんと」
「『それは、あの店の話か』と」
私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から立ち始めている。まだ早い。
グレーテさんが帰ったあと、私は帳面を開いて数を並べた。手持ちの葉。一日に出る杯の数。国境の隊が寄る日の増え方。並べ終えるまで、そう長くはかからなかった。
削って、二十日。削らずに、十二日。どちらの数字も、次の荷が来るという前提でしか意味を持たない。前提のほうが消えているのに、私は二度も数え直していた。
レオハルト様はいつもどおりの刻に来て、いつもどおりの椅子に座った。
私は残りの葉を量り、湯を落とし、六十数えた。数えているあいだ、彼は何も言わなかった。
「どうぞ」
彼は飲んだ。喉が動いて、それから器が下りた。
「いつもと同じか」
「同じです」
「そうか」
彼は器の縁を指でなぞった。
「……嘘だな」
「なぜ、そうお思いに」
「匙のあとだ。君はいつも、匙を置いてから湯を持つ。今日は匙を持ったまま、湯の前で止まっていた」
私は答えを探した。探しているあいだも、彼は急かさなかった。
「量を、削りました」
「減るからか」
「はい」
「俺には分からん」
彼は言った。感情のない声だった。
「香りも、味も分からん。だから薄めても濃くしても、俺には同じだ。……だが、君が困っているのは分かる」
「困ってはおりません」
「困っている顔をしていないだけだ。それは知っている」
彼は立ち上がった。
「領で買い上げる手はある。街道の宿場に人を出して、先に押さえればいい」
「おやめください」
私が思ったより強く言ったので、ニナが振り返った。
「なぜだ」
「値の競り合いになります。あちらは王都の商会です。手持ちが違います。競れば値が上がり、上がった値で買うのは、最後には街の者です」
「では、どうする」
私は少しのあいだ、黙っていた。
「閣下。北の谷には、霧が出ますね」
「出る。夏の朝は、下が見えん」
「あの谷に、茶の木はありますか」
彼は眉を寄せた。この人が分からないという顔をするのは、珍しかった。
「……あるだろうな。婆さんたちが飲んでいる。売り物にはならんと聞くが」
「売り物にならない理由を、伺ったことは」
「渋いそうだ」
私は木箱の蓋に手を置いた。
「行ってまいります」
北の谷までは、橇で半日だった。
登るにつれて空気が重くなる。息を吸うと、湿った石の匂いがした。雪の上に霧がかかると、匂いは遠くへ行かずに足元へ溜まる。
「なんか、変な匂い」
ニナが鼻を鳴らした。
「変ではありません。濃いのです」
斜面には、腰の高さの低い木が段になって並んでいた。誰も刈り込んでいないので枝の形が思い思いに崩れている。手入れをされていない木というのは、遠目には藪と区別がつかない。
葉に触れると、指が濡れた。霧が朝から降りたまま、昼になっても抜けていない。この谷では葉が一日の半分を水の中で過ごしている。
集落は十軒ほどで、傾いた斜面に貼りついていた。訪ねた家のおかみさんは、私たちを見て、まず笑った。
「王都のお嬢さんが、うちの茶を?」
「はい。飲ませていただけますか」
「よしとくれ。渋くてかなわないよ」
「渋いのですか」
「渋いさ。……いや」
彼女は手を止めた。
「渋いって言われるんだよ、下の街じゃ。うちらは渋いと思ったことないんだけどね」
出された茶は、色が薄かった。
私は器を鼻先に近づけた。前の道からは、ほとんど何も来ない。頼りない。街の人が「味がない」と言うのはこれだろう。
飲んだ。
飲み込んで、それから息を吐いた。
喉の奥から鼻へ抜けていく道に、遅れて何かが上がってきた。乾いた石を割ったときの匂いに似ていた。冷たくて、けれど尖っていない。
渋みが、なかった。
「ニナ」
「うん」
「舐めてみてください。葉のまま」
ニナは干した葉をひとつまみ取って、口に入れた。噛んで、しばらく黙っていた。
「……渋くない」
「ええ」
「なんで? これ、下の葉でしょ。硬いよ。硬い葉って渋いじゃん」
「霧です」
「霧?」
「日が当たりすぎると、葉は渋みを作ります。この谷は朝から霧が下りて、日を遮ってしまう。だから硬く育っても、渋みだけが薄い」
おかみさんが、口を開けたままこちらを見ていた。
「そんなこと、誰も言わなかったよ」
「言われなければ、分かりません」
私は荷から母の帳面を出して、あのページを開いた。太くて、急いでいる字だった。
『北の霧は、渋みを落とす』
母がこの一行をどこで書きつけたのか、私はまだ知らない。知らないまま、私はまた、その通りに手を動かそうとしている。
「おかみさん。この葉を、どれくらい摘めますか」
「摘む? そりゃ、いくらでも。うちらは自分らの分しか作らないから、木は放ってあるよ」
「谷の他の家も」
「みんな同じさ。売れないもの、誰が世話するね」
帰りの橇は、行きより速かった。下りだからではなく、御者が日暮れを気にしていたからだと思う。
谷を出るところで、私は一度だけ振り返った。霧は谷の口までしか下りてこない。境目がはっきりしていて、線を引いたように見えた。この線の内側だけが、ずっと売り物にならないと言われてきた。
ニナは膝を抱えたまま黙っていた。霧を抜けたところで、ようやく口を開いた。
「あれ、売り物になるの」
「そのままでは、なりません」
「じゃあ、だめじゃん」
「そのままでは、と申しました」
私は膝の上の袋を押さえた。中には谷の葉が、両手ぶんだけ入っている。
「香りが立たないのは、干し方のせいです。あの方たちは煙で乾かしています。煙は、あの葉のいちばん良いところを潰します」
「直せるの」
「直します」
ニナは前を向いたまま、足を橇の縁にぶつけていた。
「ねえ。王都から荷が来なかったら、店、どうなるの」
私は北の空を見た。霧が、まだ谷の上に残っていた。
「ニナ」
「なに」
「王都の茶葉がなくても、茶は作れます」
お読みくださりありがとうございます。
第13話は、供給を断たれる回です。買い占めというのは殴られるより静かに効きます。相手の顔も見えません。
この作品で気に入っているのは、主人公が「敵と競り合わない」ところです。閣下が力で押さえると言ったのを断って、彼女は北の谷へ登ります。渋くて売り物にならないと言われてきた葉が、なぜ渋くないのか——理由を知っている人間が一人いれば、土地の値打ちはひっくり返ります。
次回、王都から噂がひとつ届きます。誰も口をつけない茶会の話です。




