第12話:弔いの帰りに寄る人
その朝、街の匂いが変わっていた。
雪の下から、冷えた土の匂いが上がってくる日がある。そういう日はどこかで穴を掘っている。この土地では冬に人が亡くなると、凍っていない層まで掘り下げるのだと聞いた。
「今日は、どなたかの弔いですね」
ニナが匙を止めた。
「なんで分かるの」
「土です」
「土って、外の?」
「ええ。掘り返した土は、匂いが違います。雪の下で眠っていた土ですから、冷たいほうの匂いがします」
ニナは戸口まで行って、鼻から大きく息を吸った。それから盛大に顔をしかめた。
「分かんない。雪の匂いしかしない」
「では、雪の匂いを覚えてください。それが分かれば、混ざったときに気づけます」
「……ちょっと悔しい」
「二年もすれば分かります」
「二年」
「私は五年かかりました」
ニナは黙って匙を動かし始めた。悔しいと言ったあとにこの子が手を早く動かすことに、私は最近になって気がついた。
戸が開いたのは、その少しあとだった。
レオハルト様が肩の雪を落として入ってくる。挨拶はない。この人は挨拶をしない代わりに、必ず同じ椅子に座る。
「湯を」
「今日は、薄くお出しします」
私が先に言うと、彼は片眉を上げた。
「なぜだ」
「外に、掘り返した土の匂いが立っております。強い香りを重ねますと、外と喧嘩をしますので」
「……俺には、外の匂いは分からん」
「はい」
「だが、通りに人が少ない。それは分かる」
彼は椅子の背にもたれた。
「クヌートの女房が死んだ」
「クヌート様」
「南の通りで鋏を研いでいる爺だ。四十年、この街の鋏を全部研いできた。うちの厨の包丁もあれが研いでいる」
「奥様は」
彼はそこで一度、黙った。
「マルタだ。名は、マルタといった」
私は湯を注ぐ手を止めなかった。この人は部下の名も、街の年寄りの女房の名も覚えている。覚えていることを、誰にも言わない。
「閣下は、弔いへは」
「昨日行った。何も匂わん場所に、二刻立っていた」
「二刻」
「線香を焚いていたらしい。あとで従卒に言われて知った。……匂いも味も分からん男が座っていても、香ひとつぶんの役にも立たんがな」
「立ちます」
彼は器を持ったまま、こちらを見た。
「なぜそう言える」
「弔いの席というのは、誰が来たかを数える席です。何を感じたかを数える席ではありません」
彼はしばらく黙ってから、薄い茶をひと息に飲んだ。
「……なるほどな」
そして、いつもより早く出ていった。戸が閉まる寸前に、雪の音がひとつ増えた。
昼を過ぎたころ、私は上の棚から木箱をひとつ下ろした。
王都から来た葉の中でも、いちばん良い箱だった。開けると、干した果実に似た甘みが立ち上がってくる。ニナが振り返った。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「まだ淹れておりません」
「開けたじゃん。あれ、あたしが一回舐めていいって言われなかったやつ」
「舐めていいと言った覚えはありませんが、覚えてはいます」
ニナが箱を覗き込んで、鼻先で一度、器を回すような仕草をした。この子は茶葉の前に立つと必ずこれをやる。
「これ、誰に出すの」
「たぶん、どなたかが来ます」
「たぶんで開けるんだ」
「ええ」
「……その人、絶対わかんないよ。泣いてる人って、味しないもん」
私は手を止めた。
ニナは悪気なく言っている。この子は自分の舌が良すぎるせいで、他人の舌がどこまで働かなくなるかも、正確に知っている。
「分からなくて構いません」
「じゃあ、なんで高いのにするの」
「分からない人にこそ、良いものを出します」
ニナは口を開けて、閉じた。それから小声で「意味わかんない」と言って、火の番に戻った。
クヌート様が来たのは、日が傾いてからだった。
黒い上着を着た小さな老人で、指の関節がどれも太くなっていた。長く同じ道具を握ってきた人の手だった。彼は戸を開けて、中を見て、そのまま入ってきた。
「まだ、やってるかね」
「はい。どうぞ」
彼は一番奥の椅子に座った。何を頼むとも言わなかった。
私は湯を沸かして、火から下ろし、いつもより長く置いた。二百数えるところを、三百まで数えた。
「あの、お客さん」
ニナが小声で言った。
「注文、聞かなくていいの」
「今日は、いりません」
「聞かないと分かんないじゃん」
「顔で足ります」
私は温くなった湯を茶葉に落とした。
熱い湯を出すと、人は急いで飲む。急いで飲んでしまえば、すぐに帰らなければならなくなる。今日この人に必要なのは茶ではなくて、座っていてもおかしくない理由のほうだった。
「どうぞ」
クヌート様は器を持ち上げて、少し驚いた顔をした。
「温いな」
「はい」
「……そうか」
彼はゆっくり飲んだ。ひと口飲んでは器を置き、また持ち上げた。私は何も聞かなかった。奥様のことも、弔いのことも、体のことも。
長い時間が過ぎた。薪が崩れて、ニナが火の始末をしに立った。
「四十年、鋏を研いだ」
彼が急に言った。
「はい」
「研いだ鋏で、女房が俺の髪を切った。ひと月に一度な。下手くそでな、いつも右が短い」
「はい」
「昨日、伸びてきたのに気がついた」
「はい」
彼は上着の内側から小さな鋏を出して、卓に置いた。刃の合わせ目が黒く曇っている。
「これだけ、研げん」
「奥様の鋏ですか」
「四十年やって、この一挺だけ手が動かん。おかしなもんだな」
「おかしくはありません」
それだけだった。彼はまた黙って、二杯目を飲んだ。二杯目は、もう少し温くした。
「あんた、聞かんのだな」
「はい」
「みんな聞く。何があった、いつからだ、飯は食えてるか」
「私は茶を出すだけですので」
「……そうか」
外が暗くなりかけたころ、クヌート様は立ち上がった。上着の埃を払って、卓に銅貨を三枚置いた。
「馳走になった」
「ありがとうございました」
戸に手をかけたところで、彼は振り返らずに言った。
「あんたの母親も、こういう淹れ方をしたな」
戸が開いて、雪の匂いが入ってきた。
「……クヌート様」
「寒いから閉めるぞ」
戸が閉まった。
雪を踏む音が、南の通りのほうへ遠ざかっていく。
私は動かなかった。
追いかけようと思えば追いかけられた。三歩で戸に届く。あの人はまだ、そこにいる。分かっていて、私は卓の前に立ったままでいた。
「追いかけないの」
ニナが火かき棒を持ったまま言った。
「はい」
「なんで」
「……分かりません」
答えが出てしまうのが怖い、という言葉を、私は自分の中でも使わなかった。
母の淹れ方を、私は知らない。母が湯を落とすところを見たのは数えるほどで、七年前に消えたとき、私は十二で、温度の測り方も覚えていなかった。
だから「こういう淹れ方」が何を指すのか、確かめる手立てが私にはなかった。
その夜、私は店の裏の倉を開けた。
王都からの荷は、五日前に着いているはずだった。棚の下の段は空で、上の段に木箱が三つ載っている。私は指を三本立てて、それから下ろした。
「三箱で、何日もつの」
ニナが後ろから覗き込んでいた。
「毎朝の閣下の分だけでしたら、四十日ほど」
「お客は」
「お客が入りましたら、十日です」
「十日」
「ええ」
三箱。それが、この店にある王都の茶葉の全部だった。
お読みくださりありがとうございます。
第12話は「何も聞かない」回です。悲しんでいる人に薬を出すのは簡単ですが、この主人公は湯の温度を下げることしかしません。温いお茶は長く座っていられます。それだけの話なのですが、それだけの話が要る日というのがあります。
そしてクヌート爺さんは、帰り際にとんでもないものを置いていきました。本人は明日にはたぶん忘れています。
次回、王都からの荷が届きません。倉が空きます。




