幼な妻、尻軽女に一発かます①
――なんの匂いかしら?
出産後、匂いに敏感になっていたドルチェは、部屋に漂う嗅ぎ慣れない臭いに不快感を露にした。
女主がハンカチで鼻を押さえて眉間に深い皴を寄せると、周りに居たメイド達にも緊張が走る。
「奥様、どうか致しましたか?」
「ごめんなさい。少し、匂いがきつくて」
「匂い?……あぁ、確かに、微かに百合の花のような香りが」
その場にいたメイド達全員がクンクンと鼻を効かせると、確かに白百合の匂いがする。
ただ、部屋には匂いがキツイ花は飾らないと決められているヴィットーリア侯爵家では、あり得ないことだ。
「窓を開けて、換気をしてちょうだい」
「はい、畏まりました」
メイド達は一斉に動き始め、ドルチェの部屋だけでなく他の部屋も確認し、全ての場所で換気が行われた。
それなのに、また、夜になると同じ香りがドルチェの部屋で香った。
その香りを運べる人物は、今彼女の目の前で立っている夫フォルテしかいない。
「旦那様、少し宜しいかしら?」
珍しくドルチェの方から近づいてきて、ポフッと顔を自分の腹の辺りに埋めてくる。
普段淡泊とも言える彼女にしては珍しい行為に、フォルテはだらしがなく顔を緩めた。
しかし、顔を上げたドルチェの顔は、泣きそうな表情をしていた。
その事に驚いたフォルテは、あたふたと動揺し始める。
「ど、ど、どうした、ドルチェ!」
「なんか、変な匂いがします」
「匂い?」
「えぇ、悪臭と言ってよい匂いです」
「悪臭!」
自分では自覚のなかったフォルテは、慌てて袖口等を嗅いでみた。
しかし、特にこれと言って不快な臭いはしない。
「もう、今日は、旦那様とは一緒に眠れません」
「そ、そんな」
「それが嫌なら、別の部屋で服を全部脱いで、お風呂に入ってから戻ってきてください」
「分かった!頼むから、先に寝ないでくれよ」
フォルテは慌てて部屋から飛び出すと、客間の浴室を使って全身くまなく洗い、洗いたての寝間着に着替えてから夫婦の寝室へと戻った。
「ドルチェ、これでどうだ?」
「ん、大満足です」
二人でベッドに横たわり、ドルチェは甘えるように彼の胸に自分の頬を擦り付ける。
その愛らしさにフォルテは自制心と戦わなければならない。
――まだ、出産から半年。ドルチェの体を思えば、無理はさせられない。
出産時に生死を彷徨った妻に男の欲望をぶつければ、再び体調を崩してしまう可能性もある。
医師からも口酸っぱく何度も注意をされている為、フォルテは毎日苦行のような就寝時間を過ごしていた。
その事は、ドルチェとて十分、分かっている。
貴族の男性が外に愛人を作りやすい時期が、妻の妊娠出産子育てと被ると言われていた。
――もし、そうなったら許さなければならないのかしら?
跡継ぎを産んだことで、ドルチェの地位が揺るがされることは無い。
王太子の婚約者を務めていた時も、側妃を許容する事が王妃の度量の深さだと教えられてきた。
ただ、今は侯爵家であり、国の存続を左右する跡取り問題とは無縁の世界だ。
そんな中、別の女が現れて、ハイそうですかと受け入れられるはずがない。
「旦那様」
「ドルチェ、二人の時は、フォルテと呼んでくれる約束だよ」
「……フォルテ」
「なんだい?」
「もし、他に女性を囲うなら、先に言ってね」
妻の思いつめた表情に、フォルテは悲しい気持ちになる。
彼女が、どんなに辛い気持ちで、この言葉を言ってくれているのだろうと考えるだけで、胸が苦しくなったのだ。
「何度も言っているが、私には、ドルチェだけだし、ドルチェだけがいい。そんな事は一生考えなくて良いことだよ」
フォルテは、太くて長い腕で愛しい妻を抱きしめた。
「逆に、君が誰かに取られることがあったら、私は死んでしまうかもしれない」
戦場の英雄と呼ばれた彼の弱点が、その妻であることは社交界では有名な話だ。
以前、ある貴族が元王太子の元婚約者だったドルチェを揶揄する言葉を吐いた時も、フォルテは怒りを隠さなかった。
『我が妻を愚弄するなら、表に出てもらおうか』
剣を持たずとも、その拳で相手の息を止める事くらいわけがない。
そんなフォルテの気迫を感じた貴族は、そそくさと尻尾を巻いて逃げたと言う。
自分以上に落ち込んだ表情になってしまったフォルテを見て、ドルチェは、やっと気持ちが落ち着いてきた。
「ごめんなさい。私、少しナーバスになっていたみたい」
双子の子育ては、常に緊張感を伴う。
ただでさえ早産だった為、まだまだ体も小さく乳の飲みも増えてこない。
夜間は乳母達が交代で見てくれるが、日中は出来る限り傍にいると決めているのだ。
そんな忙しさと不安の中で起きた『悪臭問題』は、ヴィットーリア侯爵家では一番対策を急がれる課題となった。
最近フォルテは、軍の医療体制を整える目的として、医局でメディコと今後の対策を連日話し合っている。
今日も、会議室で従軍する兵士が体調を崩さぬようにする為の食事の栄養管理について議論が行われていた。
そして、休憩の時、フォルテはずっと気になっていることを聞いてみることにした。
「実は……と言うことがあってな。メディコ、何か思い当たることは無いだろうか?」
妻の匂いに関する心配事を減らしたいとアドバイスを求めたのだが、メディコは、気まずげな顔をしている。
「多分、それは、ジリオ伯爵夫人のせいだろう」
年齢は二十代後半。
長年医局に勤める女性で、知らない者が居ない有名人だ。
六年前に跡継ぎも出産しており、本人曰く妻の役目は果たしたそうだ。
元々自由を好む性格らしく、出産後直ぐに仕事復帰して子供の教育は全て人任せ。
妙に色気を振りまく人物で、彼女の色香に迷った人間も一人や二人ではない。
「何故、そこにジリオ伯爵夫人の名前が出てくる?」
「白百合の花を研究室に持ち込もうとして、この前没収されていた。そこで、花には罪がないと彼女が力説するものだから、ほら、あそこに」
よく見れば、壁際に大輪の白百合が花瓶に入れられて飾られていた。
「気づかなかった……」
「人間の鼻は、匂いに慣れてしまうからな。毎日嗅いでいたら、分からなくなるのも仕方ない」
「そうか。あれを捨てるわけにはいかないか?」
「ん~、一応ジリオ伯爵夫人に話を通してからの方が良いだろう」
メディコは、元は子爵家出身のたたき上げだ。
自分より身分の高い女性に、なかなか強くは言えないのだろう。
そして医局の長はメディコな為、フォルテが出しゃばるわけにもいかず、この日は原因を見つけただけにとどまった。
――どうせ生花だ。数日もすれば枯れて捨てられるだろう。
そう思っていたフォルテだったか、よく見ると次々と新しい白百合が会議室に増えていく。
流石に、これはダメだろうと再度メディコに状況を聞くことにした。
「それなんだが、彼女の屋敷の庭に咲くユリが丁度最盛期らしくてな。新しいのが良いだろうと、毎日持ってくるんだ。流石に私も苦情が出ていると言ったんだが、誰が言ったんだ?の一点張りで」
自分のやる事に不満があるなら、直接言いに来いということらしい。
間に挟まってしまったメディコに申し訳なくなったフォルテは、
「私が話してみよう」
と言って席を立った。
ジリオ伯爵夫人が働くのは、治験の調査記録をまとめる部署だ。
薬を投与した患者を長期間経過観察することによって、本当に役に立つ薬なのか?副作用はないのか?等の情報を収集するらしい。
ただ、彼女は現場へ行って患者と接するのではなく、上がって来た情報を整理するだけ。
正直、誰がやっても出来るのではないかと言う単純作業をしては、他の者より高い給料を貰っているらしい。
――何故、誰も文句を言わない?
首を傾げながら彼女のいる部屋へ赴くと、他の場所とは違う空気が流れていた。
部屋中に置かれた白百合の中に、その百合にも負けない白い肌と派手な目鼻立ちの女が座っている。
白衣を着て紅茶を飲む姿は、茶会の貴婦人のようだ。
あまりにも場違いで、フォルテの眉間に深い皴が寄る。
――一体、彼女は、何がしたいんだ?
医局には、看護師、衛生士、管理栄養士、そして女医と、少ないながらも働いている女性が居る。
彼女達は、男性社会の中でも後れを取らぬよう日々勉強に励み必死に仕事をしていた。
そんな中、遊びの延長のような仕事で高給を取る彼女は、正直邪魔にしか思えない。
コンコン
ドアは開けっ放しにされていたが、フォルテは一応ノックをする。
「失礼します。私は……」
「存じ上げておりますわ、ヴィットーリア侯爵。戦場の英雄と名高き貴方に会えて、とても光栄ですわ」
まるでフォルテが来ることを想定していたかのような口ぶりだ。
「私の名は、チカトリーチェ・ジリオ。チカトリーチェとお呼びになって」
最初から馴れ馴れしい物言いに、フォルテの眉間の皴は益々深くなる。
「ジリオ伯爵夫人、白百合を撤去させていただく話をしに来ました」
「まぁ、どうしてですか?こんなに美しいのに」
「私の妻が、この匂いで気分が悪くなるからです」
「それこそ横暴というものではなくて?ここに居ない人間の為に、折角摘んで持ってきた白百合を捨てろとおっしゃるの?」
確かに、横暴と言われればそうかもしれない。
花の匂いが、ここまで強くなければ言い掛かりとしか言いようがないだろう。
しかし、他の職員からも苦情は出ているらしく、特に女性陣には、かなり不評のようだ。
狭い部屋に特に匂いがキツイと言われるオリエンタル系の白百合を飾ることは、本来常識のある者なら控えるだろう。
それを毎日大量に持ち込むとなると、それは悪意があると言えるのではないだろうか?
「せめて、量を減らしてください。飾るなら、この部屋だけでどうぞ」
「私の善意を、奥様の為に踏みにじられると言うのですか?」
「善意も、受け入れられなければ悪意と取られてもしかなたいのでは?」
「まぁ、酷い。それで、私の白百合が、奥様にどんな意地悪をしたとおっしゃるの?」
椅子から立ち上がったチカトリーチェは、不必要に腰を左右に揺らしながらフォルテの傍まで歩いて来た。
「妻は出産したばかりで些細な匂いでも体調を悪くするのです」
「それって、私の白百合のせいかしら?もっと、他に原因があるのではなくて?例えば……夫婦仲がよろしくないとか?」
意味深な笑みを浮かべ、チカトリーチェはフォルテの胸元に手を置いた。
それを、フォルテは素早く撥ね除けた。
「触らないでもらいたい」
「そんなに怒らないでも。奥様がお相手して下さらないからイライラしてらっしゃるのではなくて?」
フォルテは、最初何のことを言っているのか分からなかった。
何せ、母ピアニッシモ譲りの鈍感だ。
しかし、無駄に色気を振りまくチカトリーチェの行動には、不快感を募らせる。
「貴女には、関係のない事でしょう」
「いいえ。私が夫婦円満の一助になれるかもしれませんわ」
フォルテの体を値踏みするように見つめるチカトリーチェは、獲物を狙う獣のような目をしている。
「結婚しても恋人を持つことくらい、どこのご家庭でもなさっているではありませんか。別にヴィットーリア侯爵が私をその一人に加えたからと言って、奥様と離婚してくれなどと騒いだりいたしませんわ」
確かに、貴族の結婚は家と家との繋がりが重視される側面があり、婚姻関係を続けながら恋人を持つ者も居る。
現に、国王も側室を娶り、王妃以外に関係を結んでいる。
自分がしておきながら、貴族達に禁ずることも出来ないのだろう。
ただ、そのような考えを持たない者もいる。
フォルテの父と母は、政略結婚ではあったが互いに愛を育み合い、今では仲の良い鴛鴦夫婦として有名になっている。
そんな両親を持つフォルテは、チカトリーチェの提案に乗るような馬鹿ではない。
「言っている意味が分かりませんが、正直不愉快です」
「そんなに奥様が怖いのかしら?」
「私は妻を愛しております」
「心と体は違うと申しますでしょ?」
チカトリーチェが再びフォルテの腕を触ろうとして来たことで、フォルテは話し合いは無理だと察した。
「貴女とは分かり合えそうにない。失礼します」
フォルテは踵を返すと、さっさと部屋を出ていった。
その後姿を眺めながら、チカトリーチェは人差し指を軽く歯で噛んだ。
「やっぱり、いい男だわ」
彼女は、昔から奔放な性格だった。
夫とは契約結婚のようなもので、男児さえ産めば、あとはどうでもいいと言われていた。
だから、動けるようになったら直ぐに外へ飛び出した。
医局で仕事に就けたのも、別の恋人のお陰だった。
彼女には、複数人愛を語らう男達が居る。
別にそのことを変だと思ったことは無い。
――私ほどの良い女を、一人の男しか味わえないなんて世界の損失よ。
己を極上品だと思っているチカトリーチェは、次のターゲットをフォルテに決めていた。
――元王太子の婚約者を無理やり当てがわれた可哀想な戦場の英雄様。私が、慰めて差し上げるわ。
赤い舌が、ぽってりと厚い唇を舐めた。その妖艶さが、彼女の品位の無さを表しているようだった。
フォルテは屋敷に帰ると、一番に客室の風呂に入って服を着替えた。
それなのに、まだ鼻の奥で、白百合の匂いがしているような気がする。
――あぁ、最悪の気分だ。
白百合を撤去する事も出来ず、すごすごと帰って来てしまった自分を情けなく感じる。
ただ、女性相手に暴力や権力を使って言う事を聞かせることは、彼の信条に反するのだ。
――あぁ、早くドルチェに会いたい。
毎日風呂に入ってからでなければ妻に会えないことが、フォルテのストレスになってきている。
いつもなら、多少汗ばんでいようとも、妻は両手を広げて彼を待ち笑顔で抱きしめてくれるのだ。
――忌々しい女だ。
チカトリーチェを思い出し、フォルテの表情は険しいものになる。
その顔のままドルチェの部屋を訪れてしまい、彼は妻を驚かせてしまう。
「フォルテ、どうしたの?とても、険しい顔だわ」
「あぁ、すまないドルチェ。私を癒してくれないか?」
まだ少し湿気の残った髪の毛をかきあげるフォルテは、とても色っぽく見える。
ドルチェは頬を赤らめながら、
「仕方のない旦那様ね」
と言って抱きしめた。
ベッドの上で寄り添いあう二人は、まるで付き合い始めた恋人のように初々しい。
フォルテの髪を撫でながら、ドルチェは彼の心配事を聞いてあげることにする。
「それで、何があったのかしら?」
「それなんだが……」
今日起こった出来事を全て包み隠さずフォルテが話すと、ドルチェは呆れて目を見開いた。
「まぁ、そんな大胆なことを言う方がいらっしゃるだなんて驚きだわ」
側妃制度が行われるようになる前は、公妾といった国王の愛人が王宮内を我が物顔で歩いていた時期もあった。
中には身分の低い者が成り上がった記録も残っており、王太子妃教育を受けたドルチェは、その内容にげんなりしたことを覚えている。
ただ、ドルチェの両親は、祖父が築いた財産を食い荒らしはしたが、サラート以外の兄弟は存在しない。
彼らの仲間は、それなりに遊んでいる者も多かったため、その点は感謝しなければならないのかもしれない。
「それで、結局話し合いは物別れとなってしまって、白百合の排除にまで辿り着けなった。すまない、ドルチェ」
「いいえ、フォルテ。貴方は、最高の旦那様よ」
目の前に吊り下げられた美味しそうな餌に食いつかず、更には撥ね返して帰って来ただけでも褒めるべきなのだ。
それほど世の中の男性は、美人に弱い。
ドルチェもチカトリーチェの噂は聞いたことがあった。
自分より約一回り程年齢が違う為直接的に話したことは殆どないが、常に噂の絶えない女性だった。
――多分、彼女は、最初から私に嫌がらせする為に白百合を置いたわね。
それ程頭が良いわけでもないのに、悪知恵ばかり働く人間は、この世に一定数居る。
チカトリーチェも、そういった部類の女なのだろう。
医局は、それぞれ役割に応じて部屋が分けられている。
専門性の高い仕事をする為であり、細分化されるほどに必然的に部屋は小さくなっていく。
小さな部屋に大量の白百合を置けば、フォルテの衣服にも嫌と言うほど匂いが移る。
その匂いに、ドルチェが気分を害し、フォルテに当たり散らせば万々歳。
ダメでも、ドルチェの気分を害することは出来る。
案の定、妻思いのフォルテは、彼女の元を訪れた。
チカトリーチェは自身の肉体的魅力で畳み掛けるつもりだったのかもしれないが、愛妻家には通用しなかったらしい。
――それにしても、フォルテを狙うだなんて、放っておけないわ。
なびくようなことは無いだろうが、どんな手を使ってくるか分からない為フォルテが危険なことに変わりはない。
――それに、私に喧嘩を売ったのだから、買って差し上げなくては失礼だわ。
こうして、チカトリーチェは、最も怒らせてはいけない眠れる獅子の尾っぽを踏んだのだった。




