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午後七時。会社の最寄り駅を通り過ぎ、俺は昨日と同じ純喫茶『ロスマリン』の前に立っていた。
重厚な木の扉には、すでに『準備中』と書かれた木札が裏返されている。少しだけ迷ったが、俺は思い切って扉を押し開けた。カラン、と控えめなベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、本日の営業は終了しました」
カウンターの奥で、大きなエプロン姿の白楽さんが振り返った。昨日と同じように、彼女の黒髪やエプロンにはうっすらと白い粉がついている。
「約束したでしょ、接客の練習。まさか忘れてた?」
「ふふっ、冗談です。お待ちしていましたよ、日吉さん。どうぞ、お好きな席へ。今、コーヒーを淹れますから」
案内に従って、彼女が話しやすいようにカウンター席に腰掛ける。
「ありがとう。今日も彫刻してたの?」
「ええ。むしろ本職なので。ドスケベ彫刻の右の胸鎖乳突筋から鎖骨にかけてのラインを微調整していました」
白楽さんは裏口を指さしながら、真顔で息をするようにとんでもない単語を口にする。
「……接客の練習中は、その『ドスケベ』って単語は禁止だからね? お爺ちゃん客が聞いたら心不全起こすよ」
「芸術に対する冒涜ですね。ですが、日吉さんが私の接客コンサルタントを名乗るなら、指示には従います」
「そんな大層なことはできないけど……」
白楽さんは布巾で手を拭うと、サイフォンに火を点けた。
コポコポとお湯が沸き上がる静かな音だけが、セピア色の店内に響く。デジタル機器の通知音も上司の嫌味も聞こえない。店主が変わったとしても、やはりこの空間は俺にとって最高の避難所だ。
やがて、コトリと俺の目の前にカップが置かれた。俺は一口飲み、ふと違和感を覚えてカップの縁を指でなぞった。
「あれ、このカップ、昨日と違うね。縁が少し厚い気がする」
「よく気づきましたね」
白楽さんは少しだけ目を丸くした。
「唇に触れる陶器の面積と角度は、コーヒーの味わいを左右する重要な要素なんです。厚みがある方が、口の中に広がる温度の伝わり方が緩やかになりますから」
「へえ、マスターのこだわり?」
「祖父もそうですが、私もこのカップの縁の曲線は完璧だと思っています。……ちなみに、私が現在制作しているドスケベ彫刻の唇も、この『縁の厚みと反り返り』をミリ単位で追求していまして――」
「だから禁止だって言ったでしょ!? すぐそっちの話に持っていくんだから」
俺がツッコミを入れると、白楽さんは不服そうに口を尖らせた。
「日吉さんが振ってきた話題じゃないですか。それに、石膏で唇の柔らかさを表現するのは至難の業なんです。人間の唇というのは、常に微妙な緊張と弛緩を繰り返していて――」
「はいストップ。解剖学の講義はそこまで。さっさと接客練習を始めるよ」
俺はわざとらしく咳払いをし、居住まいを正した。
「じゃあ、いくよ。俺は『初めて来店した、ちょっとキザな常連予備軍の男』の設定だからね」
「面倒な設定ですね。もっとシンプルに『コーヒーを飲んですぐ帰る客』ではダメですか?」
「それだと練習にならないでしょ。ほら、スタート」
俺はカップを片手に、少しだけ声を低くして言った。
「いやあ、マスター。すごくいい雰囲気の店だね。君みたいな可愛い子が淹れてくれるなら、毎日でも通っちゃおうかな」
「……ありがとうございます」
白楽さんはぺこりと頭を下げた。お、今日はまともな返しだ、と思ったのも束の間。
「ですが、毎日カフェインを過剰摂取すると自律神経が乱れますよ。睡眠の質も低下しますし、週に二回程度に抑えることをお勧めします」
「……」
「それに、私の顔の造形が綺麗だと仰いますが、骨格の黄金比から言えば、私の頬骨の位置は少しばかり……」
「ストップ! なんで客の褒め言葉を健康被害と骨格の自己評価で打ち返すの!?」
俺が頭を抱えると、白楽さんはきょとんとした顔をした。
「間違ったことは言っていませんよ? 日吉さんが毎日来店して体を壊したら困りますから」
「気遣いの方向性が斜め上なんだって……! いいかい、こういう時は嘘でもいいから『ふふっ、嬉しいです。いつでもお待ちしていますね』って微笑めばいいんだよ。それが大人の接客術だって。セクハラ紛いの客をどういなすかも大事だと思うんだ。特にこれまでとは違う客層が来かねないわけで」
「微笑む……ですか」
白楽さんは難しい顔をして、自分の頬を指でむにむにと押した。どうやら、表情筋をどう動かせば『愛想笑い』になるのか、本気で計算しているらしい。
「自然でいいんだよ、自然で。さっき俺が店に入ってきた時みたいに、少し口角を上げるだけでいいんだから」
「ん……はい。わかりました」
そう言って白楽さんはぎこちない笑顔を作る。その不慣れな感じがたまらなく面白くて、俺はついぶふっと噴き出してしまった。
「まだまだ練習が必要だね」
俺が笑いながら言うと、白楽さんは照れ隠し用に顔を覆ってカウンター越しに俺をジロリと睨みつけた。
「……日吉さんのコーヒー、明日は致死量の砂糖を入れておきますからね」
「勘弁してよ。俺はブラック派なんだ。後、明日も来るか分からないよ?」
「や、来てもらいますから」
「しょうがないなぁ……」
コーヒーの香りと、ほんのり混ざる石膏の匂い。
文句を言いながらも顔の粉を拭う彼女の姿を見ながら、俺は冷めかけたコーヒーをゆっくりと飲み干した。
この奇妙な放課後は、思ったよりも退屈しなさそうだ。




