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会社終わりの夜。雨の中、濡れた肩をさすりながら、俺は『準備中』と書かれている純喫茶『ロスマリン』の重い扉を押し開けた。
「……いらっしゃいませ。日吉さん」
カウンターの定位置。真っ白な石膏の粉をエプロンに付着させた白楽さんが、無表情のまま俺を迎えた。
俺は傘立てに折れた傘を突っ込み、いつものカウンター席に腰を下ろした。
雨の日の喫茶店はいい。外の喧騒が雨音で遮断されて、世界にこの空間しか存在しないような錯覚に陥るからだ。
「……で。今日は接客の練習じゃなくて、栄養補給の練習から始めるの?」
俺はネクタイを少し緩めながら、目の前の光景に短く息を吐いた。
白楽さんは、コーヒー用の角砂糖が入った銀色のシュガーポットを抱え込み、あろうことか、そこから茶色い角砂糖を一つ指でつまみ出し、カリッ、と前歯で齧っていたのだ。
「……」
白楽さんは無言のまま、小動物のように砂糖を咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。
「……君、馬なの?」
「失礼な。これはただの効率的な糖分の直接摂取です」
「世間ではそれをつまみ食いって呼ぶんだよ。自分の店の角砂糖を齧るマスターがどこにいるのさ」
「仕方ないじゃありませんか。先ほどからアトリエで、腕を四十五度上げた際の『前鋸筋』の連動と、それに伴う脇腹の皮膚の引っ張り具合について脳内シミュレーションを行っていたんです。脳のカロリー消費が限界を突破しました」
「ドスケベ彫刻の設計の話? 疲れてるならコーヒーに溶かして飲めばいいじゃない」
「液体に溶かして経口摂取するよりも、固形物のまま咀嚼して唾液腺から直接糖分を吸収した方が、血中への到達速度が0.2秒ほど早い気がします。私はその0.2秒すら惜しいんです」
白楽さんは平坦な声で独自の屁理屈を並べ立て、もう一つ角砂糖に手を伸ばそうとした。俺は無言でシュガーポットを彼女の手元から引き離した。
「はい、没収。見てるこっちの血糖値まで上がりそうだよ……」
「あ……」
「そんなに疲れてるなら、甘いコーヒーを淹れてあげるから座ってなよ。俺が淹れるから。お祖父さんが使ってたドリップポット、借りるね」
俺が立ち上がり、カウンターの内側へ回ろうとすると、白楽さんは少しだけ目を丸くした。
しかし、すぐにいつものダウナーな表情に戻り、カウンターの隅にある丸椅子にちょこんと腰を下ろした。
「……日吉さんに淹れてもらうのは構いませんが、私はコーヒーの抽出温度にはうるさいですよ」
「IT土方を舐めないでよ。サーバーの温度管理に比べたら、お湯の温度なんて目視で十分だからね」
俺は適当なことを言いながら、ペーパーフィルターをセットし、挽いてあった豆を投入する。
細口のポットからゆっくりとお湯を落とすと、コーヒーのドームがふわりと膨らみ、香ばしくも苦い香りが立ち昇った。
雨音とお湯が滴る音だけが響く。
ふと横を見ると、丸椅子に座った白楽さんが、俺の手元……というより、落ちていくお湯の軌道を、まばたきもせずにじっと見つめていた。その睫毛の先には、やはり今日も白い石膏の粉がついている。
「……なに?」
「いえ。日吉さんのドリップの姿勢、広背筋の使い方が無駄だらけだなと観察していました」
「うるさいなあ。これでも真剣に淹れてるんだよ」
「でも、悪くありません。お祖父ちゃんが淹れていた時の、少し猫背になる角度と似ています」
白楽さんはそう言って、小さく息を吐いた。それは、彼女なりの最大限の褒め言葉なのかもしれなかった。
「……ほら、できたよ。特別製のカフェオレ。砂糖はポットから直接齧るんじゃなくて、ちゃんとこれに入れて溶かしてね」
「ありがとうございます。……では、遠慮なく」
白楽さんは差し出されたカップを受け取ると、両手で包み込むように持ち、ふう、と息を吹きかけた。
そして、シュガーポットから角砂糖を三つ、無表情のままドボン、ドボンと立て続けに放り込んだ。
「入れすぎでしょ」
「脳が要求しているのですから、適量です」
白楽さんは、カップの縁に口をつけ、少しだけ目を伏せた。
「それに、今日は雨のせいで少し冷えますから。これくらい甘くないと、割に合いません」
その言葉が、濡れたビニール傘をさして歩いてきた俺に対する不器用な労いなのか、それとも単に彼女自身の彫刻のスランプに対する愚痴なのか、俺には分からなかった。
ただ、彼女の鼻の頭にほんの少しだけ石膏の白い粉がついているのが見えて、俺は小さくため息をつき、自分の分のブラックコーヒーを啜る。
「彫刻、隣の部屋で作ってるの?」
俺の質問に彼女はコクリと頷いた。
「ん……はい、そうです。元々お祖父ちゃんが倉庫として使っていたんですが、そこを間借りする形でアトリエにさせてもらったんです」
「へぇ……」
「……一番の理解者でした。お祖父ちゃんは。家族は、私が彫刻で食っていくことに反対していました。けど、お祖父ちゃんだけは違ったんです」
「だから喫茶店の後を継いだ?」
俺がそう言うと、ハッとした顔で白楽さんが顔を上げた。
「……そうですね。お祖父ちゃんのお店をこのまま終わらせたくない。だから、誰も引き取り手がなかったこの店を私が引き取った。そうですね。そういうことにしておいてください」
「ここには俺しかいないんだから素直になればいいのに……」
「や、日吉さんしかいないからですよ。やっぱり、私はアトリエの存続のためについでにこの店を引き継いだんです。そういうことにしといてください」
カップを持ったままプイっと顔を背けた白楽さんは少し照れた様子で顔を赤くしている。
まぁまだ3回目。彼女と打ち解けたと思うには早すぎたようだ。




