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世の中の喫茶店で出される布のおしぼりを俺は気に入っている。手を拭いてよし、顔を拭いてよし。紙のおしぼりではできない芸当だ。
だから俺は、自宅から駅の通り道にある、分厚くて温かい布のおしぼりを出してくれる純喫茶『ロスマリン』を重宝していた。
重宝していた、というのは実は過去の話だ。それは、この一ヶ月、店はずっとシャッターを下ろしていたからだ。『しばらく休業します』というシンプルな貼り紙と共に。
だが、今日、会社帰りにふと前を通ると、そのシャッターが上がっていた。
「……開いてるな」
俺は少し緩んだネクタイを締め直し、重い木の扉を押し開けた。カラン、とくぐもったベルの音が鳴る。
入店した瞬間、コーヒーの苦みのある匂いが鼻腔を支配した。
カウンター席の奥、見慣れた白髪の老紳士が立っているはずの場所にいたのは、やけにサイズの大きい古びたエプロンを着た、見知らぬ若い女だった。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。無造作に後ろで束ねられた黒髪に、なぜか真っ白な粉がついていた。
目を引くのはその白い粉に負けず劣らずの白い肌。それと、耳に輝く複数のシルバーのピアス。
「……いらっしゃいませ」
いかつめの彼女は見た目と裏腹に抑揚のない声で言った。
俺は適当なカウンター席に腰を下ろし、出された水のグラスを見つめた。布のおしぼりは出てこない。
「マスターは? しばらく閉まってたみたいですね」
「マスター……ですか。祖父のことなら、三週間前に他界しました。今は骨壺の中で静かにしています。孫の私が店を継ぎました」
彼女は何度か繰り返しているのか、定型句のように感情を載せずに言い切った。
「……そうですか」
俺は短く息を吐いた。
この一ヶ月、ただ閉じていただけのシャッターの裏で起こっていたありとあらゆるドタバタを想像してしまう。
その驚きや悲しみよりも先に、もうあの深煎りの珈琲が飲めないのかという、身勝手な喪失感が胃のあたりに落ちてきた。
「お悔やみ申し上げます」
「お悔やみの言葉で祖父が生き返るわけでもないので、お気になさらず。それで、注文はどうなさいますか?」
「……珈琲……大丈夫ですか?」
「一応、祖父のレシピは引き継ぎました。不味いと感じたら、向かいのチェーン店に行くことをお勧めします」
女はそう言うと、真っ白な粉がついた手をエプロンで適当に払い、サイフォン式の器具を準備し始めた。手にはいくつも絆創膏が貼られている。
「気になってたんだけど、その白い粉は何? 店でうどんでも打つ気?」
「うどんと一緒にしないでください。石膏です」
「石膏」
「ええ。先ほどまで隣のアトリエで、大臀筋から太ももにかけての曲線をヤスリで削り出していたところです。ドスケベ彫刻を制作中ですので」
「……ん?」
俺は自分の耳を疑った。
「なんだって?」
「ですから、ドスケベな彫刻。ドスケベ彫刻です」
女はサイフォンの火を調整しながら、真顔のままで繰り返した。
「女性特有の肉感、有機的な曲線の暴力、圧倒的なエロティシズム。それらを純白の石膏という無機物で極限まで表現した芸術作品です。何かおかしいですか?」
「いや……綺麗な顔して、息をするようにとんでもないこと言うなと思って」
「綺麗な顔、という的外れな修飾語は不要です。私は至って真剣に、この胸の質量と重力について計算しているのですが。画面の中の0と1しか見ていない枯れた現代人には、このアナログな情熱は理解できないでしょうね」
「初対面の客に向かって枯れた現代人とか言う!?」
「初対面ではありませんよ。認識されていたかは知りませんが、祖父の手伝いとしてここに来て仕事をサボりながらコーヒーを飲んでいた時に隅の席でよく来店した人を観察していました」
「つまり、ただコーヒーを飲みながら人間観察をしていたと……」
俺が呆れていると、コトリ、と目の前にコーヒーのカップが置かれた。琥珀色の液体から立ち昇る香りは、確かに亡くなったマスターのものに近い。
一口飲む。少しだけ温度が高い気もするが、悪くない。
「……美味しいよ。マスターの味に近い」
俺がそう言うと、女はエプロンのポケットに手を入れたまま、わずかに視線を逸らした。
「……そうですか。良かったです」
分かりにくいが、少しだけカップを拭く手の動きが速くなっている。褒められ慣れていないらしい。
「名前、聞いていい? 白楽の爺さんのお孫さんなんだよね?」
「はい。白楽青葉です」
「俺は日吉。日吉蓮。まぁ適当な爺さんだったから覚えてないだろうけど」
「ふふっ、そうですね」
白楽さんは布巾でカウンターを磨きながら微笑む。そして、何かを思い出したように小さくため息をついた。
「日吉さん。貴方が珈琲の味に満足してくれたのは事実として受け取りますが、私は喫茶店の経営には向いていないと自覚しています」
「そりゃそうだろうね。客にドスケベ彫刻の話をする喫茶店の店主なんて聞いたことがない」
「そこではありません。私、愛想笑いというものが致命的にできないんです」
白楽さんはヤスリで荒れた絆創膏だらけの指先を見つめた。
「今日も常連客だったお爺様がいらして『今日はいい天気だねえ』と仰ったのですが」
「ふむ。それで?」
「『そうですね。紫外線は木材や石膏の劣化を早めるので、私にとっては不愉快極まりないですが』と事実を伝えたところ、気まずそうな顔をして帰ってしまわれました」
「当たり前でしょ! なにその完璧なコミュニケーション拒否!?」
俺は思わず突っ込んだ。
「いいかい、白楽さん。世の中の会話の九割は、情報の伝達じゃなくて『私はあなたに敵意がありません』という動物的なシグナルなんだよ。天気がいいですね、っていうのは『今日は暖かいですね、だからあなたを襲いませんよ』って意味なんだ。そこで紫外線の話を出すのは、相手の喉元にナイフを突き立てるのと同じだよ」
「……理解に苦しみます。なぜ天気の話題一つで命の危機を感じなければならないのですか? 人間はもっと論理的に生きるべきです」
俺はこめかみを押さえた。このままでは、あのマスターが大切にしていた静かな空間が、この理屈っぽくて不器用な孫娘のせいで潰れてしまうのは火を見るより明らかだった。
俺の貴重な避難場所が、一つ消滅することになる。
「あの……」
俺がどうしたものかと考えていると、彼女から話しかけてきた。
「なんだい?」
「その……接客の練習相手になっていただけませんか?」
「え?」
「あ、いえ。毎日じゃなくても大丈夫ですから」
白楽さんは冗談っぽくニヤリと笑ってそう言った。
「毎日ここに来るかどうかが気になっての『え?』じゃないからね!?」
俺のツッコミに満足そうに白楽さんが笑った。客にする絡み方じゃないな……
しかし、次の言葉がやってこない。まだ俺のターンらしい。
「……俺が客役をするの?」
俺の質問に彼女がコクリと頷いた。
「はい。お願いできればと。閉店後、常連客のシミュレーションをしてもらいたいんです。私はそれに合わせて無難な相槌を打つ練習をしてください。天気の話から、最近膝が痛いっていう世間話まで、全部」
「なんで俺が……」
「お祖父ちゃんが良く言ってたんです。たまに来るあのサラリーマンはいい人そうだ……って」
「それが俺?」
「や、それは知りません」
「なんなの!?」
「けど……私は私で思っていたんです。コーヒーを飲んで静かに帰っていくサラリーマンがいて……その人の横顔は日吉さんによく似ているんです」
過去の思い出に浸るように目を瞑ってそう言う姿はまるで彫像のように美しかった。その姿に見惚れたわけではないけれど、思わず「うん」と言ってしまった。
「うん……わかった。いいよ。それくらいなら。毎日とはいかないだろうけど……」
「ありがとうございます。日吉さん、ついでにコーヒーの毒見役をしてもらいますね。まだ自信がなくて」
「せめて味見って言いなよ!?」
こうして、枯れかけたサラリーマンと、石膏まみれの不器用な彫刻家による、奇妙な放課後の補習が幕を開けたのだった。




