7. なぜだ?
「いえ、別に。おかしなことは言っていません。」
咄嗟にそう答えた。
いや・・・おかしなこと言ってたか・・・?
「すみません。斉藤さんありがとうございました。ほら行きますよ。」
松本さんを促し教室へと歩き出した。
さっきまでとは打って変わって足取りが軽い。
まだ出会って二回目なのに受付の斉藤さんも普通に話してくれた。
まだ出会って二回目なのに松本さんはお母さんみたいなことを言う。
そう心の中で繰り返していると、なんだか心が温かく幸せだなと思っていた。
ガラガラ
古い引き戸の扉の音。
建物は素敵だが、年季の入った建物なのは間違いない。
そういえば、30年くらいここに通っている人がいるって、先週奈良先生が言っていた。
築何年の建物なんだろうな。
「こんばんは。」
挨拶しながら教室に入る。
先週欠席していた人もいたようで、知らない顔の数人が不審な顔を向けてきた。
「今日からお世話になります戸ノ岡です。よろしくお願いします。」
とりあえず自己紹介した。
「ああ、よろしく。」
それだけの人もいる。
「絵が好きなの?初めて?」
などと、質問してくる人もいた。
でも共通して“自分の名前”は言わない。
なぜだ?
普通言ったら返すものなのかと思ってた。
自己紹介したのに松本さんと先週松本さんと話してた竹井さんしか名前が分からない。
「お名前は?」
と聞いてもスルーされたし仕方がない。
社会ってそういうものなのかな。
そう思いながら、前回と同じ席に座った。
松本さんが、先週と同じように前の席に座った。
「今自己紹介したんですけど、皆さん名前を教えてくれないです。」
早速、前に座った松本さんに愚痴っていた。
いやいや、愚痴ではなく純粋な疑問?だ。
「いわれてみればそうかもね?」
斜め上の方に目をやっていろいろ思い出しながら、確かにまだ全員の名前しらないかも…とか言っている。
あれ?そういえば…。なんてブツブツ言っている。
「そういえば、松本さんも俺の名前聞いといて、自分の名前言わなかったですよね。」
あ、しまった。また責めているような感じで話してしまった。
内心焦っていると、
「そうだったっけ?それは失礼しました。」
気にした様子もなく、素直に謝られる。
なんだかバツが悪い。
「いえ、別に。」
あわててフォローしようとしたが、それも思いつかず、なんだかぶっきらぼうになってしまった。
いつも誤解されてしまう……
松本さんは後ろの席の俺の方に向かって座りなおし、
「私は松本かのこといいます。よろしくね。」
にこっと笑った。ラベンダーの香りがした。
嫌な顔しないで普通に話してくれた。
「松本かのこ…。」
今言った名前をフルネームでつぶやくと、
「はい。松本かのこです。戸ノ岡さんは下の名前は?」
「え?ああ、俺は一馬です。」
「一馬君ね!これから一馬君って呼んでいい?」
「いいですけど。」
なんだか照れるぞ。
「じゃあさ、私のことは、好きに呼んで!」
「え!?」
あっけにとられる。
普通ここは「じゃあ私のことは“かのこ”って呼んで」じゃねえ?
俺の普通がおかしいのか?
ここでは通じないのか?
俺真面目過ぎ?
俺の方が変なのか?
そんなことを考えながら、目の前にいる松本さんを見る。
「本当に好きに呼んでいいんですか?」
その質問に、もちろん!と言わんばかりの顔をして、それからちょっと考えた表情になった。
「え?いいですよ。あっ、でも馬鹿とか悪口は嫌かも。悪口じゃなければなんでもどうぞ!」
「え!?」
そんなことを真面目な顔で言ってくる。
全然名前と関係ないじゃん。
小学生じゃあるまし、馬鹿とか言いませんよ!
「いいませんよ!そんなこと。」
「そう?ならなんでもどうぞ。」
ニコッと笑って、俺が何ているのか待っているようだ。
「じゃあ、俺は“かのこさん”って呼びますね。」
「え?いきなり下の名前ですか?」
下から上目遣いに見てくる。
ただの身長差ゆえの見え方なので、当人はそんな風に見ようとは思っていないと思うのだが、この角度は反則だ。
急に恥ずかしくなってなんだかいけないことを言ってしまった気がして焦る。
「なんでも好きに呼んでいいって言ったじゃないですか?」
「いや~いきなり若い男の子に下の名前で呼ばれるなんて慣れていないから驚いてしまっただけです。ちょっと恥ずかしいですけれども、慣れるから大丈夫です。私が好きに呼んでいいって言ったわけですし……」
恥ずかしそうにうつむく。
なんでうつむくのかな?
名前にコンプレックスでもあるのだろうか。
「かのこさんの名前とても可愛いです。かのこさんにとても合っています!」
“うつむかないで、とても素敵な名前なのに”と伝えたくてそういうと、かのこさんの顔はかぁっと真っ赤になっていくのであった。
「若い子のいうことはパンチがありますね。お姉さん参ったので、今日は無言で頑張ります。」
そういうと、くるりと前を向いて、この日教室が終わるまで話をしてくれないのであった。
なぜだ?




