第11話 天神様の細道
「もう、苦しくはないか?」
「え?」
ぎゅっとしがみついていたはずなのに。いつの間にか、少女は稔流と向かい合って立っていた。
「うん……苦しくないよ」
咳は止まっているし、喉もヒュウヒュウ音を立ててはいない。
体がとても楽だ。少女が飲ませてくれた不思議な甘い何かが、体にも心にも甘くあたたかく染み渡っている気がした。
「……あ!」
「何だ?」
稔流は、キョロキョロと見渡した。
「お馬さんがいない!きゅうりのお馬さん、だいじなお馬さんなのに」
あのきゅうりの馬がないと、『ごせんぞさま』が帰って来られない。
「ほらほら、もう泣くな」
少女は苦笑して、赤い着物の袖で稔流の目元を拭いてくれた。
「心配いらないよ。あの馬なら、もう迎えに行った。そろそろ太一を乗せて喜代の家に戻っているだろうよ」
「たいち……?」
稔流は思い出した。緑の少年が言っていた名前だ。
「太一は、稔流のひい爺様だよ。喜代はひい婆様の名前だ。仲の良い夫婦だったから、お盆はふたりとも嬉しかろうな」
「ひいおじいちゃん……」
河童が、稔流と父の豊、そして太一が狐の子だと、言っていた。
「きつねのこ、ってなに?」
「河童め……余計な事を」
少女は、舌打ちしたが教えてくれた。
「髪やら目やらが、秋の稲穂のような色の者のことを、《狐の子》と呼んでいる。だから狐に気に入られたり、宇迦の姫神様の加護を受けて、田畑の実りが良くなったり家が豊かになったりする。でも、神でも妖怪でも、特別に気に入られるのは良い事ばかりではない。稔流のように、とんだ災難に遭うこともある。そんなことも知らずに、依怙贔屓されていると言って、羨ましがったり妬んだりする者もいる。人間とは馬鹿な生き物だ」
稔流は、ぼくも人間なんだけど……と、ちょっと困った。
「ああ、稔流は馬鹿ではないよ。賢くて、優しい。稔流は大切にされる為に生まれて来た。幸せになる為に生まれて来た。稔流と初めて会った時、私はそう思ったよ」
白い少女が微笑んで、稔流は頬が赤くなった。
嬉しいような、胸が跳ねて落ち着かないような、不思議な気持ちがした。
「さあ、もう帰ろう。稔流の母様も父様も……稔流を愛する者は皆、心配して捜しているから。歩けるか?」
「……うん」
「無理をしなくてもいいぞ。疲れて辛いのなら、私がおぶってやる」
「い、いいよ!歩けるから!!」
「ふふ、そういうことにしておくよ。……ほら」
差し出された白い手は、稔流と同じくらいの小さな手。稔流も色白なのに、少女の手はもっと白い。
「……ゆきみたい」
握った手は、ほんわりとあたたかいのに。
「髪か?まあ、稔流から見れば変だろうな。河童の緑の髪が許せるのなら、私の髪もそのようなものだと思っておけ」
「ち、ちがうよ!」
確かに白い手よりももっと真っ白だけれども、お人形のように整った顔の輪郭に沿って切り揃えられた雪のように真っ白なおかっぱの髪は、一歩歩くごとにさらさら揺れて、とても美しいものなのに。
「へんじゃないよ!ぜんぜん、そんなこと、ないよ!あのね、まっしろで、まっすぐで、きらきらしてて……」
稔流は、一所懸命に言った。
「きれいで……ゆきの、いとみたい」
雪の糸。
稔流は口にしてみて、本当にそうだと思った。
雪はふわふわ降り積もったり、冷たい粉のようだったりするけれども、もし、それが細い細い糸に紡がれたなら。
きっと、光が透き通るような白になる。
「そんな、それこそ綺麗な言葉は、初めて聞いたよ。稔流」
稔流の隣で、少女が綺麗に笑う。
「幼いうちから殺し文句か。将来女を泣かせるなよ」
「ころ……?」
「ふふっ、心を射抜く才があるということだよ」
難しいことを言う。稔流は生まれつき小さくて、5歳の今でも周囲の子供の成長に追い着けていない。
稔流と同じくらいの背丈なら、この少女は稔流よりももっと幼いはずなのに。
「ねえ、なんさい?」
「女に歳を訊くな」
「どうして?」
「そういうものだ。理由はまだわからなくてもいい」
何だか、少女の口ぶりは大人が子供に対して言うような雰囲気だ。
「ぼく、5さいだよ」
「知っているよ。満年齢なら五つ。数え年なら七つだ」
満年齢も、数え年も、知らない言葉。
「私の見かけならば、多分数え五つくらいだ。稔流が5歳だという満年齢なら、私は3、4歳くらいに見えるのだろうな」
「ねんしょうさん?ねんちゅうさん?」
「それは、幼い子供が預けられる場所の言葉か?」
くすりと『多分数え五つくらい』の少女は笑った。
「私は人間ではないから、そのような場所に預けられることもないし、預ける親もいない」
「…………」
稔流は、聞いてはならないことを聞いてしまった気がした。
親がいない。自分より年下に見える女の子が、そんな事を言うなんて。
「気にするな。妖怪とはそういうものだよ。親から生まれるのではなく、川の水の泡のように、自然に『生る』ものだ。河童や狐は死にたくないと騒いだが、人間のように死ぬ訳ではないよ。いつか、ただ消える日が来るだけだ」
稔流は何も言っていないのに、心を読んだかのように少女は言う。
わからない。この子の言うことは難しすぎて。
手を繋いで歩いているのに、こんなに近くにいるのに、どうしてか遠く感じるのが、さびしい。
隣で、澄んだ歌声が聞こえた。
「……とーりゃんせ、とおりゃんせ」
(こーこはどーこのほそみちじゃ)
「ちーっととおしてくだしゃんせ」
(ごようのないもの とおしゃせぬ)
少女が歌うと、誰かが木霊のように返してくる。
「このこのななつの おいわいに」
(おふだをおさめに まいります)
「いきはよいよい」
(かえりはこわい)
「こわいながらも とーおーりゃんせ」
(とおりゃんせ……)
ふたつの歌声が途絶えた。
「近道だ。天神様の細道を行けば早く帰れる」
暗闇でもぼぅっと光る小径が、蔦が絡み合って、トンネルのような通路になってずっと向こうまで続いていた。