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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
9/12

第9話 月影高等学院の裏課程

 午前零時の一分前、帝都月影高等学院は息を止めた。


 それまで教室には混乱があった。


 倒れた椅子。床に散らばったプリント。御門サエの指示。生徒たちの足音。リツの制止の声。泣き出したミオ。床から剥がれたミオの影。そして、ルナの足元から立ち上がりかけていた、自分ではない少女の形をした影。


 だが、そのすべてが、ある瞬間に薄くなった。


 音が遠ざかったのではない。


 世界の方が、音を置き去りにして切り替わった。


 教室の時計が、午前零時を示す。


 秒針が頂点で止まった。


 カチリ、という小さな音がした。


 それは時計の音ではなかった。


 鍵が開く音だった。


 校舎全体が、深い場所で施錠を解かれる音。


 蛍光灯が一斉に消える。


 窓の外にあったはずの夜の中庭も、向かいの校舎の灯りも、カミハラ区の街明かりも消えた。硝子の向こうに映っているのは、外の景色ではない。ただ、黒い面だった。黒い紙を窓の向こうに貼ったように、光も距離も奥行きも失われている。


 床が軋んだ。


 机の脚が、少しだけ影に沈む。


 黒板の表面を、白い文字列が走った。


 深夜課程、出席確認を開始します。


 それは校内放送の声ではなかった。


 黒板そのものが書いたような、乾いた文字だった。


 ルナは動けなかった。


 目の前の教室は、さっきまでの夜間部の教室ではない。


 壁の色も、机の配置も、黒板も、教師用の机も同じはずなのに、すべてが少しずつ違っていた。机の木目は黒く滲み、椅子の脚は影の中へ沈み、掲示板の紙は白紙になっている。夜間部の掲示物――住居支援、義体メンテナンス、身元相談、機械人形同伴申請――それらの文字が消え、代わりに別の文字が浮かび上がっていた。


 影識別番号。

 代用人格適性。

 義体転写率。

 記録核保存状態。

 所有者不明個体。

 本名消去処理。

 出席区分、本人不在。

 出席区分、影のみ。


 教室の席には、生徒たちが座っているように見えた。


 いや、座っていない。


 そこにあるのは、人間の形をした影だった。


 ある席には、黒い人影だけが座っている。顔はない。制服の輪郭だけがある。別の席には、義体の腕だけが机に置かれ、まるで授業を受けるように指先を動かしていた。後ろの席には、ひび割れた記録核が一つ、教科書の上に載っている。窓際には、機械人形の頭部外装だけが置かれ、青紫の人工眼が瞬きもせず黒板を見ていた。


 生徒ではない。


 部品だ。


 影だ。


 記録だ。


 それなのに、教室はそれらを“出席者”として扱っている。


 ルナの足元で、自分ではない少女の影が揺れていた。


 ミオの影は完全に立ち上がっている。


 ミオ本人は床に座り込み、両手で口元を押さえて泣いていた。リツはルナとミオの間に立とうとしている。だが、床に走る黒い線が彼の足を何度も止めていた。


「何だよ、これ……」


 リツの声がかすれた。


「深夜課程」


 ルナは小さく言った。


 自分で言ったのに、その言葉がひどく冷たく感じた。


「これが……」


 リツは教室を見回した。


「これが、学校かよ」


 答えたのは、教壇に立つ男だった。


「学校ですよ」


 夜羽先生がいた。


 いつからいたのか、誰にもわからない。


 黒板の前、教卓の横。夜間部で見せていた柔らかな笑顔を浮かべ、片手には出席簿を持っている。白いチョークではなく、黒い万年筆を持っていた。紙に文字を書くたび、黒板に白い文字が浮かぶ。


「ただし、昼の学院でも、夜間部でもありません。帝都月影高等学院・深夜課程。正式には存在しない教室です」


 リツが夜羽を睨んだ。


「夜羽先生……あんた、本当に」


「先生ですよ、月城くん」


 夜羽は穏やかに笑った。


「今夜も授業を始めましょう」


「ふざけんな」


「ふざけてはいません。深夜課程の授業は、昼や夜よりも実用的です。社会適応などという柔らかな言葉ではなく、帝都で本当に必要になる技術を教えます」


 夜羽は黒板に文字を書いた。


 第一講義、身代わり実践論。


 文字が浮かぶ。


 続けて、第二講義。


 本名秘匿と記録上の生存。


 第三講義。


 影を本体の代わりに動かす方法。


 第四講義。


 記録だけで人間を作る方法。


 ルナの指先が冷たくなった。


 機械人形なのに。


 温度制御は正常なはずなのに。


 自分の内部のどこかが、凍るように冷えていく。


「昼の学院は、帝都の未来を育てる場所です」


 夜羽は、いつもの授業のように話し始めた。


「夜間部は、行き場のない若者を受け入れる場所です。では、深夜課程は何か」


 彼は教室を見渡した。


「行き場のない影に、使い道を与える場所です」


 ミオが震えた。


「やめて……」


「影山ミオさん。あなたは、この授業の中心にいるべき生徒です」


「やめて!」


「聞かなければ、あなたは自分の影に名前を奪われるだけです」


 夜羽の声は優しかった。


 優しいからこそ、残酷だった。


 彼はリツへ視線を移す。


「月城リツくん。あなたもです」


「俺?」


「ええ。あなたは影山奨学生として、複数回の適性検査を受けていますね」


「健康診断だって聞いてた」


「健康も重要です。身代わりは、健康でなければ長持ちしません」


 リツの顔から血の気が引いた。


「何だよ、それ」


 夜羽は出席簿を開いた。


 黒板にリツの名前が浮かび上がる。


 月城リツ。

 旧支援登録名、影山リツ。

 出身、〈ホーム〉周辺保護区。

 家族関係、希薄。

 保証人、不安定。

 義体適性、中。

 魔導適性、低。

 影干渉適性、高。

 身代わり運用適性、当主補助影候補。


 リツはそれを見上げた。


 自分のことなのに、知らない言葉で書かれた自分。


 その異様さに、彼はしばらく声を出せなかった。


「……何だよ、当主補助影候補って」


「影山家には、表へ出る当主の影が必要です。顔を完全に同じにするには時間も費用もかかりますが、影の癖、間合い、恐怖への反応、従順性、逃走傾向は若い頃から測れます。あなたは非常に良い数値を出していました」


「ふざけるな」


「ふざけていません」


「俺は、学費を出してもらってただけだ。夜間部に通って、仕事して、卒業して、それで……」


「卒業後は、影山グループ関連施設へ進路支援の名目で引き取られる予定でした」


 リツは一歩下がった。


 床の影が、靴底にまとわりつく。


「俺に、何をさせる気だった」


「影山雄蔵系列の補助影。あるいは予備人格の外部行動支援。表に出る個体が不安定になった時、周囲の影として動く役割です」


「人間の仕事じゃねえだろ、それ」


「帝都には、人間でなくてもできる仕事が多い」


 夜羽は微笑んだ。


「そして、人間だからこそ都合のよい仕事もある」


 リツの手が震えていた。


 怒りか。


 恐怖か。


 その両方か。


 彼は夜羽へ殴りかかろうとした。


 だが床から伸びた黒い線が足首に絡みつき、彼の身体を止めた。リツは膝をつきかけ、歯を食いしばって踏みとどまる。


「リツさん!」


 ルナが声を上げる。


「来るな!」


 リツは怒鳴った。


 ルナは足を止めた。


 リツは、初めて見る顔をしていた。


 いつもの眠そうな皮肉屋ではない。夜間部の説明役でもない。〈ホーム〉出身の少年が、自分の知らないところで値踏みされ、進路という名の檻に入れられていたと知った顔。


「……俺は、奨学生じゃなかったのかよ」


 声は低かった。


「俺は、助けてもらってたんじゃなかったのかよ」


 夜羽は静かに答える。


「助けられていましたよ」


「これのどこが」


「学費は出た。食券も出た。住居支援も受けた。夜間部へ通えた。君がここまで生き延びるために、影山基金の金は確かに役立った」


「その代わりに、俺の影を測ってた」


「救済と選別は、同じ場所に置けるのです」


 リツは夜羽を睨んだ。


「最低だな」


「最低でも、機能します」


 その言葉に、ルナの胸が痛んだ。


 機能する。


 役に立つ。


 使える。


 価値がある。


 その言葉たちは、いつも人の形を削っていく。


 夜羽はミオへ視線を戻した。


「次は、影山ミオさん」


「いや……」


 ミオは首を振った。


「わたしは聞きたくない」


「聞かなければ、影が代わりに答えます」


 夜羽が黒板に万年筆を向ける。


 ミオの記録が浮かぶ。


 影山ミオ。

 旧名、複数。

 血縁照合、影山雄蔵系列適合。

 親権記録、封鎖。

 本人出席、夜間部。

 影出席、深夜課程。

 器適性、最上位。

 用途、影継承器。


 ミオは両耳を塞いだ。


「違う……」


 夜羽の声は、淡々としていた。


「あなたは影山雄蔵の血縁者です。ただし、娘として守られたわけではありません。影山家に必要だったのは、血ではなく、影を受け入れる器でした」


「違う!」


「あなたの影が勝手に歩くのは、影山家の本体が、あなたの影を通じて外へ出ようとしているからです」


 教室の影が揺れた。


 ミオの足元に立つ影が、背筋を伸ばす。


 顔のない黒い輪郭。


 それなのに、笑っているように見えた。


「お父様が呼んでいる」


 影が言った。


 ミオは泣きながら叫ぶ。


「わたしは、お父様の影じゃない!」


 その瞬間、ミオの影が完全に分離した。


 床から剥がれ、ミオの身体から離れる。


 形はミオそのものだった。


 だが、立ち方が違う。


 ミオ本人は震え、涙を流し、椅子にしがみついている。影のミオは、背筋を伸ばし、顎を上げ、冷たい威厳をまとっていた。


 影が口を開く。


「おまえは器だ」


 声はミオのものではない。


 古い男の声。


 あるいは、何人もの影山雄蔵の声が重なった声。


「影山の名を継ぐための、薄い皮だ」


 ミオは息を呑んだ。


 影は続ける。


「泣くな。器が水をこぼすな。名を受け入れろ。影山を受け入れろ。おまえの顔も、声も、血も、影も、そのために残された」


「嫌……」


「嫌ではない。選択権はない」


「嫌!」


 ミオの叫びで、教室の窓が震えた。


 黒い窓の向こうに、何かが映る。


 庭ではない。


 街でもない。


 大量の顔が映っていた。


 影山雄蔵の顔。


 一つ、二つ、三つ。


 年齢の違う顔。眠っている顔。笑っている顔。泣いている顔。記者会見で話す顔。病院のベッドで横たわる顔。培養槽の中で目を閉じる顔。


 そのすべてが、窓の黒に浮かび、教室の中を見ていた。


 リツが呟く。


「気持ち悪……」


 ルナは、自分の影を見た。


 自分ではない少女の影。


 まだ足元から完全には離れていないが、いつでも立ち上がれるように揺れている。


 夜羽がルナへ向いた。


「そして、ルナ」


 彼は少しだけ笑った。


「君は、自分の記録を見たいでしょう」


「……見たくありません」


「見ない方がよい記録ほど、人は見てしまうものです」


「わたくしは」


「怖いのですか」


 ルナは答えられなかった。


 怖い。


 とても怖い。


 記録を見れば、自分が何のために作られたのか、また突きつけられる。月影試作零号。失敗作。誰かの影を入れるための器。登録名ではない名前。


 それでも、見なければ、この恐怖はずっと足元に残る。


 知らないまま、自分の影を怖がり続ける。


 夜羽が黒板に万年筆を向けた。


 ルナの名前が浮かんだ。


 ルナ。

 現行呼称。


 その下に、別の文字が浮かぶ。


 月影試作零号――不一致。


 ルナは目を見開いた。


 不一致。


 月影試作零号ではない。


 では、自分は何なのか。


 黒板の文字が書き換わる。


 LUNA-00 影代用人格実験機。

 登録区分、月影試作系列派生個体。

 用途、影代用人格受容。

 所有者、未登録。

 保護責任者、未設定。

 記録核、空白領域あり。

 感情反応、過剰。

 自己名乗り反応、異常増幅。

 運用評価、保留。

 処遇、回収対象。


 ルナは文字を見つめた。


 LUNA-00。


 アルファベットと数字。


 登録名。


 実験機。


 誰かの影を入れるための器。


 誰かの代わりになるための人形。


 自分の名前が、そこにはなかった。


 いや、ルナという響きはある。


 だがそれは、ルナではなく、LUNA-00。


 型番だった。


 記録名だった。


 製造時に貼られたラベルだった。


「違います……」


 ルナの声は、小さかった。


 夜羽は優しく言う。


「何が違うのです」


「わたくしは」


 言いかけて、詰まる。


 わたくしは、ルナです。


 それは何度も言ってきた。


 でも今、黒板の文字がその言葉を押し潰してくる。


 自分の感情は本物なのか。


 ルルトの役に立ちたいと思ったことは、本当に自分のものなのか。


 彼の部屋へ帰りたいと思ったことは、帰巣機能なのか。


 バッテリーをもらって嬉しかったことは、所有者への依存反応なのか。


 リツに名前を聞かれて嬉しかったことは、自己名乗り反応の異常増幅なのか。


 ミオを助けたいと思ったことは、影を持つ器同士の共鳴なのか。


 全部、設計された反応なのか。


 全部、誰かが作った影なのか。


 ルナの足元で、別の少女の影が立ち上がった。


 完全に。


 その影は、ルナより少し幼く見えた。


 顔はない。


 だが、泣いているように見える。


 そして、ルナを見ていた。


 ルナは後ずさった。


「来ないで……」


 自分の影に向かって、そう言った。


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 この影は、怖い。


 けれど、拒むことがひどく残酷な気もした。


 影は何も言わない。


 ただ、手を伸ばす。


 何かを返してほしいように。


 何かを思い出してほしいように。


 リツが床の拘束を振り切ろうとする。


「ルナ!」


 ルナは彼の声を聞いた。


 リツ。


 彼は、自分を「ルナ」と呼んだ。


 影山の名簿でも、回収部隊の端末でも、研究員の記録でもなく。


 ルナ。


 呼ばれているだけではない。


 名乗ればいい。


 そう言ってくれた人。


 その声で、ルナは少しだけ息を吸った。


 必要のない呼吸。


 でも、今は必要だった。


「わたくしの感情が」


 ルナはゆっくりと言った。


「作られたものかどうか、わたくしにはわかりません」


 夜羽は黙って聞いている。


 ミオの影も、少女の影も、動きを止めていた。


「ルルト様の役に立ちたいと思う気持ちが、設計されたものかもしれません。ミオさんを助けたいと思う気持ちも、リツさんに名前を呼ばれて嬉しかったことも、全部、何かの反応なのかもしれません」


 ルナの声は震えていた。


 それでも、続けた。


「ですが、今、怖いのはわたくしです」


 少女の影が、揺れる。


「今、嫌だと思っているのは、わたくしです」


 ミオが顔を上げる。


「今、ここから出たいと思っているのも、わたくしです」


 夜羽の表情が、ほんの少し変わった。


 彼は興味深そうに目を細める。


「自己名乗り反応の強化。実に興味深い」


「記録しないでください」


「記録は残ります」


「なら、残してください」


 ルナは黒板を見た。


「わたくしが嫌だと言ったことを、残してください」


 教室が、微かに震えた。


 黒板の文字が乱れる。


 LUNA-00の記録の下に、新しい行が浮かんだ。


 本人拒否申告、継続中。


 夜羽が笑った。


「厄介ですね、君は」


「よく言われます」


 その言い方は、少しだけルルトに似ていた。


 リツが小さく笑いかけ、すぐに苦痛で顔を歪める。


 ミオは涙を拭わず、自分の影を睨んだ。


「わたしも……嫌」


 影のミオが振り返る。


「器に拒否権はない」


「ある」


 ミオは立ち上がった。


 足は震えている。


 声も震えている。


 けれど、立った。


「わたしは、お父様の影じゃない。影山の器でもない。薄い皮でもない」


「ならば何だ」


 影が問う。


 ミオは息を吸った。


「わたしは、ミオ」


 たったそれだけ。


 名字もない。


 家系もない。


 正規の記録もない。


 けれど、それが彼女の名乗れる名前だった。


 影が、初めて黙った。


 夜羽が手を叩いた。


 一度。


 二度。


 三度。


「素晴らしい。やはり、夜間部は優秀な素材を集めている」


「素材じゃない!」


 リツが叫んだ。


「おまえ、まだそんな言い方すんのかよ!」


「教師は、生徒の可能性を評価するものです」


「可能性じゃねえ。値札つけてるだけだろ!」


 夜羽は微笑む。


「値札がつくということは、価値があるということです」


「最低だな」


「最低でも、機能します」


「その言い方、二度目だぞ」


「重要なことは反復します。授業ですから」


 その時、教室の後ろの扉が開いた。


 開いたというより、影を縫われた。


 黒い針が扉の影へ突き刺さり、内側から外側へ縫い目を作る。黒い糸が引かれ、扉の輪郭が裂けた。ダーククロウで切り裂く荒々しさとは違う。もっと精密で、もっと不気味な開き方だった。


 裂け目の向こうから、ルルトが入ってきた。


 黒いコート。


 白銀の髪。


 胸元には包帯。その下で、十字刻印がまだ痛々しく歪んでいる。顔色は悪い。唇も、いつもの紅ではない。だが、彼は立っていた。


 右手に持っているのは、黒い爪ではない。


 細い針だった。


 影縫いの針。


 影山家から持ち出した古い手術道具。


 その針の先には黒い糸が通っている。


 夜羽が笑った。


「殺し屋が学校に来るとは」


 ルルトは教室を見渡した。


 影だけの生徒。


 義体の部品。


 記録核。


 黒板の名簿。


 ミオから分離した影。


 ルナの足元に立つ少女の影。


 床に拘束されたリツ。


 そして教壇の夜羽。


 彼は少しだけ肩をすくめた。


「ここが学校なら、出席簿を見に来ただけだよ」


 夜羽は目を細める。


「深夜課程は部外者立入禁止です」


「生徒を勝手に出席させる学校に、部外者という概念があるのかな」


「あなたは負傷している。影縫いの針を持っていても、ここでは長く持ちませんよ」


「長居する気はない」


 ルルトは黒板へ歩いた。


 床の影が彼の足首へ絡みつこうとする。


 彼は針を軽く落とした。


 黒い糸が床の影を縫い止める。


 絡みつこうとした影が、逆にその場で固定された。


 リツが目を見開く。


「何だ、それ……」


「影の手術道具だよ」


 ルルトは淡々と言った。


「本来は、人に使うものじゃない」


「じゃあ何に使うんだよ」


「人を人でなくすため、かな」


 教室の空気が重くなる。


 ルルトは黒板の出席簿を見た。


 そこには、深夜課程の名簿がずらりと並んでいる。


 影識別番号。

 影山雄蔵系列。

 影山リツ。

 影山ミオ。

 LUNA-00。

 月影試作零号。

 記録核保存個体。

 本人不在。

 影のみ。


 そして、最後の行。


 その名を見て、ルルトの目が止まった。


 影山源三郎。


 出席状態――影のみ。


 教室の中が、さらに静かになった。


 リツが呟く。


「源三郎……?」


 ミオが震える。


 夜羽の笑みが深くなる。


 ルナは黒板の文字を見た。


 影山源三郎。


 出席状態、影のみ。


 それはつまり、何を意味するのか。


 源三郎本人はどこにいるのか。


 ルルトが会った老人は、本当に本体だったのか。


 影山家に本体は残っているのか。


 ルルトは、黒板の文字を見つめたまま、静かに笑った。


「なるほど」


 その声は、ぞっとするほど冷えていた。


「事件は複雑じゃない。複雑に見えるよう、犯人が努力しただけだ」


 夜羽が言った。


「では、答えは見えましたか」


「まだ半分だね」


 ルルトは影縫いの針を指先で回した。


「だが、少なくとも一つわかった」


「何でしょう」


「この学校の出席簿は、死人より嘘つきだ」


 黒板の文字が、ざわりと揺れた。


 まるで、出席簿そのものが傷ついたように。


 深夜課程の教室で、影だけの生徒たちが一斉にルルトの方を向いた。


 授業は、まだ終わらない。


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