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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
10/12

第10話 影のない本体

 深夜課程の黒板には、嘘が整然と並んでいた。


 嘘は、乱れているとは限らない。


 むしろ、よくできた嘘ほど整っている。


 氏名。

 登録番号。

 出席状態。

 用途。

 適性。

 所有者。

 保護責任者。

 進路予定。

 影識別番号。


 それらはすべて、学校の出席簿の形をしていた。


 だが、そこに書かれているものは、生徒の名前ではない。名前に見える札。人間に見える記録。人格に見える機能。救済に見える選別。授業に見える手術の準備。


 帝都月影高等学院・深夜課程。


 存在しない教室。


 窓の外には、外の景色が映っていない。黒い硝子には、教室の内側だけが映っている。ミオの影。ルナの影。床に拘束されたリツ。教壇の夜羽。黒板の前に立つルルト。


 そして、出席簿の最後の一行。


 影山源三郎。

 出席状態――影のみ。


 その文字を見た瞬間、教室の空気がもう一段冷えた。


 リツは、まだ床から伸びる黒い線に足首を縛られている。けれど視線だけは黒板に釘付けだった。


「影のみって……どういう意味だよ」


 答える者はいない。


 ミオは口元を押さえたまま、小さく震えている。彼女から分離した影は、彼女の横に立ち、冷たい姿勢で黒板を見ていた。


 ルナの足元には、別の少女の影が立っている。


 それはルナではない。


 けれどルナから剥がれたものだった。


 幼い少女の輪郭。簡素な実験着のような服。細い肩。顔はない。泣いているのか、呼んでいるのか、ただそこに残されていた。


 夜羽先生は、教壇で微笑んでいる。


 余裕のある笑み。


 だがその目だけは、ルルトの指先にある影縫いの針を見ていた。


 ルルトは黒板の前に立ったまま、しばらく黙っていた。


 黒いコートの下、胸元の包帯がわずかに赤黒く滲んでいる。影の手術道具で応急処置はした。だが、完治にはほど遠い。胸元の十字刻印にはまだ黒い傷が残り、足元に落ちる影も、縫い目のような黒糸でかろうじて繋がれている。


 それでも彼は立っていた。


 いつものように。


 少し退屈そうに。


 少し芝居がかった優雅さを纏って。


 死にかけているようには見えない。


 だが、ルナにはわかる。


 無理をしている。


 ルルト様は、無理をしている。


 ルナはそう思い、自分でも驚いた。


 以前なら、彼の傷を見ても「修復中」と判断しただろう。今は違う。痛そうだと思う。無理をしてほしくないと思う。止めたいと思う。


 それが設計された感情なのか、自分のものなのか。


 まだわからない。


 けれど、その感情は今もここにある。


 ルルトは、黒板を見上げた。


「影山源三郎。出席状態、影のみ」


 彼は文字を読む。


「実に、正直な出席簿だ」


 夜羽が笑う。


「嘘つきだとおっしゃったばかりでは?」


「嘘つきは、時々本当のことを言う。だから厄介なんだよ」


「では、その一行から何がわかりますか」


「まず、源三郎は本体ではない」


 教室がざわめいた。


 影だけの生徒たちが、一斉に身じろぎする。義体の部品が机の上で微かに震え、記録核が青い光を灯した。


 リツが声を上げる。


「待てよ。源三郎って、影山のじいさんだろ? ルルト、会ったんじゃないのかよ」


「会ったよ」


「じゃあ本体じゃないって何だよ」


「会ったことと、本体であることは別問題だ」


「またそういう面倒な言い方を」


「面倒な事件だからね」


 ルルトは黒板から目を離さない。


「影山家は長年、当主本人を表に出さず、影武者を立ててきた。危険な会合、契約、記者会見、政治家との交渉、暗殺される可能性のある場所。そこへ本体の代わりに影を送る。最初は護身だった。源三郎の言葉通りならね」


 ミオの影がわずかに笑った。


「影は本体を守る」


「そう。だが、守るための影が増えすぎた」


 ルルトは黒板に影縫いの針を向けた。


 針の先が、出席簿の複数の行をなぞる。


 影山雄蔵系列。

 影山雄蔵、公式登録。

 影山雄蔵、代理個体。

 影山雄蔵、契約権限保持。

 影山雄蔵、記録統合済。

 影山雄蔵、影出席。

 影山ミオ、器適性。

 LUNA-00、影代用人格実験機。

 影山源三郎、影のみ。


「影武者は、ただ立っているだけでは役に立たない。署名が必要だ。声紋が必要だ。指紋、網膜、記憶、癖、過去の写真、取引先との会話、恐怖への反応、沈黙の長さ。社会が本人だと認めるための記号が必要になる」


「記号……」


 ルナが呟いた。


 ルルトは少しだけ彼女を見る。


「そう。人間は、思っているほど人間を見ていない。顔を見る。名前を見る。登録を見る。端末の認証を見る。過去の発言を見る。契約書の署名を見る。全部そろっていれば、目の前の相手が誰かなんて、案外疑わない」


 リツが歯を食いしばる。


「それが、影山雄蔵か」


「最初は一人だったのかもしれない。源三郎の息子として生まれた、本物の影山雄蔵。だが、その本物を守るために代役を立てた。代役を守るために別の代役を立てた。記録を補強し、写真を作り、病歴を作り、卒業アルバムを整え、会見を行い、契約書に署名させた。やがて、どの記録が本体のものか、どの影が誰を守っているのか、誰にもわからなくなった」


「じゃあ、本物の雄蔵はどこにいるんだよ」


「たぶん、もういない」


 その言葉は、教室の床に冷たく落ちた。


 ミオが震える。


「いない……?」


「少なくとも、一人の人間としてはね」


 ルルトは黒板の文字を見た。


「本物の影山雄蔵は、一人の人間ではない。複数の代役、複数の記録、複数の影、複数の契約、義体、機械人形、血縁者の影。そして、影山グループという企業が持つ権限。それらに分散された“当主システム”だ」


 夜羽の笑みが、少しだけ深くなった。


「続けてください」


「嬉しそうだね」


「優秀な生徒の回答を聞く教師の気分です」


「ボクは生徒ではないよ」


「では、優秀な侵入者の回答を」


「趣味が悪い」


 ルルトは針を下ろした。


「影山雄蔵は人間ではない。人間の形をして現れることはある。声も出す。署名もする。記者会見にも出る。だが、その中身は一人の人格ではない。影山グループが作り上げた企業人格だ」


 ルナはその言葉を内側で反芻した。


 企業人格。


 人間ではない人格。


 名前と権限と記録と影によって成立するもの。


 LUNA-00。


 影代用人格実験機。


 自分もまた、誰かの人格を入れるために作られた。


 人間ではない器。


 けれど、自分は今、ここで怖がっている。


 怖がる器は、器なのか。


 それとも、もう別のものなのか。


 ルルトは続けた。


「源三郎は、それを止めたい。少なくとも、止めたいと思っている影を持っている」


「影を持っている?」


 リツが聞き返す。


「屋敷で会った源三郎も、本体ではない」


 ミオが息を呑んだ。


 ルルトは黒板の最後の一行を示した。


「出席状態、影のみ。つまり、深夜課程に登録されている源三郎は影だ。本体が欠席しているのではない。そもそも、本体が出席できない状態にある」


「死んでるってことか?」


「可能性はある。だが、死体があるとは限らない。源三郎もまた、長く影を使いすぎた。自分の意思、後悔、権限、依頼、殺意。それらを影へ預けすぎた。屋敷でボクに道具を渡した老人は、源三郎本人の形をした影だったのかもしれない」


「じゃあ、あの依頼は?」


「本体の依頼か。影の依頼か。あるいは、影山というシステムを終わらせたいと願う、古い後悔の残り香か」


 ルルトは少しだけ笑った。


「実に嫌な依頼人だ。死んでいるのか、生きているのか、影なのか、本人なのか、請求書を誰に出せばいいのかわからない」


「そこかよ」


 リツが言った。


 だが、その声にはいつもの勢いがなかった。


 彼も理解し始めている。


 これは、誰か一人を殴れば終わる事件ではない。


 影山雄蔵を殺せば終わるわけではない。


 源三郎を信じればよいわけでもない。


 影山家は、もう人間の家ではない。


 記録と影と契約で動く、企業の怪物になっている。


 夜羽が拍手した。


 乾いた音だった。


「素晴らしい。ほとんど正解です」


「ほとんど、か」


「一点だけ、訂正があります」


「どうぞ」


「私は、影山家の本体を復活させようとしているのではありません」


 夜羽の声が、少し変わった。


 教師の声ではない。


 管理者の声。


 あるいは、研究者の声。


「本体など、もう必要ありません。古い血筋、老いた権力、腐った屋敷、死んだ当主の記憶。そんなものに縋る必要はない。影山雄蔵という企業人格は、すでに人間の身体を超えている。ならば必要なのは、次の器です」


 夜羽はミオを見た。


 ミオの影が、すっと背筋を伸ばした。


 ミオ本人は後ずさろうとする。


 だが、足元から伸びた影に捕まり、動けない。


「ミオさんは、若い。血縁適合も高い。影受容性も最上位。深夜課程の出席記録も安定している。彼女の影を使えば、影山雄蔵という企業人格は、新しい器で運用できます」


「運用……?」


 ミオの声が震えた。


 夜羽は優しく微笑む。


「あなたがすべてを背負う必要はありません。あなたは器になればいい。人格は影山が用意します。記録も、権限も、判断も、署名も、すべてこちらが整える」


「嫌……」


「怖がらなくていい。あなたが苦手なことは、すべて影が代わりに行います。人前に立つことも、判断することも、命令することも。あなたはただ、そこにいればいい」


「それは、生きてるって言わない……」


「生存の定義は、時代によって変わります」


 ミオの影が彼女へ近づいた。


 影の腕が、ミオの肩へ伸びる。


 取り込むつもりだ。


 いや、戻るつもりなのかもしれない。


 影が本体へ戻るのではない。


 影が本体を飲み込み、器として使うために。


 ルナは動こうとした。


 だが、足元の少女の影が彼女の前に立つ。


 まるで道を塞ぐように。


 あるいは、行かないでと止めるように。


 ルナの身体が固まった。


 自分も器だ。


 LUNA-00。


 影代用人格実験機。


 誰かの影を入れるためのもの。


 ミオを助けたい。


 でも、それは本当に自分の気持ちなのか。


 器が器に反応しているだけではないのか。


 誰かが作った共感回路ではないのか。


 自分の中にある「助けたい」は、命令ではないとどう証明できるのか。


 証明できない。


 証明できないから、動けない。


 リツが叫んだ。


「ルナ!」


 ルナは彼を見る。


 リツはまだ床の影に足を縛られていた。汗をかき、歯を食いしばりながら、それでも上体を起こしている。


「おまえが何のために作られたかなんて知らない!」


 その声は、教室に響いた。


「俺だって、自分が何のために支援されてたのか知らなかった。影武者向きだとか、当主補助影だとか、勝手に決められてた。ミオだって、器だとか薄い皮だとか言われてる。でもさ」


 リツは床に爪を立てる。


 影の線が彼の足首をさらに締める。


 それでも声を張った。


「今ミオを助けたいって思ってるなら、それはおまえのものだろ!」


 ルナは、息を吸った。


 必要のない呼吸。


 けれど、今度は深く吸った。


「わたくしの、もの」


「そうだよ!」


「設計された感情かもしれません」


「だったら何だよ!」


 リツは怒鳴った。


「俺たちだって、親とか街とか学校とか金とか、いろんなもんに作られてるだろ! でも、今何をするかまで全部そいつらのものにするなよ!」


 ルナの中で、何かが止まった。


 いや、止まったのではない。


 揃った。


 作られたものかもしれない。


 でも、今ここで動かすのは自分だ。


 怖さも。


 嫌だと思うことも。


 助けたいと思うことも。


 証明できないなら、選ぶしかない。


 ルナは足元の少女の影を見た。


 その影は、まだ泣いているようだった。


「ごめんなさい」


 ルナは小さく言った。


「あなたが誰なのか、わたくしにはまだわかりません。あなたがわたくしの過去なのか、別の誰かなのか、失敗した零号なのか、それもわかりません」


 影は動かない。


「ですが、今、わたくしはミオさんを助けます」


 ルナは一歩踏み出した。


 少女の影をすり抜ける。


 影がルナの身体に触れる。


 冷たかった。


 けれど、痛くはなかった。


 むしろ、悲しいほど懐かしい。


 それでも、ルナは止まらなかった。


 ミオの影が、ミオ本人を抱き込もうとしている。


 ルナは手を伸ばした。


 右手首の固定具が軋む。


 まだ完全には治っていない。無理に動かせば、また壊れる。


 それでも、伸ばした。


「ミオさん!」


 ミオが顔を上げる。


 泣き濡れた目で、ルナを見る。


「ルナ……」


「手を」


「でも、わたしの影が」


「ミオさんの手を」


 ミオは震えながら、手を伸ばした。


 ルナはその手を掴む。


 機械人形の手と、人間の手。


 温度が違う。


 震え方も違う。


 けれど、握った。


 ミオの影が唸る。


「器が器を拒むな」


 ルナは影を見た。


「わたくしは器かもしれません」


 声はまだ震えている。


 でも、逃げなかった。


「ですが、空の器ではありません」


 ミオがルナの手を握り返した。


「わたしも……空じゃない」


 ミオの影が、歪んだ。


 夜羽が微笑みを消した。


「感情による抵抗反応。やはり、未成熟な器は扱いにくい」


「子どもを道具にする大人が、子どもらしさに文句を言うのかい」


 ルルトが言った。


 夜羽は彼へ向き直る。


「あなたは、彼女たちを救えると思っているのですか」


「救済には興味がない」


「では、なぜ邪魔をする」


「邪魔だから」


 ルルトは影縫いの針を構えた。


「君が、事件の邪魔だ」


 夜羽の影が広がった。


 深夜課程全体が、彼の足元から黒く染まる。


 机の下の影。


 椅子の影。


 影だけの生徒たち。


 窓の黒。


 黒板の文字の影。


 それらが一斉に夜羽へ繋がっていく。


 彼はこの教室の教師であるだけではない。


 管理者。


 契約者。


 深夜課程の出席簿に接続し、生徒たちの影を管理する者。


 夜羽が片手を上げる。


 影が無数の刃に変わった。


 細い刃。


 曲がった刃。


 縫い針のような刃。


 手術道具のような刃。


 それらが空中に浮かぶ。


「ルルトさん。あなたも影でしょう」


 夜羽は言った。


「殺し屋という役を与えられ、その役の中でしか生きられない。探偵のように真実を暴くと言いながら、最後には殺しで句読点を打つ。あなたは、自分の役から出られない」


 ルルトは否定しなかった。


「そうかもしれないね」


 その答えに、ルナは驚いた。


 夜羽も、ほんの少し眉を上げる。


「否定しないのですか」


「役というのは便利だ。殺し屋、探偵、教師、生徒、当主、器。名前をつければ、人はそこへ収まりやすくなる」


「では、あなたも同じです」


「そうかもしれない」


 ルルトは一歩進む。


 影の刃が降る。


 彼はダーククロウを使わない。


 代わりに、影縫いの針を床へ落とす。


 黒い糸が走り、一本目の刃の影を縫い止めた。刃そのものが空中で止まり、硝子のように砕ける。


 次の刃が肩へ来る。


 避けきれない。


 肉が裂ける。


 血が散る。


 再生は遅い。


 だが、ルルトは止まらない。


「だが、役を理解している者は」


 彼は二本目の針を投げた。


 夜羽の足元の影へ刺さる。


 夜羽が初めて表情を変えた。


「役の降り方も知っている」


 黒い糸が、夜羽の影から深夜課程の床へ伸びる契約線を浮かび上がらせた。


 それは無数にあった。


 夜羽の影と教卓。

 夜羽の影と出席簿。

 夜羽の影と黒板。

 夜羽の影と生徒たちの影。

 夜羽の影と影山基金の記録。

 夜羽の影と、深夜課程そのもの。


 糸ではない。


 契約線。


 影を管理する権限を示す黒い線。


 ルルトは、それを見て笑った。


「見えた」


 夜羽が後退する。


「やめなさい」


「教師が命令するには、少し遅い」


「それを切れば、深夜課程の制御が乱れます」


「乱れて困る授業には見えないね」


「生徒たちの影が暴走する!」


「すでにしている」


 ルルトは影縫いの針を構える。


 夜羽が刃を放つ。


 無数の影刃。


 ルルトは避けない。


 胸、腕、腹、太腿。


 影刃が彼を切る。


 血が落ちる。


 影の縫い目がほどけかける。


 それでも、彼の手はぶれなかった。


 針が走る。


 黒い糸が、夜羽の影と黒板を結ぶ契約線へ絡む。


 そして、切った。


 ぱん、と乾いた音がした。


 黒板の文字が乱れる。


 夜羽の顔から、余裕が消えた。


「やめろ」


 声が変わった。


 教師ではない。


 恐怖する人間の声だった。


 ルルトは二本目を切る。


 教卓との線。


 三本目。


 出席簿との線。


 四本目。


 影だけの生徒たちとの線。


 夜羽の影が揺れる。


 足元から剥がれ始める。


「やめろ!」


 夜羽が叫んだ。


 初めて、敬語が崩れた。


「私の制御権が、私の影が――」


「他人の影を扱う者は」


 ルルトは静かに言った。


「自分の影を失う覚悟くらい持つべきだ」


 最後の線を切る。


 夜羽の影が、床から剥がれ落ちた。


 落ちた、という表現が近い。


 通常、影は床に落ちているものだ。だが夜羽の影は、皮膚を剥がされるように、彼の足元からずるりと離れた。


 夜羽が悲鳴を上げた。


 影がない。


 彼の足元には、何もない。


 非常灯の赤い光が教室を照らしている。机にも椅子にも影がある。ルナにも、ミオにも、リツにも影がある。


 夜羽だけ、影がなかった。


 彼は両手を床へ伸ばす。


 剥がれた影を掴もうとする。


 だが影は、彼の手から逃げるように黒板の方へ滑っていく。


「私の……私の影が……」


 夜羽は震えていた。


 さっきまで他人を器と呼び、素材と呼び、記録として扱っていた男が、自分の影を失っただけで幼子のように怯えている。


 リツが荒い息を吐いた。


「ざまあみろって言いたいけど……怖えな、これ」


「言えばいい」


 ルルトは少し苦しそうに言った。


「倫理的には推奨しないが、気分は少し晴れる」


「じゃあ言う。ざまあみろ」


 リツの声は震えていたが、確かに言った。


 夜羽は聞いていない。


 自分の影を見ている。


 剥がれた影が、黒板の前で形を変え始めていた。


 夜羽の影ではなくなる。


 ミオの影も、ルナの影も、影だけの生徒たちも、教室の黒い窓に映った複数の顔も、すべてが黒板の前へ引き寄せられていく。


 ミオの身体が大きく震えた。


「来る……」


 ルナが彼女の手を握る。


「何が」


「お父様じゃない……もっと、たくさん……」


 黒板の文字がすべて消えた。


 代わりに、巨大な影が浮かび上がる。


 それは男の姿ではなかった。


 最初は人型に見えた。


 だが、すぐに崩れた。


 顔がいくつもある。


 影山雄蔵の顔。


 若い雄蔵。年老いた雄蔵。怯える雄蔵。笑う雄蔵。記者会見の雄蔵。培養槽の中の雄蔵。書類写真の雄蔵。加工された雄蔵。影だけの雄蔵。


 それらの顔が、重なり、ずれ、回転し、一つの顔になろうとして失敗している。


 声も一つではない。


 何人もの声が重なる。


 低い声。

 若い声。

 老人の声。

 電子処理された声。

 泣き声。

 命令口調。

 記者会見の朗読。

 契約書を読み上げる声。


 その背後には、無数の署名が浮かんでいた。


 影山雄蔵。

 影山雄蔵。

 影山雄蔵。

 影山雄蔵。


 すべて同じ名。


 だが、筆跡が違う。


 さらに、その下には企業印、政府認証、契約番号、株主議決権、医療登録、夜間部支援基金、所有権確認書、進路支援同意書。


 人間ではない。


 怪異でもない。


 企業と魔導と記録と影が作った、現代的な亡霊。


 影山雄蔵。


 いや。


 影山グループそのものが作り上げた、当主システム。


 それが、ミオの影を通じて教室へ現れた。


 ミオが悲鳴を上げる。


 影の一部が彼女へ伸びる。


 ルナは彼女の手を離さない。


 リツは拘束を引き千切ろうとする。


 夜羽は床に這いつくばったまま、自分の影を失った恐怖で震えている。


 ルルトは、一歩前へ出た。


 黒い影の異形が、複数の顔で彼を見た。


「ルルト」


 声が重なる。


「宵の明星」

「殺し屋」

「探偵」

「依頼未完了」

「契約不履行」

「影山源三郎の委託対象」


 ルルトは眉を上げた。


「よく喋る出席簿だ」


 異形は笑った。


 笑い声が、教室の壁を震わせる。


「本体など不要だ」


 複数の声が、一つの文章を作る。


「名と権限と影があれば、人間は成立する」


 ルナの胸が痛んだ。


 名。


 権限。


 影。


 それだけで成立する人間。


 なら、自分は何で成立しているのか。


 名前を名乗ったこと。


 嫌だと言ったこと。


 ミオの手を握ったこと。


 それは、成立の条件にならないのか。


 異形は続ける。


「顔は更新できる。声は再現できる。署名は移植できる。記録は追補できる。影は縫合できる。血縁は器になる。人格は運用できる。企業は継続する。個人は不要」


 リツが吐き捨てた。


「最悪だな」


 ミオは泣きながら首を振る。


「いや……いや……わたしは、そんなものにならない……」


 ルナはミオの手を強く握る。


「なりません」


 異形の一部がルナを見る。


「LUNA-00」

「影代用人格実験機」

「器」

「所有者未登録」

「回収対象」


 ルナの足元の少女の影が震えた。


 ルナも震えた。


 だが、目を逸らさなかった。


「わたくしは、ルナです」


 異形は笑う。


「登録名ではない」


「はい」


 ルナは答えた。


「登録名ではありません」


 自分で認めた。


 けれど、続けた。


「ですが、今、わたくしが名乗っている名前です」


 異形が少し揺れた。


 ルルトの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「上出来だ」


 彼はリボルバーを抜いた。


 怨霊呪弾。


 まだ身体は万全ではない。


 影の傷は痛む。


 雨のノイズはもうないが、深夜課程そのものが影の濁流だ。照準は普通の相手よりずっと難しい。


 だが、目の前にいるものは、撃つべき相手だった。


 人間ではない。


 単なる影でもない。


 名と権限と影だけで人間を名乗る、醜いシステム。


 ルルトは銃口を上げる。


「それは現代的だ」


 複数の影山雄蔵の顔が、一斉に彼を見る。


 ルルトは微笑んだ。


「実に、醜いほどに」


 銃口の奥で、怨霊呪弾が低く唸った。


 深夜課程の教室で、影山雄蔵という名の企業人格が、初めて一人の殺し屋に狙いを定められた。

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