第10話 影のない本体
深夜課程の黒板には、嘘が整然と並んでいた。
嘘は、乱れているとは限らない。
むしろ、よくできた嘘ほど整っている。
氏名。
登録番号。
出席状態。
用途。
適性。
所有者。
保護責任者。
進路予定。
影識別番号。
それらはすべて、学校の出席簿の形をしていた。
だが、そこに書かれているものは、生徒の名前ではない。名前に見える札。人間に見える記録。人格に見える機能。救済に見える選別。授業に見える手術の準備。
帝都月影高等学院・深夜課程。
存在しない教室。
窓の外には、外の景色が映っていない。黒い硝子には、教室の内側だけが映っている。ミオの影。ルナの影。床に拘束されたリツ。教壇の夜羽。黒板の前に立つルルト。
そして、出席簿の最後の一行。
影山源三郎。
出席状態――影のみ。
その文字を見た瞬間、教室の空気がもう一段冷えた。
リツは、まだ床から伸びる黒い線に足首を縛られている。けれど視線だけは黒板に釘付けだった。
「影のみって……どういう意味だよ」
答える者はいない。
ミオは口元を押さえたまま、小さく震えている。彼女から分離した影は、彼女の横に立ち、冷たい姿勢で黒板を見ていた。
ルナの足元には、別の少女の影が立っている。
それはルナではない。
けれどルナから剥がれたものだった。
幼い少女の輪郭。簡素な実験着のような服。細い肩。顔はない。泣いているのか、呼んでいるのか、ただそこに残されていた。
夜羽先生は、教壇で微笑んでいる。
余裕のある笑み。
だがその目だけは、ルルトの指先にある影縫いの針を見ていた。
ルルトは黒板の前に立ったまま、しばらく黙っていた。
黒いコートの下、胸元の包帯がわずかに赤黒く滲んでいる。影の手術道具で応急処置はした。だが、完治にはほど遠い。胸元の十字刻印にはまだ黒い傷が残り、足元に落ちる影も、縫い目のような黒糸でかろうじて繋がれている。
それでも彼は立っていた。
いつものように。
少し退屈そうに。
少し芝居がかった優雅さを纏って。
死にかけているようには見えない。
だが、ルナにはわかる。
無理をしている。
ルルト様は、無理をしている。
ルナはそう思い、自分でも驚いた。
以前なら、彼の傷を見ても「修復中」と判断しただろう。今は違う。痛そうだと思う。無理をしてほしくないと思う。止めたいと思う。
それが設計された感情なのか、自分のものなのか。
まだわからない。
けれど、その感情は今もここにある。
ルルトは、黒板を見上げた。
「影山源三郎。出席状態、影のみ」
彼は文字を読む。
「実に、正直な出席簿だ」
夜羽が笑う。
「嘘つきだとおっしゃったばかりでは?」
「嘘つきは、時々本当のことを言う。だから厄介なんだよ」
「では、その一行から何がわかりますか」
「まず、源三郎は本体ではない」
教室がざわめいた。
影だけの生徒たちが、一斉に身じろぎする。義体の部品が机の上で微かに震え、記録核が青い光を灯した。
リツが声を上げる。
「待てよ。源三郎って、影山のじいさんだろ? ルルト、会ったんじゃないのかよ」
「会ったよ」
「じゃあ本体じゃないって何だよ」
「会ったことと、本体であることは別問題だ」
「またそういう面倒な言い方を」
「面倒な事件だからね」
ルルトは黒板から目を離さない。
「影山家は長年、当主本人を表に出さず、影武者を立ててきた。危険な会合、契約、記者会見、政治家との交渉、暗殺される可能性のある場所。そこへ本体の代わりに影を送る。最初は護身だった。源三郎の言葉通りならね」
ミオの影がわずかに笑った。
「影は本体を守る」
「そう。だが、守るための影が増えすぎた」
ルルトは黒板に影縫いの針を向けた。
針の先が、出席簿の複数の行をなぞる。
影山雄蔵系列。
影山雄蔵、公式登録。
影山雄蔵、代理個体。
影山雄蔵、契約権限保持。
影山雄蔵、記録統合済。
影山雄蔵、影出席。
影山ミオ、器適性。
LUNA-00、影代用人格実験機。
影山源三郎、影のみ。
「影武者は、ただ立っているだけでは役に立たない。署名が必要だ。声紋が必要だ。指紋、網膜、記憶、癖、過去の写真、取引先との会話、恐怖への反応、沈黙の長さ。社会が本人だと認めるための記号が必要になる」
「記号……」
ルナが呟いた。
ルルトは少しだけ彼女を見る。
「そう。人間は、思っているほど人間を見ていない。顔を見る。名前を見る。登録を見る。端末の認証を見る。過去の発言を見る。契約書の署名を見る。全部そろっていれば、目の前の相手が誰かなんて、案外疑わない」
リツが歯を食いしばる。
「それが、影山雄蔵か」
「最初は一人だったのかもしれない。源三郎の息子として生まれた、本物の影山雄蔵。だが、その本物を守るために代役を立てた。代役を守るために別の代役を立てた。記録を補強し、写真を作り、病歴を作り、卒業アルバムを整え、会見を行い、契約書に署名させた。やがて、どの記録が本体のものか、どの影が誰を守っているのか、誰にもわからなくなった」
「じゃあ、本物の雄蔵はどこにいるんだよ」
「たぶん、もういない」
その言葉は、教室の床に冷たく落ちた。
ミオが震える。
「いない……?」
「少なくとも、一人の人間としてはね」
ルルトは黒板の文字を見た。
「本物の影山雄蔵は、一人の人間ではない。複数の代役、複数の記録、複数の影、複数の契約、義体、機械人形、血縁者の影。そして、影山グループという企業が持つ権限。それらに分散された“当主システム”だ」
夜羽の笑みが、少しだけ深くなった。
「続けてください」
「嬉しそうだね」
「優秀な生徒の回答を聞く教師の気分です」
「ボクは生徒ではないよ」
「では、優秀な侵入者の回答を」
「趣味が悪い」
ルルトは針を下ろした。
「影山雄蔵は人間ではない。人間の形をして現れることはある。声も出す。署名もする。記者会見にも出る。だが、その中身は一人の人格ではない。影山グループが作り上げた企業人格だ」
ルナはその言葉を内側で反芻した。
企業人格。
人間ではない人格。
名前と権限と記録と影によって成立するもの。
LUNA-00。
影代用人格実験機。
自分もまた、誰かの人格を入れるために作られた。
人間ではない器。
けれど、自分は今、ここで怖がっている。
怖がる器は、器なのか。
それとも、もう別のものなのか。
ルルトは続けた。
「源三郎は、それを止めたい。少なくとも、止めたいと思っている影を持っている」
「影を持っている?」
リツが聞き返す。
「屋敷で会った源三郎も、本体ではない」
ミオが息を呑んだ。
ルルトは黒板の最後の一行を示した。
「出席状態、影のみ。つまり、深夜課程に登録されている源三郎は影だ。本体が欠席しているのではない。そもそも、本体が出席できない状態にある」
「死んでるってことか?」
「可能性はある。だが、死体があるとは限らない。源三郎もまた、長く影を使いすぎた。自分の意思、後悔、権限、依頼、殺意。それらを影へ預けすぎた。屋敷でボクに道具を渡した老人は、源三郎本人の形をした影だったのかもしれない」
「じゃあ、あの依頼は?」
「本体の依頼か。影の依頼か。あるいは、影山というシステムを終わらせたいと願う、古い後悔の残り香か」
ルルトは少しだけ笑った。
「実に嫌な依頼人だ。死んでいるのか、生きているのか、影なのか、本人なのか、請求書を誰に出せばいいのかわからない」
「そこかよ」
リツが言った。
だが、その声にはいつもの勢いがなかった。
彼も理解し始めている。
これは、誰か一人を殴れば終わる事件ではない。
影山雄蔵を殺せば終わるわけではない。
源三郎を信じればよいわけでもない。
影山家は、もう人間の家ではない。
記録と影と契約で動く、企業の怪物になっている。
夜羽が拍手した。
乾いた音だった。
「素晴らしい。ほとんど正解です」
「ほとんど、か」
「一点だけ、訂正があります」
「どうぞ」
「私は、影山家の本体を復活させようとしているのではありません」
夜羽の声が、少し変わった。
教師の声ではない。
管理者の声。
あるいは、研究者の声。
「本体など、もう必要ありません。古い血筋、老いた権力、腐った屋敷、死んだ当主の記憶。そんなものに縋る必要はない。影山雄蔵という企業人格は、すでに人間の身体を超えている。ならば必要なのは、次の器です」
夜羽はミオを見た。
ミオの影が、すっと背筋を伸ばした。
ミオ本人は後ずさろうとする。
だが、足元から伸びた影に捕まり、動けない。
「ミオさんは、若い。血縁適合も高い。影受容性も最上位。深夜課程の出席記録も安定している。彼女の影を使えば、影山雄蔵という企業人格は、新しい器で運用できます」
「運用……?」
ミオの声が震えた。
夜羽は優しく微笑む。
「あなたがすべてを背負う必要はありません。あなたは器になればいい。人格は影山が用意します。記録も、権限も、判断も、署名も、すべてこちらが整える」
「嫌……」
「怖がらなくていい。あなたが苦手なことは、すべて影が代わりに行います。人前に立つことも、判断することも、命令することも。あなたはただ、そこにいればいい」
「それは、生きてるって言わない……」
「生存の定義は、時代によって変わります」
ミオの影が彼女へ近づいた。
影の腕が、ミオの肩へ伸びる。
取り込むつもりだ。
いや、戻るつもりなのかもしれない。
影が本体へ戻るのではない。
影が本体を飲み込み、器として使うために。
ルナは動こうとした。
だが、足元の少女の影が彼女の前に立つ。
まるで道を塞ぐように。
あるいは、行かないでと止めるように。
ルナの身体が固まった。
自分も器だ。
LUNA-00。
影代用人格実験機。
誰かの影を入れるためのもの。
ミオを助けたい。
でも、それは本当に自分の気持ちなのか。
器が器に反応しているだけではないのか。
誰かが作った共感回路ではないのか。
自分の中にある「助けたい」は、命令ではないとどう証明できるのか。
証明できない。
証明できないから、動けない。
リツが叫んだ。
「ルナ!」
ルナは彼を見る。
リツはまだ床の影に足を縛られていた。汗をかき、歯を食いしばりながら、それでも上体を起こしている。
「おまえが何のために作られたかなんて知らない!」
その声は、教室に響いた。
「俺だって、自分が何のために支援されてたのか知らなかった。影武者向きだとか、当主補助影だとか、勝手に決められてた。ミオだって、器だとか薄い皮だとか言われてる。でもさ」
リツは床に爪を立てる。
影の線が彼の足首をさらに締める。
それでも声を張った。
「今ミオを助けたいって思ってるなら、それはおまえのものだろ!」
ルナは、息を吸った。
必要のない呼吸。
けれど、今度は深く吸った。
「わたくしの、もの」
「そうだよ!」
「設計された感情かもしれません」
「だったら何だよ!」
リツは怒鳴った。
「俺たちだって、親とか街とか学校とか金とか、いろんなもんに作られてるだろ! でも、今何をするかまで全部そいつらのものにするなよ!」
ルナの中で、何かが止まった。
いや、止まったのではない。
揃った。
作られたものかもしれない。
でも、今ここで動かすのは自分だ。
怖さも。
嫌だと思うことも。
助けたいと思うことも。
証明できないなら、選ぶしかない。
ルナは足元の少女の影を見た。
その影は、まだ泣いているようだった。
「ごめんなさい」
ルナは小さく言った。
「あなたが誰なのか、わたくしにはまだわかりません。あなたがわたくしの過去なのか、別の誰かなのか、失敗した零号なのか、それもわかりません」
影は動かない。
「ですが、今、わたくしはミオさんを助けます」
ルナは一歩踏み出した。
少女の影をすり抜ける。
影がルナの身体に触れる。
冷たかった。
けれど、痛くはなかった。
むしろ、悲しいほど懐かしい。
それでも、ルナは止まらなかった。
ミオの影が、ミオ本人を抱き込もうとしている。
ルナは手を伸ばした。
右手首の固定具が軋む。
まだ完全には治っていない。無理に動かせば、また壊れる。
それでも、伸ばした。
「ミオさん!」
ミオが顔を上げる。
泣き濡れた目で、ルナを見る。
「ルナ……」
「手を」
「でも、わたしの影が」
「ミオさんの手を」
ミオは震えながら、手を伸ばした。
ルナはその手を掴む。
機械人形の手と、人間の手。
温度が違う。
震え方も違う。
けれど、握った。
ミオの影が唸る。
「器が器を拒むな」
ルナは影を見た。
「わたくしは器かもしれません」
声はまだ震えている。
でも、逃げなかった。
「ですが、空の器ではありません」
ミオがルナの手を握り返した。
「わたしも……空じゃない」
ミオの影が、歪んだ。
夜羽が微笑みを消した。
「感情による抵抗反応。やはり、未成熟な器は扱いにくい」
「子どもを道具にする大人が、子どもらしさに文句を言うのかい」
ルルトが言った。
夜羽は彼へ向き直る。
「あなたは、彼女たちを救えると思っているのですか」
「救済には興味がない」
「では、なぜ邪魔をする」
「邪魔だから」
ルルトは影縫いの針を構えた。
「君が、事件の邪魔だ」
夜羽の影が広がった。
深夜課程全体が、彼の足元から黒く染まる。
机の下の影。
椅子の影。
影だけの生徒たち。
窓の黒。
黒板の文字の影。
それらが一斉に夜羽へ繋がっていく。
彼はこの教室の教師であるだけではない。
管理者。
契約者。
深夜課程の出席簿に接続し、生徒たちの影を管理する者。
夜羽が片手を上げる。
影が無数の刃に変わった。
細い刃。
曲がった刃。
縫い針のような刃。
手術道具のような刃。
それらが空中に浮かぶ。
「ルルトさん。あなたも影でしょう」
夜羽は言った。
「殺し屋という役を与えられ、その役の中でしか生きられない。探偵のように真実を暴くと言いながら、最後には殺しで句読点を打つ。あなたは、自分の役から出られない」
ルルトは否定しなかった。
「そうかもしれないね」
その答えに、ルナは驚いた。
夜羽も、ほんの少し眉を上げる。
「否定しないのですか」
「役というのは便利だ。殺し屋、探偵、教師、生徒、当主、器。名前をつければ、人はそこへ収まりやすくなる」
「では、あなたも同じです」
「そうかもしれない」
ルルトは一歩進む。
影の刃が降る。
彼はダーククロウを使わない。
代わりに、影縫いの針を床へ落とす。
黒い糸が走り、一本目の刃の影を縫い止めた。刃そのものが空中で止まり、硝子のように砕ける。
次の刃が肩へ来る。
避けきれない。
肉が裂ける。
血が散る。
再生は遅い。
だが、ルルトは止まらない。
「だが、役を理解している者は」
彼は二本目の針を投げた。
夜羽の足元の影へ刺さる。
夜羽が初めて表情を変えた。
「役の降り方も知っている」
黒い糸が、夜羽の影から深夜課程の床へ伸びる契約線を浮かび上がらせた。
それは無数にあった。
夜羽の影と教卓。
夜羽の影と出席簿。
夜羽の影と黒板。
夜羽の影と生徒たちの影。
夜羽の影と影山基金の記録。
夜羽の影と、深夜課程そのもの。
糸ではない。
契約線。
影を管理する権限を示す黒い線。
ルルトは、それを見て笑った。
「見えた」
夜羽が後退する。
「やめなさい」
「教師が命令するには、少し遅い」
「それを切れば、深夜課程の制御が乱れます」
「乱れて困る授業には見えないね」
「生徒たちの影が暴走する!」
「すでにしている」
ルルトは影縫いの針を構える。
夜羽が刃を放つ。
無数の影刃。
ルルトは避けない。
胸、腕、腹、太腿。
影刃が彼を切る。
血が落ちる。
影の縫い目がほどけかける。
それでも、彼の手はぶれなかった。
針が走る。
黒い糸が、夜羽の影と黒板を結ぶ契約線へ絡む。
そして、切った。
ぱん、と乾いた音がした。
黒板の文字が乱れる。
夜羽の顔から、余裕が消えた。
「やめろ」
声が変わった。
教師ではない。
恐怖する人間の声だった。
ルルトは二本目を切る。
教卓との線。
三本目。
出席簿との線。
四本目。
影だけの生徒たちとの線。
夜羽の影が揺れる。
足元から剥がれ始める。
「やめろ!」
夜羽が叫んだ。
初めて、敬語が崩れた。
「私の制御権が、私の影が――」
「他人の影を扱う者は」
ルルトは静かに言った。
「自分の影を失う覚悟くらい持つべきだ」
最後の線を切る。
夜羽の影が、床から剥がれ落ちた。
落ちた、という表現が近い。
通常、影は床に落ちているものだ。だが夜羽の影は、皮膚を剥がされるように、彼の足元からずるりと離れた。
夜羽が悲鳴を上げた。
影がない。
彼の足元には、何もない。
非常灯の赤い光が教室を照らしている。机にも椅子にも影がある。ルナにも、ミオにも、リツにも影がある。
夜羽だけ、影がなかった。
彼は両手を床へ伸ばす。
剥がれた影を掴もうとする。
だが影は、彼の手から逃げるように黒板の方へ滑っていく。
「私の……私の影が……」
夜羽は震えていた。
さっきまで他人を器と呼び、素材と呼び、記録として扱っていた男が、自分の影を失っただけで幼子のように怯えている。
リツが荒い息を吐いた。
「ざまあみろって言いたいけど……怖えな、これ」
「言えばいい」
ルルトは少し苦しそうに言った。
「倫理的には推奨しないが、気分は少し晴れる」
「じゃあ言う。ざまあみろ」
リツの声は震えていたが、確かに言った。
夜羽は聞いていない。
自分の影を見ている。
剥がれた影が、黒板の前で形を変え始めていた。
夜羽の影ではなくなる。
ミオの影も、ルナの影も、影だけの生徒たちも、教室の黒い窓に映った複数の顔も、すべてが黒板の前へ引き寄せられていく。
ミオの身体が大きく震えた。
「来る……」
ルナが彼女の手を握る。
「何が」
「お父様じゃない……もっと、たくさん……」
黒板の文字がすべて消えた。
代わりに、巨大な影が浮かび上がる。
それは男の姿ではなかった。
最初は人型に見えた。
だが、すぐに崩れた。
顔がいくつもある。
影山雄蔵の顔。
若い雄蔵。年老いた雄蔵。怯える雄蔵。笑う雄蔵。記者会見の雄蔵。培養槽の中の雄蔵。書類写真の雄蔵。加工された雄蔵。影だけの雄蔵。
それらの顔が、重なり、ずれ、回転し、一つの顔になろうとして失敗している。
声も一つではない。
何人もの声が重なる。
低い声。
若い声。
老人の声。
電子処理された声。
泣き声。
命令口調。
記者会見の朗読。
契約書を読み上げる声。
その背後には、無数の署名が浮かんでいた。
影山雄蔵。
影山雄蔵。
影山雄蔵。
影山雄蔵。
すべて同じ名。
だが、筆跡が違う。
さらに、その下には企業印、政府認証、契約番号、株主議決権、医療登録、夜間部支援基金、所有権確認書、進路支援同意書。
人間ではない。
怪異でもない。
企業と魔導と記録と影が作った、現代的な亡霊。
影山雄蔵。
いや。
影山グループそのものが作り上げた、当主システム。
それが、ミオの影を通じて教室へ現れた。
ミオが悲鳴を上げる。
影の一部が彼女へ伸びる。
ルナは彼女の手を離さない。
リツは拘束を引き千切ろうとする。
夜羽は床に這いつくばったまま、自分の影を失った恐怖で震えている。
ルルトは、一歩前へ出た。
黒い影の異形が、複数の顔で彼を見た。
「ルルト」
声が重なる。
「宵の明星」
「殺し屋」
「探偵」
「依頼未完了」
「契約不履行」
「影山源三郎の委託対象」
ルルトは眉を上げた。
「よく喋る出席簿だ」
異形は笑った。
笑い声が、教室の壁を震わせる。
「本体など不要だ」
複数の声が、一つの文章を作る。
「名と権限と影があれば、人間は成立する」
ルナの胸が痛んだ。
名。
権限。
影。
それだけで成立する人間。
なら、自分は何で成立しているのか。
名前を名乗ったこと。
嫌だと言ったこと。
ミオの手を握ったこと。
それは、成立の条件にならないのか。
異形は続ける。
「顔は更新できる。声は再現できる。署名は移植できる。記録は追補できる。影は縫合できる。血縁は器になる。人格は運用できる。企業は継続する。個人は不要」
リツが吐き捨てた。
「最悪だな」
ミオは泣きながら首を振る。
「いや……いや……わたしは、そんなものにならない……」
ルナはミオの手を強く握る。
「なりません」
異形の一部がルナを見る。
「LUNA-00」
「影代用人格実験機」
「器」
「所有者未登録」
「回収対象」
ルナの足元の少女の影が震えた。
ルナも震えた。
だが、目を逸らさなかった。
「わたくしは、ルナです」
異形は笑う。
「登録名ではない」
「はい」
ルナは答えた。
「登録名ではありません」
自分で認めた。
けれど、続けた。
「ですが、今、わたくしが名乗っている名前です」
異形が少し揺れた。
ルルトの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「上出来だ」
彼はリボルバーを抜いた。
怨霊呪弾。
まだ身体は万全ではない。
影の傷は痛む。
雨のノイズはもうないが、深夜課程そのものが影の濁流だ。照準は普通の相手よりずっと難しい。
だが、目の前にいるものは、撃つべき相手だった。
人間ではない。
単なる影でもない。
名と権限と影だけで人間を名乗る、醜いシステム。
ルルトは銃口を上げる。
「それは現代的だ」
複数の影山雄蔵の顔が、一斉に彼を見る。
ルルトは微笑んだ。
「実に、醜いほどに」
銃口の奥で、怨霊呪弾が低く唸った。
深夜課程の教室で、影山雄蔵という名の企業人格が、初めて一人の殺し屋に狙いを定められた。




