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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
11/12

第11話 名を選ぶ影

 ルルトは、撃たなかった。


 深夜課程の教室で、彼は怨霊呪弾を装填したリボルバーを影山雄蔵の異形へ向けていた。複数の顔、複数の声、複数の署名、複数の影が重なった、企業人格と呼ぶべき怪物。名と権限と影があれば人間は成立する、とそれは言った。


 それは撃つべき相手に見えた。


 実際、撃ってもよかった。


 ルルトの指は引き金にかかっていた。胸元の十字刻印は痛み、影縫いの応急処置はまだ不完全で、身体の奥では黒い傷が疼いている。長引けば不利になる。ならば撃つ。殺し屋としては、それが最も単純な判断だった。


 だが、彼は撃たなかった。


 撃つ直前に、見えたからだ。


 影山雄蔵の異形の背後に、さらに細い線があった。


 影ではない。


 契約線。


 名簿と名簿を繋ぎ、血判と署名を繋ぎ、奨学金申請書と所有権証明書を繋ぎ、影武者契約と進路支援同意書を繋ぎ、深夜課程の出席簿と地下のどこかにある古い台帳を繋ぐ、黒い線。


 目の前の影は本体ではない。


 影山雄蔵は、ここにいるようで、ここにはいない。


 教室に現れた異形は、あくまで表出した影だ。


 撃つべき本体は、別にある。


 ルルトがそれに気づいた瞬間、影山雄蔵もまた気づいたらしい。


 複数の顔が、同時に笑った。


「探偵」


「殺し屋」


「出席簿の読者」


「本体を見たか」


 ルルトは銃口を下げなかった。


「半分だけね」


 次の瞬間、黒板が割れた。


 硝子ではないはずの黒板が、鏡のようにひび割れ、教室全体が大きく揺れた。窓の外にあった黒い闇が波打ち、机に座っていた影だけの生徒たちが一斉に立ち上がる。義体の腕、記録核、機械人形の頭部外装。それらが、出席者としてざわめく。


 ミオの影が叫んだ。


 ルナの足元に立つ少女の影が、泣くように揺れた。


 リツが何か叫んだ。


 その声が、遠ざかる。


 ルルトは、ルナとミオの方へ一歩踏み出そうとした。


 だが床が沈む。


 深夜課程の教室が、紙を折り畳むように歪み、昼の学院とも夜間部とも違うさらに奥へ、全員を引きずり込もうとした。


 ルルトは影縫いの針を床へ打ち込んだ。


 黒い糸が走り、教室の輪郭を一瞬だけ縫い止める。


「リツ、二人を離すな」


「言われなくても!」


 リツの声だけが返ってきた。


 ルナの声は聞こえない。


 ミオの泣き声も。


 ただ、黒い波が押し寄せる。


 ルルトは舌打ちせず、銃を懐へ戻した。


「なるほど。逃げ足だけは、実に企業的だ」


 深夜課程は崩れ、広がり、学院全体へ染み出していった。


     *


 翌朝。


 帝都月影高等学院は、いつも通りに見えた。


 校門には警備員が立ち、制服姿の生徒たちが登校してくる。中庭の噴水は稼働し、魔導気象装置は細かい霧を撒き、校舎の硝子壁は朝日を反射している。教師たちは生徒へ挨拶し、遅刻ぎりぎりの男子生徒が校門を駆け抜け、購買部の月見パンの入荷数を気にする女子生徒たちが笑いながら玄関へ向かっていた。


 昼の学院は、今日も学校だった。


 だが、その輪郭は狂い始めていた。


「おはよ」


「おはよう。昨日の課題やった?」


「やってない。見せて」


「最悪」


 そう言って笑った少女の影が、一拍遅れて笑った。


 本人が歩き出した後、影だけが足元に半歩残り、それから慌ててついていくように伸びる。少女は気づかない。隣の友人も気づかない。だが、校門脇の警備員は気づいた。顔を強張らせ、端末で校内管理室へ連絡を入れる。


 玄関ホールでは、出席確認端末が異常を起こしていた。


 昼の生徒の名前に混じって、存在しない名前が表示される。


 影識別番号KY―03。

 本人不在。

 影出席。

 LUNA-00。

 影山ミオ。

 影山源三郎、影のみ。


 端末はすぐに再起動した。


 再起動後は、普通の名簿に戻る。


 けれど、一度見てしまった教師の顔は青い。


 第一時限の開始前、校内放送が鳴った。


 昼のチャイムではない。


 夜間部の低い鐘でもない。


 乾いた、機械的な声。


『深夜課程、第一時限を開始します』


 校内が一瞬静まり返った。


 昼の生徒たちは笑った。


「何今の?」


「放送事故?」


「夜間部のやつじゃない?」


「朝から怖いんだけど」


 教師たちは笑わなかった。


 昼の学院と夜間部と深夜課程。


 三つの層を分けていた境界が、壊れ始めている。


 昼の廊下に、夜の出席簿が滲む。


 夜間部の掲示板に貼られていた住居支援や義体メンテナンスの紙が、昼の進路指導掲示板に重なる。


 深夜課程の黒い文字が、魔導科学実験室の防護板に浮かぶ。


 職員室では、御門サエが端末の画面を睨んでいた。


 顔色は悪い。


 昨夜からほとんど眠っていない。髪はきちんとまとめているが、目元には疲れが滲んでいる。机の上には、昼の授業予定表、夜間部の出席簿、深夜課程の異常ログ、警備システムの警告、女帝政府教育監査局へ送信する前の未送信報告書が並んでいた。


 端末には選択肢が表示されている。


 深夜課程封鎖プロトコル、実行確認。


 封鎖すれば、校舎の一部を物理的にも魔導的にも閉じられる。深夜課程の影響が昼の学院へ広がるのを防げる可能性がある。


 だが、封鎖すれば。


 中にいる者も閉じ込める。


 ルナ。

 ミオ。

 リツ。

 ルルト。


 そして、深夜課程に影だけを引き込まれている生徒たち。


 サエの指が、実行ボタンの上で止まっていた。


 職員室には、昼の教師たちの声が飛び交っている。


「全校休講にすべきです」


「保護者への説明はどうしますか」


「深夜課程という単語を出すわけには」


「夜間部の生徒はどこですか」


「東棟地下の扉が開きません」


「御門先生、封鎖判断を!」


 封鎖。


 管理者としては正しい。


 昼の生徒を守る。


 学院を守る。


 表の顔を守る。


 だが。


 夜間部の生徒は。


 深夜課程に巻き込まれた生徒は。


 行き場のない子どもたちは。


 いつもこうやって、表を守るために奥へ閉じ込められてきたのではないか。


 サエは、端末を見つめた。


 封鎖プロトコル。


 指が震える。


 その時、通信端末が鳴った。


 発信元は不明。


 ノイズ混じり。


 けれど、声ははっきりしていた。


『御門先生』


 ルルトの声だった。


 サエは息を呑む。


「ルルトさん。どこにいるんですか」


『出席簿の中、と言うと文学的かな』


「ふざけている場合ではありません。校舎の境界が崩れています。私は封鎖を――」


『封鎖すれば、昼の学院は助かるかもしれない』


「わかっています」


『夜間部は置き去りになる』


「わかっています!」


 サエの声が、職員室に響いた。


 周囲の教師たちが彼女を見る。


 サエは端末を握り締めた。


「わかっています……でも、私は管理者です。昼の生徒も守らなければならない。学院そのものを壊すわけにはいかない」


『教師なら』


 ルルトの声は、いつも通りだった。


 冷たく、丁寧で、優しくない。


『出席している生徒の名前くらい最後まで覚えておくべきだね』


 サエは言葉を失った。


『深夜課程の出席簿は、生徒を番号で呼ぶ。影識別番号、器、所有者未登録、支援対象、進路予定。君まで同じことをするのかい』


「私は……」


『ボクは正義の味方じゃない。だから、綺麗な答えは持っていない。だが、君は教師だろう』


 通信の向こうで、黒いノイズが走る。


 ルルトの声が少し遠ざかる。


『管理対象ではなく、生徒として呼びなさい。たぶん、それが君の役だ』


 通信が切れた。


 サエは、端末を見つめた。


 封鎖プロトコル。


 その下に、別の操作項目がある。


 全校避難誘導。

 夜間部名簿同期。

 深夜課程出席者照合。

 手動呼名モード。


 封鎖ではない。


 危険は増す。


 時間もかかる。


 失敗すれば、昼の学院にも被害が出る。


 だが、閉じ込めない。


 サエは深く息を吸った。


「全校避難に切り替えます」


 職員室がざわめいた。


「御門先生!」


「封鎖ではなく、避難誘導です。昼の生徒を西門へ。夜間部の名簿を同期してください。深夜課程に引き込まれた影出席者も照合します」


「そんなことをしている時間は」


「あります。作ります」


 サエは端末の操作を切り替えた。


 手動呼名モード。


 生徒の名前が表示される。


 昼の生徒。

 夜間部の生徒。

 体験授業参加者。

 仮名登録者。

 所有者未登録個体。

 影出席者。


 サエは、その最初の名を読んだ。


「月城リツ」


 画面が反応する。


 深夜課程内、影拘束中。


「影山ミオ」


 深夜課程内、本人・影分離中。


「ルナ」


 表示が一瞬乱れる。


 LUNA-00、影代用人格実験機。


 サエは唇を結んだ。


 そして、もう一度言った。


「ルナさん」


 画面が変わる。


 本人拒否申告、継続中。


 サエは震える指で、避難誘導を開始した。


     *


 深夜課程の教室には、朝が来なかった。


 外の世界では朝になっているはずだった。


 だが、黒い窓には何も映らない。昼の光も、校庭も、登校する生徒たちも、避難誘導の放送も届かない。ただ、遠くからかすかに御門サエの声が聞こえるだけだった。


 名前を呼ぶ声。


 生徒の名を、一つずつ。


 それが深夜課程の壁を叩いている。


 ルナは、教室の中央に立っていた。


 足元には少女の影。


 目の前には、影山雄蔵という企業人格。


 隣にはミオ。


 少し離れた場所にリツ。


 ルルトは黒板の前で、影縫いの針を持ったまま異形を見ている。


 夜羽は影を剥がされたまま、床に座り込んでいた。まだ意識はある。だが、彼はもう深夜課程を制御できない。自分の影を失った男は、他人の影を教材として扱う教師ではなく、ただ怯える一人の大人になっていた。


 影山雄蔵の異形は、教室の天井に届きそうなほど巨大化している。


 だが、それは完全な形ではなかった。


 サエが外から名を呼ぶたび、深夜課程の出席簿が揺れる。昼の学院へ漏れ出した影を引き戻そうとする力と、避難誘導によって生徒を外へ出そうとする力がぶつかり、異形の輪郭が不安定になっている。


 ルナの内部にも、揺れが起きていた。


 LUNA-00。


 影代用人格実験機。


 その記録が、深夜課程に接続されたことで、彼女の中にある空白領域が開いていた。


 そこには、記録があった。


 声ではない。


 映像でもない。


 でも、感情の断片に近いもの。


 白い部屋で起動しなかった少女。

 初めて目を開けた瞬間に泣き出し、命令処理を拒んだ個体。

 誰かの声を模倣できず、ずっと同じ名前を検索し続けた個体。

 影を受け入れる前に、自分の影を怖がった個体。

 廃棄予定と記録され、部品単位で保存された個体。

 目覚める前に停止された個体。


 いくつもの失敗作。


 いくつもの未完成。


 いくつもの、ルナにならなかったもの。


 自分は唯一ではない。


 自分だけが特別な一点ものではない。


 この身体の中には、いくつもの失敗の記録が眠っている。


 ルナは足元の少女の影を見た。


 この子は、その一人なのかもしれない。


 月影試作零号なのかもしれない。


 あるいは、零号ですらなく、記録に名前を残されなかった試作機なのかもしれない。


 胸が痛む。


 機械人形の胸に、痛むべき心臓はない。


 けれど痛む。


「わたくしは……」


 ルナは呟いた。


 声が揺れる。


「わたくしは、誰なのでしょうか」


 その問いは、ずっと胸にあった。


 機械人形なのか。


 影代用人格実験機なのか。


 LUNA-00なのか。


 ルルトに拾われた人形なのか。


 夜間部の体験授業参加者なのか。


 所有者未登録個体なのか。


 廃棄された失敗作たちの残響なのか。


 それとも、ただのルナなのか。


 ルナは、ルルトを見た。


 助けを求めるように。


 答えを求めるように。


 ルルトは、優しい顔をしなかった。


 彼は血の滲む胸元を片手で押さえ、影縫いの針を持ったまま、淡々と言った。


「それを他人に聞くうちは、誰でもない」


 ルナは息を止めた。


 刺さった。


 研究員に「登録名ではない」と言われた時とは違う痛み。


 もっと近い。


 もっと深い。


 ルルト様なら、ルナだと言ってくれると思ったのかもしれない。


 君は君だ、と。


 心配いらない、と。


 自分が何者か、代わりに答えてくれると。


 でも、彼は答えをくれなかった。


 それどころか、誰でもないと言った。


 ルナの視界が滲む。


 機械人形の視界補正が、乱れた感情に追いつかない。


「……ひどいです」


「そうだね」


「慰めてはくださらないのですか」


「慰めで君の名前は決まらない」


「わたくしは、怖いです」


「怖いまま決めるしかない」


「失敗したら」


「失敗しても、君が決めたことになる」


 ルナは、言葉を失った。


 ルルトは少しだけ目を細めた。


「名前は、他人からもらうこともある。呼ばれて覚えることもある。書類に書かれて押しつけられることもある。だが、最後に名乗るのは本人だ」


 彼はルナを見た。


「ルナ。それをボクに聞くな」


 ルナは、胸を押さえた。


 痛い。


 でも、理解した。


 答えは、ルルトからもらうものではない。


 ルルトの所有物になることでもない。


 影山の器として登録されることでもない。


 研究記録のLUNA-00に戻ることでもない。


 自分で言うしかない。


 怖いまま。


 傷ついたまま。


 自分の中にいくつもの失敗作の記録を抱えたまま。


 それでも、言うしかない。


 ルナは足元の少女の影へ向き直った。


 影は、静かに彼女を見上げている。


「あなたが、わたくしの中にいる記録なら」


 ルナは言った。


「わたくしは、あなたを捨てません」


 影が揺れる。


「ですが、あなたにわたくしの名前を決めさせることもしません」


 ルナは顔を上げた。


 影山雄蔵の異形が、彼女を見る。


 複数の声が囁く。


「LUNA-00」

「器」

「所有者未登録」

「影代用人格実験機」

「回収対象」


 ルナは、そのすべてを聞いた。


 聞いたうえで、一歩前へ出た。


「わたくしは、ルナです」


 声は震えた。


 でも、消えなかった。


「影山の器ではありません」


 異形の顔が歪む。


「ルルト様の所有物でもありません」


 ルルトがほんの少しだけ眉を上げた。


 リツが小さく笑う。


 ミオが涙の中でルナを見る。


「わたくしは、わたくしとして、ここにいます」


 その瞬間、深夜課程の黒板に新しい文字が浮かんだ。


 LUNA-00。

 現行名、ルナ。

 本人名乗り、確認。

 所有者、未登録。


 その下に、さらに文字が滲む。


 所有者欄、本人申告待機。


 ルナは、それを見た。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、欄が変わった。


 回収対象ではなく。


 所有者未登録の空白でもなく。


 本人申告待機。


 それは、小さな変化だった。


 だが、深夜課程の出席簿にとっては、致命的な異物だった。


 影山雄蔵が吠えた。


「名乗りは記録に優越しない」

「登録が個人を定義する」

「所有権が存在を保証する」

「器は器であれ」


 異形の影が、ミオへ伸びる。


 黒い波が床を覆い、机を飲み込み、影だけの生徒たちを巻き込んで、ミオの足元へ集まっていく。


 ミオの身体が黒板の前へ引き寄せられた。


「ミオさん!」


 ルナが叫ぶ。


 ミオの足元から、彼女の影が巨大に広がる。


 それはもう少女の影ではなかった。


 学院の床を覆い、壁を這い、黒板へ伸び、窓の黒と混ざり合う。そこに影山雄蔵の複数の顔が浮かぶ。ミオ本人は黒板の前に立たされ、両腕をだらりと下げている。


 瞳に光がない。


 だが、影だけが話し始めた。


「私は影山雄蔵」

「影山グループ代表」

「契約権限保持者」

「支援基金管理者」

「夜間部出資者」

「影を継ぐ者」


 それはミオの声ではなかった。


 ミオの影を通じて、影山雄蔵が話している。


 ルナは駆け出した。


 リツも拘束を引き千切ろうとする。


「ミオ!」


 黒い線が彼を止める。


 ルルトは影縫いの針を構えたが、すぐには投げなかった。


 ミオの影と影山雄蔵の影が重なりすぎている。無理に切れば、ミオ本人の影まで裂く。


 ルナは理解した。


 今、触れられるのは自分だけだ。


 自分は誰かの影を受け入れるために作られた。


 それは呪いだと思っていた。


 器として作られた事実。


 でも、器だからこそ触れられるものがある。


 ルナはミオの影へ手を伸ばした。


「ルナ!」


 リツが叫ぶ。


「無理すんな!」


「無理ではありません」


 ルナは言った。


「わたくしは、このためだけに作られたわけではありません。でも、この機能を今使うことは、わたくしが決めます」


 彼女の指が、黒い影に触れた。


 冷たい。


 深い。


 膨大な記録が流れ込む。


 影山雄蔵の署名。

 影山基金の契約。

 奨学生の名簿。

 影武者候補の検査結果。

 血判。

 所有権証明。

 進路支援同意。

 ミオの血縁記録。

 影識別番号。

 深夜課程出席簿。

 LUNA-00の登録。

 月影試作系列の廃棄記録。


 ルナの内部記録核が悲鳴を上げた。


 多すぎる。


 受け入れきれない。


 影山雄蔵という企業人格は、一人の影ではない。契約と名簿と記録が束になった黒い海だ。普通の機械人形なら一瞬で塗り潰される。人間なら、自分の名前を保てない。


 ルナは、その中でミオを探した。


 影山雄蔵を受け入れない。


 器として飲み込まない。


 代わりに、ミオ本人の声を探す。


 黒い海の奥で、泣き声がした。


 小さな声。


 怖い。


 嫌だ。


 助けて。


 でも、助けられるのも怖い。


 自分の影が怖い。


 影山の血が怖い。


 自分の中に、あの名が流れていることが怖い。


 名前を名乗ったら、その名前ごと影山に奪われそうで怖い。


 ルナは、その声へ向かって手を伸ばした。


「ミオさん」


 黒い影の奥で、少女が震えていた。


 本当の身体ではない。


 影の中の意識。


 膝を抱え、顔を伏せている。


「ルナ……?」


「はい。ルナです」


「わたし、怖い」


「はい」


「自分の影が怖い。お父様って呼ぶ声が怖い。影山の血が怖い。わたしの名前が、本当は誰かのものなんじゃないかって、怖い」


「はい」


「わたしがミオって言っても、影が違うって言う。記録が違うって言う。器だって言う。薄い皮だって言う」


「怖いなら」


 ルナは言った。


「怖いまま名前を呼んでください」


「怖いまま……?」


「はい。影ではなく、あなた自身の名前を」


 ミオは顔を上げた。


 涙で濡れた顔。


 けれど、目はルナを見ていた。


「怖くても、いいの?」


「よいと思います」


「強くなくても?」


「わたくしも強くありません」


「でも、ルナは言えた」


「怖かったです」


 ルナは少しだけ笑った。


「今も怖いです」


 ミオの唇が震える。


 黒い海の外では、影山雄蔵が彼女の身体を使い、当主の声で話し続けている。


 だが、その奥で、ミオ本人が息を吸った。


 小さく。


 震えながら。


 それでも。


「わたしは……」


 声が出る。


「わたしは、ミオ」


 黒い海が揺れる。


 影山雄蔵の声が乱れる。


「器の発話を停止」

「名乗り反応を抑制」

「影継承を優先」


 ミオは叫んだ。


「わたしはミオ! 影山の器じゃない!」


 その瞬間、深夜課程全体が揺れた。


 ミオの影が一瞬だけ、本体から剥がれる。


 いや、正確には、影山雄蔵の影がミオの影から剥がれた。


 ほんの一瞬。


 針穴ほどの隙間。


 だが、ルルトは見逃さなかった。


 彼は黒板の前で、影縫いの針を構えたまま、目を細めた。


 見えた。


 ミオの影の奥ではない。


 ルナの記録核でもない。


 夜羽の契約線でもない。


 影山雄蔵の本体は、深夜課程そのものですらない。


 さらに奥。


 学院地下。


 東棟の下。


 夜間部の管理区域よりも古い階層。


 影山基金管理室。


 そこに、太い黒い線が伸びている。


 契約台帳。


 名前。


 署名。


 血判。


 奨学金契約。


 所有権契約。


 影武者契約。


 義体登録証。


 機械人形所有権証明書。


 夜間部支援同意書。


 それらが束ねられ、影山雄蔵という企業人格を成立させている。


 人間ではない。


 影ですらない。


 契約によって成立した影の集合体。


 ルルトは、静かに銃を抜いた。


 撃つ相手は、目の前の異形ではない。


 ようやく、撃つべき本体を見つけた。


 ルナは黒い影の中から戻ってきた。


 膝をつき、息を乱す。


 ミオもまた、その場に崩れ落ちる。


 リツが床の拘束を引き千切り、二人へ駆け寄った。


「ルナ! ミオ!」


「リツさん……」


「生きてるな?」


「停止しておりません」


「じゃあ生きてるでいい!」


 リツは無理やり笑った。


 ミオはまだ泣いていた。


 けれど、影山雄蔵の声ではなく、自分の声で泣いていた。


 ルルトは三人を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。


 それから、黒板の奥に伸びる契約線を見据える。


 影山雄蔵の異形が、複数の顔で彼を見る。


「本体など不要」

「契約は継続する」

「名は残る」

「影は継がれる」


 ルルトは薄く笑った。


「いいや」


 彼は銃口を下げた。


 目の前の影ではなく、床に伸びる黒い契約線へ視線を落とす。


「本体を見つけた」


 その声は、深夜課程の教室に静かに響いた。


 次の瞬間、黒板の奥に、地下へ続く古い階段が浮かび上がった。


 最終授業の扉が、開こうとしていた。

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