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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
12/12

第12話 宵の明星は影を撃つ

 地下へ続く階段は、黒板の奥に現れた。


 それは普通の階段ではなかった。


 教室の黒板に白い亀裂が走り、亀裂の向こうに、古い石造りの階段が沈んでいる。上へ向かうのではない。下へ、下へ、帝都月影高等学院の校舎よりも古い場所へ続いている。


 昼の学院が建つ前。


 夜間部が作られる前。


 この丘がまだ帝都の教育施設ではなく、企業と女帝政府の下請け研究施設が並ぶ影の実験場だった頃へ。


 そこへ降りる階段だった。


 深夜課程の教室は、まだ揺れている。


 黒板には出席簿の文字が滲み、窓の外には帝都の景色ではなく、複数の影山雄蔵の顔が浮かんでは消えていた。床には黒い契約線が走り、机に座っていた影だけの生徒たちは、名前を呼ばれるたびに輪郭を薄くしていく。


 遠くから、御門サエの声が聞こえていた。


『月城リツ。応答してください』


「応答してる! めちゃくちゃしてる!」


 リツが叫ぶ。


 彼は床に絡みついていた黒い線を蹴り払いながら、ルナとミオを支えていた。顔色は悪い。足首には影拘束の痕が残り、制服の膝は破れている。それでも、口だけはいつも通りだった。


『影山ミオさん。聞こえますか』


「……聞こえます」


 ミオは、ルナの肩に支えられながら答えた。


 声はまだ震えている。


 だが、それは影山雄蔵の声ではない。


 ミオ自身の声だった。


『ルナさん』


 校内放送越しに、サエが呼ぶ。


 ルナは顔を上げた。


「はい。聞こえております」


 一瞬、黒板に文字が浮かぶ。


 LUNA-00。


 次の瞬間、その上から別の文字が重なった。


 ルナ。


 本人名乗り、継続中。


 ルナは小さく息を吐いた。


 必要のない呼吸。


 けれど、今は必要だった。


 ルルトは階段の前に立っていた。


 黒いコートは破れ、胸元の包帯には血が滲んでいる。影縫いの針で応急処置した自分の影には、まだ黒い糸が残っている。怨霊呪弾を装填したリボルバーを右手に持ち、左手には影縫いの針を持っていた。


 殺し屋というより、外科医のようだった。


 ただし、手術するのは人間ではない。


 契約。


 名簿。


 影。


 ルルトは振り返らずに言った。


「リツ。サエ先生の声が届く場所まで、生徒を連れて戻りなさい」


「また命令かよ」


「お願いの方が好みかな」


「気持ち悪いから命令でいい」


「では、命令だ。邪魔な生徒を連れて下がれ」


「誰が邪魔だ!」


「全員」


 リツは一瞬怒鳴り返そうとして、それからミオとルナを見た。


 ミオは立っているのがやっとだ。


 ルナの右手首も、まだ完全には動かない。


 リツは舌打ちした。


「……わかった。でも、あんた一人で行く気かよ」


「一人ではない」


 ルルトはリボルバーを軽く掲げた。


「弾が一発ついてくる」


「そういう意味じゃねえよ」


 ルナが一歩前に出た。


「ルルト様」


「君も戻りなさい」


「いいえ」


 即答だった。


 ルルトが、ほんの少しだけ目を細める。


「珍しく反抗的だね」


「珍しくではありません。最近、増えております」


「それは教育に悪い」


「ルルト様の教育の成果です」


「心外だ」


 ルナは真っすぐ彼を見る。


「契約台帳には、わたくしの登録もあるはずです。LUNA-00として。回収対象として。所有者未登録個体として。わたくしは、それを自分で見ます」


 ミオもルナの隣に立った。


 まだ泣いた跡が頬に残っている。


 けれど、目は逸らしていなかった。


「わたしの名前もある。影山の器として。血縁者として。……わたしも見る」


 リツが頭を掻いた。


「あーもう。じゃあ俺も行くしかないじゃん。俺の影山奨学生契約もあるんだろ。勝手に進路支援とか当主補助影とか書かれてるやつ」


 ルルトは三人を見た。


 しばらく黙る。


 そして、軽く肩をすくめた。


「足手まといが増えた」


「言い方」


 リツが顔をしかめる。


 ルナは少しだけ安心した。


 ルルトが本気で拒まない時の、遠回しな許可だとわかってきたからだ。


 階段の奥から、黒い風が吹き上がった。


 紙の匂い。


 古い血の匂い。


 魔導インクの匂い。


 そして、数えきれない名前の匂い。


 ルルトは階段を降り始めた。


「行こう。出席簿の根を見に行く」


     *


 学院地下、影山基金管理室。


 そこは、教室ではなかった。


 書庫でもない。


 役所でもない。


 だが、その三つが腐って一つになったような場所だった。


 天井は低く、壁は灰色の石材でできている。いつの時代の建築なのか、今の帝都月影高等学院とはまるで違う。床には古い魔導陣が刻まれ、その上に後から敷設された配線が黒い根のように絡みついていた。


 部屋の中央には、巨大な卓がある。


 卓の上には、紙の台帳が積まれていた。


 分厚い革表紙。


 古い紙束。


 魔導端末。


 血判石。


 影縫い針。


 義体登録証。


 機械人形所有権証明書。


 奨学金契約書。


 進路支援同意書。


 身元保護申請書。


 影武者契約。


 影代用人格実験記録。


 そのすべてから、黒い線が伸びている。


 線は壁を這い、天井を這い、床の魔導陣へ入り、さらに上の深夜課程へ伸びていた。帝都月影高等学院の夜間部、影山グループ本社、旧研究施設、源三郎の屋敷、複数の代役、眠る義体、廃棄された機械人形、名前を変えた生徒たち。


 すべてが、ここに繋がっていた。


 影山雄蔵は、ここから生じた影だった。


 ルナは卓の前で足を止めた。


 端末の一つに、自分の登録が表示されていた。


 LUNA-00 影代用人格実験機。

 現行名、ルナ。

 所有者、未登録。

 処遇、回収対象。

 本人拒否申告、継続中。

 本人名乗り、確認。


 その横には、古い紙の記録があった。


 月影試作零号。

 廃棄。

 部品保存。


 さらに、その下に名前のない個体がいくつも並んでいる。


 起動失敗。

 記録核破損。

 感情反応過剰。

 影受容不適合。

 廃棄。


 ルナは、その紙に手を触れなかった。


 ただ、見た。


 見届けた。


 自分の中に残っていた少女の影が、足元で静かに揺れる。


「……ここに、いたのですね」


 ルナは小さく言った。


 その影は答えない。


 だが、ルナには少しだけわかった。


 捨てられたもの。


 起動しなかったもの。


 名前をもらえなかったもの。


 それらが全部、自分の中で泣いていたのだ。


 ミオは別の台帳を見ていた。


 影山ミオ。

 血縁適合。

 影継承器。

 本人保護、名目上。

 影出席、深夜課程。

 器移行候補。


 彼女の手が震える。


「わたし、ずっと……ここに書かれてたんだ」


 リツは自分の書類を見つけ、顔をしかめた。


「月城リツ。旧支援登録名、影山リツ。進路支援予定、影山グループ関連施設……おい、勝手に卒業後の予定まで決めんなよ」


 彼は紙を破ろうとした。


 ルルトが止める。


「破るのはまだ早い」


「何でだよ」


「紙を破っても契約線は残る。読み上げて、本人が拒否して、承認者が記録を上書きする必要がある」


「めんどくさっ」


「契約は面倒なものだ。だから悪用される」


 ルルトは卓の中央を見た。


 そこに、黒い血判石が置かれている。


 ただの石ではない。


 古い魔導具だ。


 黒曜石に似た表面に、乾いた血のような赤黒い模様が走っている。その上には、最初の署名が浮かび上がっていた。


 影山源三郎。


 血判。


 契約文。


 我が影は影山を守るためにあり。

 影山の名は影をもって継続する。

 本体が失われても、名と権限と影をもって、影山は存続する。


 ルルトはそれを見て、目を細めた。


「ここが始まりか」


 その時、部屋全体が震えた。


 台帳の影が膨れ上がる。


 紙の隙間から黒い液体のような影が溢れ、卓の上で渦を巻いた。端末が一斉に点灯し、契約書の署名が浮かび、血判石が赤黒く光る。


 影が形を取った。


 巨大な人影。


 だが、顔は一つではない。


 源三郎の顔。


 影山雄蔵の顔。


 朝の車列で怯えていた代役の顔。


 培養槽で眠っていた雄蔵系列の顔。


 夜羽の顔。


 ミオの顔。


 リツの顔。


 ルナと同型の機械人形の顔。


 無数の顔が、黒い影の中に浮かび上がり、ひとつの当主の顔を作ろうとしては崩れる。


 声もまた、重なっていた。


「契約は継続する」

「影山は存続する」

「本体は不要」

「名は機能する」

「権限は移譲される」

「影は運用される」


 影山雄蔵。


 企業人格。


 契約の影。


 それは卓の上に立ち、ルルトたちを見下ろした。


「人間は名で動く」


 複数の声が言った。


「契約で動く。記録で動く。ならば、影であって何が悪い」


 リツが歯を食いしばる。


 ミオはルナの手を握った。


 ルナは、足元の少女の影を感じながら、目の前の異形を見た。


 ルルトは少しだけ笑った。


「悪くはない」


 三人が彼を見る。


 影山雄蔵の影も、複数の顔でルルトを見た。


 ルルトはリボルバーを持ったまま、静かに言う。


「影もまた存在だ。影だから価値がない、とは思わない。人に呼ばれなくても、書類に載らなくても、影はそこにある」


 彼は一歩前へ出た。


「ただし、他人の名前を奪って本体を名乗るなら、話は別だ」


 影山雄蔵の影が吠えた。


 部屋中の契約線が一斉に跳ね上がる。


 紙の台帳から黒い腕が伸びる。端末から白い文字が刃のように飛び出す。血判石から赤黒い鎖が這い、床の魔導陣を伝ってルルトの影へ絡みつく。


 ルルトはダーククロウを展開した。


 黒い爪が伸びる。


 彼は最初の黒い腕を切り裂いた。


 影が裂ける。


 だが、すぐに台帳の文字が浮かび、裂けた影を補修した。


 代役契約、一件。

 血判補填。

 影武者権限、再接続。


 裂いた影が元に戻る。


「肉体がない相手は面倒だね」


 ルルトは呟いた。


 影山雄蔵は笑う。


「本体は不要」

「契約があれば再生する」

「記録があれば復元する」

「名があれば呼び戻せる」


「なるほど。企業はしぶとい」


 ルルトは二度、三度と影を裂く。


 ダーククロウが黒い腕を断ち、顔を抉り、署名の束を切り落とす。だが、そのたびに台帳が光り、契約線が再接続される。影山雄蔵の異形は崩れては戻り、戻ってはさらに大きくなる。


 撃つべき本体は、目の前の影ではない。


 ルナは卓の端にある名簿を見た。


 奨学生名簿。


 そこには、夜間部の生徒たちの名前が並んでいる。


 月城リツ。

 影山ミオ。

 名前を変えた生徒。

 義体適性を測られた生徒。

 影干渉適性を測られた生徒。

 卒業後の進路が勝手に決められていた生徒。

 本人不在のまま影だけが出席していた生徒。


「ルナ」


 ミオが言った。


 声は震えている。


 でも、もう逃げていない。


「読むんだよね」


「はい」


「怖いね」


「はい」


「でも、読む」


「はい」


 二人は台帳の前に立った。


 ルナは最初の名前を読んだ。


「月城リツ」


 リツが顔を上げる。


「本人、ここにいる!」


 ルナは続ける。


「影山奨学生契約。進路支援予定。影適性検査。本人同意、形式のみ」


 ミオが言う。


「本人拒否」


 リツが叫んだ。


「拒否する! 俺は影山のもんじゃない! 支援は受けた。でも、影まで売った覚えはない!」


 台帳の文字が震える。


 契約線が一本、ぷつりと切れた。


 リツの足元から伸びていた黒い線が消える。


「次」


 ミオが息を吸う。


「影山ミオ」


 黒い影が大きく揺れる。


 影山雄蔵の顔がミオへ向いた。


「血縁」

「器」

「継承」

「影山の名を――」


「本人拒否」


 ミオが言った。


 最初は小さかった。


 でも、もう一度言った。


「本人拒否。わたしはミオ。影山の名は、わたしの全部じゃない」


 契約線が裂ける。


 ミオの影に絡みついていた黒い鎖が、一本切れた。


 彼女は膝をつきかけたが、ルナが支えた。


「次は、わたくしです」


 ルナは台帳を見る。


 LUNA-00 影代用人格実験機。

 所有者未登録。

 回収対象。

 影受容器。


 ルナは、そこに記された自分を見た。


 怖い。


 でも、目を逸らさない。


「LUNA-00」


 彼女は読み上げた。


「現行名、ルナ。機械人形所有権証明、未設定。回収対象。影代用人格実験機」


 影山雄蔵が囁く。


「登録名」

「型番」

「器」

「所有者未登録」


 ルナは顔を上げた。


「本人拒否」


 黒い文字が乱れる。


「わたくしはルナです。所有者未登録ではありません」


 彼女は胸に手を当てた。


「わたくしの所有者は、わたくしです」


 台帳が、大きく震えた。


 エラー。


 所有者欄不正。

 登録規定外。

 本人所有、未定義。


 ルナは言い直さない。


 何度でも、同じことを言うつもりだった。


「わたくしの所有者は、わたくしです」


 足元の少女の影が、静かにルナの影へ重なった。


 泣いているように見えた影が、少しだけ笑ったように見えた。


 契約線が切れる。


 LUNA-00の登録名の上に、ルナの名が重なった。


 現行名、ルナ。

 本人所有申告、保留。

 回収対象、解除不能――解除中。


 影山雄蔵が怒号を上げる。


 部屋全体の影が暴れ始めた。


     *


 同じ頃、校舎の上層では、御門サエが生徒たちを避難させていた。


 昼の生徒たちは、西門へ。


 夜間部の生徒たちは、東棟から中庭へ。


 影だけが引き込まれている生徒には、名前を呼んだ。


「浅井ナオ。戻ってきなさい」


 廊下の隅に立っていた黒い影が、びくりと震えた。


「あなたは影識別番号ではありません。浅井ナオです。こちらへ」


 影はゆっくりと生徒の足元へ戻っていく。


「三崎ユウ。あなたの出席は確認しています。外へ」


 サエの声は嗄れていた。


 だが、止まらない。


 リツの言葉が、彼女の胸に残っている。


 支援って、逃げ道でもあるけど、首輪にもなる。


 ルルトの言葉も。


 教師なら、出席している生徒の名前くらい最後まで覚えておくべきだね。


 サエは、名簿を握り締めた。


 今まで彼女は、生徒を守るために管理してきた。


 管理するために、番号で呼んだ。


 保護対象。


 支援対象。


 夜間部生。


 影干渉適性あり。


 所有者不明個体。


 でも今は違う。


「私の生徒です」


 彼女は誰にともなく言った。


 廊下に残っていた教師が振り返る。


「御門先生?」


「この子たちは、管理対象ではありません。私の生徒です。全員、名前で呼びます」


 サエは、次の名を読んだ。


 深夜課程の黒い文字が、少しずつ薄れていく。


     *


 地下では、影山雄蔵が巨大化していた。


 契約線が切られるたび、影は怒り、別の契約を引き寄せる。


 代役の顔。


 源三郎の顔。


 雄蔵の顔。


 ミオの顔。


 リツの顔。


 ルナと同型の機械人形の顔。


 それらが黒い柱のように立ち上がり、部屋の天井を叩く。


「契約を破棄する権限はない」

「支援は対価を伴う」

「所有は保護である」

「影は本体を守る」

「影山は存続する」


 ルルトはリボルバーを開いた。


 弾倉に、怨霊呪弾を装填する。


 いつもの弾とは違う。


 赤黒い弾丸。


 表面には細かい呪詛文字が刻まれ、内部で怨霊が低く唸っている。撃てば対象の肉体だけでなく、影、契約、呪詛、記録に干渉する。ただし、反動は大きい。


 今のルルトの身体で撃つには、少しばかり危険すぎる。


 リツがそれに気づいた。


「おい、あんた大丈夫なのかよ」


「大丈夫ではないね」


「じゃあ撃つなよ!」


「撃たない理由にはならない」


「なるだろ普通!」


「普通ならね」


 ルルトは銃口を上げた。


 狙うのは、影山雄蔵の影ではない。


 卓の中央。


 最初の署名。


 影山源三郎の血判石。


 そこから、すべてが始まった。


 自分の影を守るために影武者を作った。


 影山家を守るために子どもたちの影を利用した。


 契約で名を縛り、記録で存在を作り、影で本体を隠し続けた。


 最後には、自分でも止められなくなった。


 ルルトは通信端末を開いた。


 地下では電波など通らないはずだった。


 だが、影縫いの針を血判石へ向けると、黒い線が一本だけ上へ伸びた。


 源三郎の屋敷へ。


 あるいは、源三郎の影へ。


 端末にノイズが走る。


 老人の声が聞こえた。


『……見つけたか』


「見つけたよ」


 ルルトは言った。


「実に悪趣味な本体だった」


『そうか』


「撃っていいのかい。これはあなた自身の影でもある」


 通信の向こうで、長い沈黙があった。


 血判石が、赤黒く光る。


 影山雄蔵の影が叫ぶ。


「影山は存続する」

「源三郎は影」

「血判は契約」

「契約は継続する」


 やがて、源三郎の声が返ってきた。


『撃て』


 静かな声だった。


 疲れ切った声でもあった。


『わしは、影山を終わらせるために君を呼んだ』


「請求先は?」


『好きにせい』


「困る返答だ」


『年寄りの最後の嫌がらせだ』


 ルルトは薄く笑った。


「悪くない」


 通信が切れる。


 ルルトは銃を構えた。


 影山雄蔵が、複数の顔で彼を見た。


「契約破壊は違法」

「血判は有効」

「支援契約は存続」

「所有権は維持」

「影山は――」


 銃声。


 怨霊呪弾が放たれた。


 弾丸は影山雄蔵の影を撃たなかった。


 黒い腕も、顔も、署名の束も通り抜けた。


 狙いはその奥。


 契約台帳の中心。


 影山源三郎の血判石。


 弾丸が石を貫いた。


 赤黒い石が、内部から割れる。


 そこに封じられていた血と影と契約が、悲鳴のように噴き出した。台帳の紙が舞い上がる。魔導端末が火花を散らす。影縫い針が折れ、義体登録証が灰になり、機械人形所有権証明書の文字が白く抜ける。


 契約線が一斉に切れた。


 ぱん。


 ぱん。


 ぱん。


 小さな音が連続する。


 生徒たちの影に繋がっていた線。


 奨学金契約に隠された線。


 ミオの血縁に絡む線。


 ルナの所有権欄へ伸びていた線。


 代役たちの署名。


 影武者契約。


 影山雄蔵という企業人格を構成していた黒い線が、次々に断ち切られていく。


 影山雄蔵が崩れた。


 複数の顔が叫ぶ。


 源三郎の顔が消える。


 雄蔵の顔が歪む。


 代役たちの顔が剥がれ落ちる。


 リツの顔が影から抜ける。


 ルナと同型の機械人形の顔が、静かに目を閉じる。


 ミオの顔だけが、最後に残った。


 黒い影が、ミオへ手を伸ばす。


「名を継げ」


 複数の声が、かすれながら言う。


「影山の名を」


 ミオは、震えていた。


 まだ怖い。


 完全に強くなったわけではない。


 影山の血が消えたわけでもない。


 自分の影が、明日から普通になる保証もない。


 それでも、彼女は首を振った。


「わたしはミオ」


 声は小さい。


 でも、確かだった。


「影山の名は、わたしの全部じゃない」


 影山雄蔵の手が止まる。


 次に、影はルナを見た。


「LUNA-00」

「所有者未登録」

「器」

「回収――」


「わたくしはルナです」


 ルナは言った。


 迷わなかった。


「所有者未登録ではありません。わたくしの所有者は、わたくしです」


 影山雄蔵の影が、完全に裂けた。


 黒い影は、無数の紙片のようにほどけ、契約の文字が空中で消えていく。


 最後に残ったのは、古い署名だけだった。


 影山雄蔵。


 その文字も、燃えるように黒くなり、やがて灰になった。


 地下管理室に、静けさが戻った。


 ルルトは銃を下ろした。


 その瞬間、膝が落ちた。


「ルルト様!」


 ルナが駆け寄る。


 ルルトは片膝をつき、胸元を押さえていた。怨霊呪弾の反動で、影の縫い目が少しほどけている。顔色はひどい。


 だが、彼は笑っていた。


「やれやれ」


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないね」


「では、すぐに手当を」


「その前に」


 ルルトは、壊れた契約台帳を見た。


「仕事は終わった」


     *


 事件の後、影山グループは強制捜査を受けた。


 ただし、完全には潰れなかった。


 帝都エデンの企業、政治、女帝政府の委託事業、魔導炉関連部品、義体素材、夜間教育支援、医療法人、結界維持導体。影山グループは、帝都の表と裏に深く食い込みすぎていた。表向きには、経営陣の刷新、関連法人の再編、基金事業の見直し、違法研究部門の摘発という形で処理された。


 影山雄蔵という名の当主は、公式には病気療養に入ったことになった。


 記者会見に出た新しい代表は、影山姓ではない職業経営者だった。


 彼の影は、普通に足元にあった。


 少なくとも、表向きには。


 帝都月影高等学院も閉鎖されなかった。


 昼の学院は数日間休校になり、保護者説明会が開かれ、魔導設備の点検という名目で校舎の一部が封鎖された。夜間部も一時停止されたが、御門サエを中心に再開準備が進められた。


 深夜課程は、公式には最初から存在しない。


 だから、公式に解体することもできなかった。


 それでも、御門サエたちは、実質的にそれを壊した。


 東棟地下の出席管理端末は撤去された。


 影山基金の管理室は封鎖された。


 深夜課程の黒板は、ただの黒板に戻った。


 名簿から影識別番号は消えた。


 全部が綺麗になったわけではない。


 そんなに簡単なら、帝都の夜はとっくに明るい。


 夜間部にはまだ、家に帰れない生徒がいる。


 本名を名乗れない生徒がいる。


 義体のせいで家族に拒まれた生徒がいる。


 機械人形と一緒に授業を受ける生徒がいる。


 企業や裏社会に目をつけられる生徒も、たぶん消えない。


 救済と搾取は、いつだって近い場所にある。


 けれど、少なくとも。


 生徒の影を売る場所ではなくなる。


 そうするために、サエは毎日、書類と戦うことになった。


「御門先生、例外申請が多すぎます」


「例外ではありません。実態に合わせて制度を直しているだけです」


「それを世間では例外と呼びます」


「なら、世間の語彙が足りません」


 職員室でそう言い返すサエの声は、以前より少しだけ強くなっていた。


 リツは、影山奨学金契約から解放された。


 とはいえ、急に生活が楽になるわけではない。学費支援は別の制度へ切り替えられ、仕事は相変わらず続けなければならない。彼は今日も眠そうに教室へ来て、授業中に首を落とし、サエに軽く叱られた。


「月城くん。寝るなら、せめて名前を呼ばれてから寝なさい」


「出席確認後なら寝ていいんですか」


「よくありません」


「厳しい」


「教師ですから」


 ミオは夜間部に残った。


 彼女の影は、すぐに普通になったわけではない。


 時々、本人より一拍遅れる。


 時々、廊下の端で立ち止まる。


 時々、黒板の方を向く。


 ミオはそれを怖がる。


 怖がりながらも、逃げなくなった。


「今日も、ちょっとズレてる」


 ミオが自分の足元を見て言う。


 ルナは隣で頷く。


「はい。ですが、昨日より近いです」


「そうかな」


「はい」


「じゃあ、明日はもっと近くなるかな」


「なるかもしれません」


「ならなかったら?」


「その場合は、明後日も確認しましょう」


 ミオは笑った。


「ルナって、時々すごく学校っぽいこと言うよね」


「学校っぽいとは何でしょうか」


「明日も来る前提で話すこと」


 ルナは少し考えた。


 それから、頷いた。


「それは、よいことだと思います」


     *


 ルナの正式登録の日。


 夜間部の事務室には、サエ、リツ、ミオ、そしてルナがいた。


 ルルトはいない。


 本人曰く、「書類と戦う場面は、殺し屋の領分ではない」らしい。


 リツはそれを聞いて、「絶対めんどくさいから逃げただけだろ」と言った。


 たぶん、半分は当たっている。


 端末の前に座ったサエは、ルナの登録情報を確認していた。


 氏名、ルナ。


 種別、少女型機械人形。


 所属、帝都月影高等学院・夜間特別課程。


 保護責任者、申請中。


 所有者。


 そこで端末が止まる。


 サエは眉間を押さえた。


「やはり、ここで止まりますね」


「所有者欄が空欄のままでは登録できません、ってやつ?」


 リツが横から覗く。


 サエは頷いた。


「機械人形の生徒登録は前例があります。ただ、ほとんどは家庭の所有者、保護者、または所属法人が記入されています」


「所属法人は嫌だよな」


 ミオが小さく言う。


 ルナは頷いた。


「はい。嫌です」


「ルルトさんを保護責任者にする案もありますが」


 サエが言うと、リツが即座に顔をしかめた。


「あの人、保護責任者って感じじゃないでしょ」


「同意します」


 ルナも言った。


 サエは少し困ったように笑った。


「本人が聞いたら怒りそうですね」


「怒らないと思います」


「そうですか?」


「はい。たぶん、心外だと言うだけです」


 ルナは端末を見た。


 所有者欄。


 空白。


 以前なら、そこが空白であることが怖かった。


 誰にも登録されていない。


 誰にも守られていない。


 誰のものでもない。


 この街では、それは自由ではなく危険を意味していた。


 でも今は。


 ルナはキーボードへ手を伸ばした。


「入力してもよろしいでしょうか」


 サエが少し目を見開く。


「ええ」


 ルナは、ゆっくり文字を打った。


 本人。


 端末は一度、エラーを出した。


 登録規定外。

 所有者欄に本人は入力できません。

 保護者または所有者情報を入力してください。


 ルナは端末を見つめた。


 リツがぼそりと言う。


「書類の敵、強いな」


「はい。強敵です」


 ミオが小さく笑う。


 サエはしばらく端末を見ていた。


 そして、管理者権限を開いた。


「例外として認めます」


 電子承認印が表示される。


 御門サエ。


 夜間部管理責任者。


 承認。


 端末がもう一度処理を行う。


 数秒。


 長い数秒だった。


 やがて、画面が切り替わる。


 登録完了。


 氏名、ルナ。

 所有者、本人。


 ルナは画面を見つめた。


 何も言わない。


 ただ、目を瞬かせる。


 ミオがそっと言った。


「おめでとう、ルナ」


 リツが笑う。


「これで書類に勝ったな」


「はい」


 ルナは、自分の胸に手を当てた。


「勝ちました」


 サエは少しだけ笑った。


「勝った後も、書類は増えますけれどね」


「……強敵は続くのですね」


「学校ですから」


     *


 夕方の〈ホーム〉は、相変わらず騒がしかった。


 違法屋台の蒸気。


 排熱パイプの白い湯気。


 古いアパートの階段。


 廊下の血痕は、誰かが適当に水で流したせいで、さらに汚く広がっている。隣室では今日も喧嘩が起きていたが、銃声はない。代わりに皿の割れる音がした。


 ルナは制服姿で階段を上がった。


 帝都月影高等学院・夜間部の制服。


 昼の生徒の制服とは少し違う。


 動きやすく、夜道でも目立ちすぎず、義体や機械人形の調整にも対応できるよう、袖口や襟元が工夫されている。


 胸には学生証。


 氏名、ルナ。


 所有者、本人。


 ルナはそれを何度も見てしまう。


 見すぎて、階段を一段踏み外しかけた。


 危ない。


 彼女は慌てて体勢を立て直す。


 地図機能は相変わらず壊れている。


 けれど、アパートまでの道はもう覚えた。


 ルナは部屋の前に立ち、扉を開けた。


「ただいま帰りました、ルルト様」


 部屋の中から、返事があった。


「おかえり」


 ルルトは台所に立っていた。


 黒いシャツの袖をまくり、鍋をかき混ぜている。胸元にはまだ包帯がある。完全には治っていない。けれど、顔色は以前より少しだけ戻っていた。


 台所に立つ宵の明星。


 裏社会で恐れられる探偵寄りの殺し屋。


 その手元では、安い鍋がぐつぐつと煮えている。


 ルナは少し驚いた。


「ルルト様が夕食を」


「料理をする殺し屋は珍しいかな」


「珍しいと思います」


「偏見だね。殺し屋も食事をする」


「それは、そうですが」


「座っていなさい。右手首にまだ負担をかけない方がいい」


 ルナは言われた通り、テーブルについた。


 部屋は以前と同じだった。


 古い壁。


 狭い台所。


 資料の積まれた机。


 窓の外に広がる帝都エデンの夜景。


 でも、少し違って見えた。


 ここは、拾われた場所。


 帰ってくる場所。


 けれど、所有される場所ではない。


 ルルトが皿を並べる。


「学校はどうだった?」


 ルナは少し考えた。


 答えはたくさんあった。


 登録が大変だった。


 書類が強敵だった。


 ミオが笑った。


 リツが居眠りした。


 サエが例外承認を押してくれた。


 自分の名前が学生証に載った。


 でも、一番近い言葉を探す。


「怖かったです」


「そう」


「面倒でした」


「学校らしい」


「知らないことばかりでした」


「それも学校らしい」


「ですが」


 ルナは顔を上げた。


「明日も行きます」


 ルルトは皿を置いた。


 湯気が立つ。


 彼は、いつものように少しだけ目を細めた。


「そうかい」


「止めないのですか?」


「理由があるなら、とっくに止めている」


 ルナは、その言葉を聞いて少しだけ笑いそうになった。


 ルルトは続ける。


「理由がないから、好きにすればいい」


「それは、以前も似たようなことをおっしゃいました」


「ボクは言葉の再利用が好きでね。エコロジーだ」


「それは違うと思います」


「違うか」


「はい」


 二人は向かい合って座った。


 食事は、少しだけ塩気が強かった。


 ルナは味覚センサーでそれを検出したが、言わなかった。


 代わりに、ゆっくり食べた。


 窓の外には、帝都エデンの夜景が広がっている。


 ホウジュ区の光。


 カミハラ区の研究塔。


 遠く、帝都月影高等学院の校舎。


 昼の光は消え、夜の窓だけが淡く灯っていた。


 その灯りは、以前より少しだけ暖かく見えた。


 ルルトはふと、自分の足元を見た。


 影がある。


 黒いコートの裾から伸びる、いつもの影。


 影縫いの傷はまだ完全ではないが、そこにある。


 その隣に、小さなルナの影が並んでいた。


 以前、窓硝子に映ったルナの影は、本人と違う角度で首を傾げていた。


 今、床に落ちるルナの影は、彼女の隣にいる。


 完全に同じ動きではない。


 ほんの少し遅れる。


 ほんの少しだけ、別の少女の影を内側に含んでいる。


 けれど、それはルナから離れていない。


 ルナはルルトの視線に気づいた。


「どうかなさいましたか」


「いや」


 ルルトは皿を手に取る。


「影が二つ並んでいると思ってね」


「変でしょうか」


「変だよ」


 ルナは少し固まる。


 ルルトは続けた。


「だが、この街では、変であることと間違っていることは別問題だ」


 ルナは瞬きをした。


 それから、小さく笑った。


「はい」


 窓の外で、帝都の夜が瞬く。


 影は本体に従うだけではない。


 時には、本体の隣を歩く。


 月影の教室では、明日も誰かが、自分の名前を名乗る練習をする。


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