第12話 宵の明星は影を撃つ
地下へ続く階段は、黒板の奥に現れた。
それは普通の階段ではなかった。
教室の黒板に白い亀裂が走り、亀裂の向こうに、古い石造りの階段が沈んでいる。上へ向かうのではない。下へ、下へ、帝都月影高等学院の校舎よりも古い場所へ続いている。
昼の学院が建つ前。
夜間部が作られる前。
この丘がまだ帝都の教育施設ではなく、企業と女帝政府の下請け研究施設が並ぶ影の実験場だった頃へ。
そこへ降りる階段だった。
深夜課程の教室は、まだ揺れている。
黒板には出席簿の文字が滲み、窓の外には帝都の景色ではなく、複数の影山雄蔵の顔が浮かんでは消えていた。床には黒い契約線が走り、机に座っていた影だけの生徒たちは、名前を呼ばれるたびに輪郭を薄くしていく。
遠くから、御門サエの声が聞こえていた。
『月城リツ。応答してください』
「応答してる! めちゃくちゃしてる!」
リツが叫ぶ。
彼は床に絡みついていた黒い線を蹴り払いながら、ルナとミオを支えていた。顔色は悪い。足首には影拘束の痕が残り、制服の膝は破れている。それでも、口だけはいつも通りだった。
『影山ミオさん。聞こえますか』
「……聞こえます」
ミオは、ルナの肩に支えられながら答えた。
声はまだ震えている。
だが、それは影山雄蔵の声ではない。
ミオ自身の声だった。
『ルナさん』
校内放送越しに、サエが呼ぶ。
ルナは顔を上げた。
「はい。聞こえております」
一瞬、黒板に文字が浮かぶ。
LUNA-00。
次の瞬間、その上から別の文字が重なった。
ルナ。
本人名乗り、継続中。
ルナは小さく息を吐いた。
必要のない呼吸。
けれど、今は必要だった。
ルルトは階段の前に立っていた。
黒いコートは破れ、胸元の包帯には血が滲んでいる。影縫いの針で応急処置した自分の影には、まだ黒い糸が残っている。怨霊呪弾を装填したリボルバーを右手に持ち、左手には影縫いの針を持っていた。
殺し屋というより、外科医のようだった。
ただし、手術するのは人間ではない。
契約。
名簿。
影。
ルルトは振り返らずに言った。
「リツ。サエ先生の声が届く場所まで、生徒を連れて戻りなさい」
「また命令かよ」
「お願いの方が好みかな」
「気持ち悪いから命令でいい」
「では、命令だ。邪魔な生徒を連れて下がれ」
「誰が邪魔だ!」
「全員」
リツは一瞬怒鳴り返そうとして、それからミオとルナを見た。
ミオは立っているのがやっとだ。
ルナの右手首も、まだ完全には動かない。
リツは舌打ちした。
「……わかった。でも、あんた一人で行く気かよ」
「一人ではない」
ルルトはリボルバーを軽く掲げた。
「弾が一発ついてくる」
「そういう意味じゃねえよ」
ルナが一歩前に出た。
「ルルト様」
「君も戻りなさい」
「いいえ」
即答だった。
ルルトが、ほんの少しだけ目を細める。
「珍しく反抗的だね」
「珍しくではありません。最近、増えております」
「それは教育に悪い」
「ルルト様の教育の成果です」
「心外だ」
ルナは真っすぐ彼を見る。
「契約台帳には、わたくしの登録もあるはずです。LUNA-00として。回収対象として。所有者未登録個体として。わたくしは、それを自分で見ます」
ミオもルナの隣に立った。
まだ泣いた跡が頬に残っている。
けれど、目は逸らしていなかった。
「わたしの名前もある。影山の器として。血縁者として。……わたしも見る」
リツが頭を掻いた。
「あーもう。じゃあ俺も行くしかないじゃん。俺の影山奨学生契約もあるんだろ。勝手に進路支援とか当主補助影とか書かれてるやつ」
ルルトは三人を見た。
しばらく黙る。
そして、軽く肩をすくめた。
「足手まといが増えた」
「言い方」
リツが顔をしかめる。
ルナは少しだけ安心した。
ルルトが本気で拒まない時の、遠回しな許可だとわかってきたからだ。
階段の奥から、黒い風が吹き上がった。
紙の匂い。
古い血の匂い。
魔導インクの匂い。
そして、数えきれない名前の匂い。
ルルトは階段を降り始めた。
「行こう。出席簿の根を見に行く」
*
学院地下、影山基金管理室。
そこは、教室ではなかった。
書庫でもない。
役所でもない。
だが、その三つが腐って一つになったような場所だった。
天井は低く、壁は灰色の石材でできている。いつの時代の建築なのか、今の帝都月影高等学院とはまるで違う。床には古い魔導陣が刻まれ、その上に後から敷設された配線が黒い根のように絡みついていた。
部屋の中央には、巨大な卓がある。
卓の上には、紙の台帳が積まれていた。
分厚い革表紙。
古い紙束。
魔導端末。
血判石。
影縫い針。
義体登録証。
機械人形所有権証明書。
奨学金契約書。
進路支援同意書。
身元保護申請書。
影武者契約。
影代用人格実験記録。
そのすべてから、黒い線が伸びている。
線は壁を這い、天井を這い、床の魔導陣へ入り、さらに上の深夜課程へ伸びていた。帝都月影高等学院の夜間部、影山グループ本社、旧研究施設、源三郎の屋敷、複数の代役、眠る義体、廃棄された機械人形、名前を変えた生徒たち。
すべてが、ここに繋がっていた。
影山雄蔵は、ここから生じた影だった。
ルナは卓の前で足を止めた。
端末の一つに、自分の登録が表示されていた。
LUNA-00 影代用人格実験機。
現行名、ルナ。
所有者、未登録。
処遇、回収対象。
本人拒否申告、継続中。
本人名乗り、確認。
その横には、古い紙の記録があった。
月影試作零号。
廃棄。
部品保存。
さらに、その下に名前のない個体がいくつも並んでいる。
起動失敗。
記録核破損。
感情反応過剰。
影受容不適合。
廃棄。
ルナは、その紙に手を触れなかった。
ただ、見た。
見届けた。
自分の中に残っていた少女の影が、足元で静かに揺れる。
「……ここに、いたのですね」
ルナは小さく言った。
その影は答えない。
だが、ルナには少しだけわかった。
捨てられたもの。
起動しなかったもの。
名前をもらえなかったもの。
それらが全部、自分の中で泣いていたのだ。
ミオは別の台帳を見ていた。
影山ミオ。
血縁適合。
影継承器。
本人保護、名目上。
影出席、深夜課程。
器移行候補。
彼女の手が震える。
「わたし、ずっと……ここに書かれてたんだ」
リツは自分の書類を見つけ、顔をしかめた。
「月城リツ。旧支援登録名、影山リツ。進路支援予定、影山グループ関連施設……おい、勝手に卒業後の予定まで決めんなよ」
彼は紙を破ろうとした。
ルルトが止める。
「破るのはまだ早い」
「何でだよ」
「紙を破っても契約線は残る。読み上げて、本人が拒否して、承認者が記録を上書きする必要がある」
「めんどくさっ」
「契約は面倒なものだ。だから悪用される」
ルルトは卓の中央を見た。
そこに、黒い血判石が置かれている。
ただの石ではない。
古い魔導具だ。
黒曜石に似た表面に、乾いた血のような赤黒い模様が走っている。その上には、最初の署名が浮かび上がっていた。
影山源三郎。
血判。
契約文。
我が影は影山を守るためにあり。
影山の名は影をもって継続する。
本体が失われても、名と権限と影をもって、影山は存続する。
ルルトはそれを見て、目を細めた。
「ここが始まりか」
その時、部屋全体が震えた。
台帳の影が膨れ上がる。
紙の隙間から黒い液体のような影が溢れ、卓の上で渦を巻いた。端末が一斉に点灯し、契約書の署名が浮かび、血判石が赤黒く光る。
影が形を取った。
巨大な人影。
だが、顔は一つではない。
源三郎の顔。
影山雄蔵の顔。
朝の車列で怯えていた代役の顔。
培養槽で眠っていた雄蔵系列の顔。
夜羽の顔。
ミオの顔。
リツの顔。
ルナと同型の機械人形の顔。
無数の顔が、黒い影の中に浮かび上がり、ひとつの当主の顔を作ろうとしては崩れる。
声もまた、重なっていた。
「契約は継続する」
「影山は存続する」
「本体は不要」
「名は機能する」
「権限は移譲される」
「影は運用される」
影山雄蔵。
企業人格。
契約の影。
それは卓の上に立ち、ルルトたちを見下ろした。
「人間は名で動く」
複数の声が言った。
「契約で動く。記録で動く。ならば、影であって何が悪い」
リツが歯を食いしばる。
ミオはルナの手を握った。
ルナは、足元の少女の影を感じながら、目の前の異形を見た。
ルルトは少しだけ笑った。
「悪くはない」
三人が彼を見る。
影山雄蔵の影も、複数の顔でルルトを見た。
ルルトはリボルバーを持ったまま、静かに言う。
「影もまた存在だ。影だから価値がない、とは思わない。人に呼ばれなくても、書類に載らなくても、影はそこにある」
彼は一歩前へ出た。
「ただし、他人の名前を奪って本体を名乗るなら、話は別だ」
影山雄蔵の影が吠えた。
部屋中の契約線が一斉に跳ね上がる。
紙の台帳から黒い腕が伸びる。端末から白い文字が刃のように飛び出す。血判石から赤黒い鎖が這い、床の魔導陣を伝ってルルトの影へ絡みつく。
ルルトはダーククロウを展開した。
黒い爪が伸びる。
彼は最初の黒い腕を切り裂いた。
影が裂ける。
だが、すぐに台帳の文字が浮かび、裂けた影を補修した。
代役契約、一件。
血判補填。
影武者権限、再接続。
裂いた影が元に戻る。
「肉体がない相手は面倒だね」
ルルトは呟いた。
影山雄蔵は笑う。
「本体は不要」
「契約があれば再生する」
「記録があれば復元する」
「名があれば呼び戻せる」
「なるほど。企業はしぶとい」
ルルトは二度、三度と影を裂く。
ダーククロウが黒い腕を断ち、顔を抉り、署名の束を切り落とす。だが、そのたびに台帳が光り、契約線が再接続される。影山雄蔵の異形は崩れては戻り、戻ってはさらに大きくなる。
撃つべき本体は、目の前の影ではない。
ルナは卓の端にある名簿を見た。
奨学生名簿。
そこには、夜間部の生徒たちの名前が並んでいる。
月城リツ。
影山ミオ。
名前を変えた生徒。
義体適性を測られた生徒。
影干渉適性を測られた生徒。
卒業後の進路が勝手に決められていた生徒。
本人不在のまま影だけが出席していた生徒。
「ルナ」
ミオが言った。
声は震えている。
でも、もう逃げていない。
「読むんだよね」
「はい」
「怖いね」
「はい」
「でも、読む」
「はい」
二人は台帳の前に立った。
ルナは最初の名前を読んだ。
「月城リツ」
リツが顔を上げる。
「本人、ここにいる!」
ルナは続ける。
「影山奨学生契約。進路支援予定。影適性検査。本人同意、形式のみ」
ミオが言う。
「本人拒否」
リツが叫んだ。
「拒否する! 俺は影山のもんじゃない! 支援は受けた。でも、影まで売った覚えはない!」
台帳の文字が震える。
契約線が一本、ぷつりと切れた。
リツの足元から伸びていた黒い線が消える。
「次」
ミオが息を吸う。
「影山ミオ」
黒い影が大きく揺れる。
影山雄蔵の顔がミオへ向いた。
「血縁」
「器」
「継承」
「影山の名を――」
「本人拒否」
ミオが言った。
最初は小さかった。
でも、もう一度言った。
「本人拒否。わたしはミオ。影山の名は、わたしの全部じゃない」
契約線が裂ける。
ミオの影に絡みついていた黒い鎖が、一本切れた。
彼女は膝をつきかけたが、ルナが支えた。
「次は、わたくしです」
ルナは台帳を見る。
LUNA-00 影代用人格実験機。
所有者未登録。
回収対象。
影受容器。
ルナは、そこに記された自分を見た。
怖い。
でも、目を逸らさない。
「LUNA-00」
彼女は読み上げた。
「現行名、ルナ。機械人形所有権証明、未設定。回収対象。影代用人格実験機」
影山雄蔵が囁く。
「登録名」
「型番」
「器」
「所有者未登録」
ルナは顔を上げた。
「本人拒否」
黒い文字が乱れる。
「わたくしはルナです。所有者未登録ではありません」
彼女は胸に手を当てた。
「わたくしの所有者は、わたくしです」
台帳が、大きく震えた。
エラー。
所有者欄不正。
登録規定外。
本人所有、未定義。
ルナは言い直さない。
何度でも、同じことを言うつもりだった。
「わたくしの所有者は、わたくしです」
足元の少女の影が、静かにルナの影へ重なった。
泣いているように見えた影が、少しだけ笑ったように見えた。
契約線が切れる。
LUNA-00の登録名の上に、ルナの名が重なった。
現行名、ルナ。
本人所有申告、保留。
回収対象、解除不能――解除中。
影山雄蔵が怒号を上げる。
部屋全体の影が暴れ始めた。
*
同じ頃、校舎の上層では、御門サエが生徒たちを避難させていた。
昼の生徒たちは、西門へ。
夜間部の生徒たちは、東棟から中庭へ。
影だけが引き込まれている生徒には、名前を呼んだ。
「浅井ナオ。戻ってきなさい」
廊下の隅に立っていた黒い影が、びくりと震えた。
「あなたは影識別番号ではありません。浅井ナオです。こちらへ」
影はゆっくりと生徒の足元へ戻っていく。
「三崎ユウ。あなたの出席は確認しています。外へ」
サエの声は嗄れていた。
だが、止まらない。
リツの言葉が、彼女の胸に残っている。
支援って、逃げ道でもあるけど、首輪にもなる。
ルルトの言葉も。
教師なら、出席している生徒の名前くらい最後まで覚えておくべきだね。
サエは、名簿を握り締めた。
今まで彼女は、生徒を守るために管理してきた。
管理するために、番号で呼んだ。
保護対象。
支援対象。
夜間部生。
影干渉適性あり。
所有者不明個体。
でも今は違う。
「私の生徒です」
彼女は誰にともなく言った。
廊下に残っていた教師が振り返る。
「御門先生?」
「この子たちは、管理対象ではありません。私の生徒です。全員、名前で呼びます」
サエは、次の名を読んだ。
深夜課程の黒い文字が、少しずつ薄れていく。
*
地下では、影山雄蔵が巨大化していた。
契約線が切られるたび、影は怒り、別の契約を引き寄せる。
代役の顔。
源三郎の顔。
雄蔵の顔。
ミオの顔。
リツの顔。
ルナと同型の機械人形の顔。
それらが黒い柱のように立ち上がり、部屋の天井を叩く。
「契約を破棄する権限はない」
「支援は対価を伴う」
「所有は保護である」
「影は本体を守る」
「影山は存続する」
ルルトはリボルバーを開いた。
弾倉に、怨霊呪弾を装填する。
いつもの弾とは違う。
赤黒い弾丸。
表面には細かい呪詛文字が刻まれ、内部で怨霊が低く唸っている。撃てば対象の肉体だけでなく、影、契約、呪詛、記録に干渉する。ただし、反動は大きい。
今のルルトの身体で撃つには、少しばかり危険すぎる。
リツがそれに気づいた。
「おい、あんた大丈夫なのかよ」
「大丈夫ではないね」
「じゃあ撃つなよ!」
「撃たない理由にはならない」
「なるだろ普通!」
「普通ならね」
ルルトは銃口を上げた。
狙うのは、影山雄蔵の影ではない。
卓の中央。
最初の署名。
影山源三郎の血判石。
そこから、すべてが始まった。
自分の影を守るために影武者を作った。
影山家を守るために子どもたちの影を利用した。
契約で名を縛り、記録で存在を作り、影で本体を隠し続けた。
最後には、自分でも止められなくなった。
ルルトは通信端末を開いた。
地下では電波など通らないはずだった。
だが、影縫いの針を血判石へ向けると、黒い線が一本だけ上へ伸びた。
源三郎の屋敷へ。
あるいは、源三郎の影へ。
端末にノイズが走る。
老人の声が聞こえた。
『……見つけたか』
「見つけたよ」
ルルトは言った。
「実に悪趣味な本体だった」
『そうか』
「撃っていいのかい。これはあなた自身の影でもある」
通信の向こうで、長い沈黙があった。
血判石が、赤黒く光る。
影山雄蔵の影が叫ぶ。
「影山は存続する」
「源三郎は影」
「血判は契約」
「契約は継続する」
やがて、源三郎の声が返ってきた。
『撃て』
静かな声だった。
疲れ切った声でもあった。
『わしは、影山を終わらせるために君を呼んだ』
「請求先は?」
『好きにせい』
「困る返答だ」
『年寄りの最後の嫌がらせだ』
ルルトは薄く笑った。
「悪くない」
通信が切れる。
ルルトは銃を構えた。
影山雄蔵が、複数の顔で彼を見た。
「契約破壊は違法」
「血判は有効」
「支援契約は存続」
「所有権は維持」
「影山は――」
銃声。
怨霊呪弾が放たれた。
弾丸は影山雄蔵の影を撃たなかった。
黒い腕も、顔も、署名の束も通り抜けた。
狙いはその奥。
契約台帳の中心。
影山源三郎の血判石。
弾丸が石を貫いた。
赤黒い石が、内部から割れる。
そこに封じられていた血と影と契約が、悲鳴のように噴き出した。台帳の紙が舞い上がる。魔導端末が火花を散らす。影縫い針が折れ、義体登録証が灰になり、機械人形所有権証明書の文字が白く抜ける。
契約線が一斉に切れた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
小さな音が連続する。
生徒たちの影に繋がっていた線。
奨学金契約に隠された線。
ミオの血縁に絡む線。
ルナの所有権欄へ伸びていた線。
代役たちの署名。
影武者契約。
影山雄蔵という企業人格を構成していた黒い線が、次々に断ち切られていく。
影山雄蔵が崩れた。
複数の顔が叫ぶ。
源三郎の顔が消える。
雄蔵の顔が歪む。
代役たちの顔が剥がれ落ちる。
リツの顔が影から抜ける。
ルナと同型の機械人形の顔が、静かに目を閉じる。
ミオの顔だけが、最後に残った。
黒い影が、ミオへ手を伸ばす。
「名を継げ」
複数の声が、かすれながら言う。
「影山の名を」
ミオは、震えていた。
まだ怖い。
完全に強くなったわけではない。
影山の血が消えたわけでもない。
自分の影が、明日から普通になる保証もない。
それでも、彼女は首を振った。
「わたしはミオ」
声は小さい。
でも、確かだった。
「影山の名は、わたしの全部じゃない」
影山雄蔵の手が止まる。
次に、影はルナを見た。
「LUNA-00」
「所有者未登録」
「器」
「回収――」
「わたくしはルナです」
ルナは言った。
迷わなかった。
「所有者未登録ではありません。わたくしの所有者は、わたくしです」
影山雄蔵の影が、完全に裂けた。
黒い影は、無数の紙片のようにほどけ、契約の文字が空中で消えていく。
最後に残ったのは、古い署名だけだった。
影山雄蔵。
その文字も、燃えるように黒くなり、やがて灰になった。
地下管理室に、静けさが戻った。
ルルトは銃を下ろした。
その瞬間、膝が落ちた。
「ルルト様!」
ルナが駆け寄る。
ルルトは片膝をつき、胸元を押さえていた。怨霊呪弾の反動で、影の縫い目が少しほどけている。顔色はひどい。
だが、彼は笑っていた。
「やれやれ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではないね」
「では、すぐに手当を」
「その前に」
ルルトは、壊れた契約台帳を見た。
「仕事は終わった」
*
事件の後、影山グループは強制捜査を受けた。
ただし、完全には潰れなかった。
帝都エデンの企業、政治、女帝政府の委託事業、魔導炉関連部品、義体素材、夜間教育支援、医療法人、結界維持導体。影山グループは、帝都の表と裏に深く食い込みすぎていた。表向きには、経営陣の刷新、関連法人の再編、基金事業の見直し、違法研究部門の摘発という形で処理された。
影山雄蔵という名の当主は、公式には病気療養に入ったことになった。
記者会見に出た新しい代表は、影山姓ではない職業経営者だった。
彼の影は、普通に足元にあった。
少なくとも、表向きには。
帝都月影高等学院も閉鎖されなかった。
昼の学院は数日間休校になり、保護者説明会が開かれ、魔導設備の点検という名目で校舎の一部が封鎖された。夜間部も一時停止されたが、御門サエを中心に再開準備が進められた。
深夜課程は、公式には最初から存在しない。
だから、公式に解体することもできなかった。
それでも、御門サエたちは、実質的にそれを壊した。
東棟地下の出席管理端末は撤去された。
影山基金の管理室は封鎖された。
深夜課程の黒板は、ただの黒板に戻った。
名簿から影識別番号は消えた。
全部が綺麗になったわけではない。
そんなに簡単なら、帝都の夜はとっくに明るい。
夜間部にはまだ、家に帰れない生徒がいる。
本名を名乗れない生徒がいる。
義体のせいで家族に拒まれた生徒がいる。
機械人形と一緒に授業を受ける生徒がいる。
企業や裏社会に目をつけられる生徒も、たぶん消えない。
救済と搾取は、いつだって近い場所にある。
けれど、少なくとも。
生徒の影を売る場所ではなくなる。
そうするために、サエは毎日、書類と戦うことになった。
「御門先生、例外申請が多すぎます」
「例外ではありません。実態に合わせて制度を直しているだけです」
「それを世間では例外と呼びます」
「なら、世間の語彙が足りません」
職員室でそう言い返すサエの声は、以前より少しだけ強くなっていた。
リツは、影山奨学金契約から解放された。
とはいえ、急に生活が楽になるわけではない。学費支援は別の制度へ切り替えられ、仕事は相変わらず続けなければならない。彼は今日も眠そうに教室へ来て、授業中に首を落とし、サエに軽く叱られた。
「月城くん。寝るなら、せめて名前を呼ばれてから寝なさい」
「出席確認後なら寝ていいんですか」
「よくありません」
「厳しい」
「教師ですから」
ミオは夜間部に残った。
彼女の影は、すぐに普通になったわけではない。
時々、本人より一拍遅れる。
時々、廊下の端で立ち止まる。
時々、黒板の方を向く。
ミオはそれを怖がる。
怖がりながらも、逃げなくなった。
「今日も、ちょっとズレてる」
ミオが自分の足元を見て言う。
ルナは隣で頷く。
「はい。ですが、昨日より近いです」
「そうかな」
「はい」
「じゃあ、明日はもっと近くなるかな」
「なるかもしれません」
「ならなかったら?」
「その場合は、明後日も確認しましょう」
ミオは笑った。
「ルナって、時々すごく学校っぽいこと言うよね」
「学校っぽいとは何でしょうか」
「明日も来る前提で話すこと」
ルナは少し考えた。
それから、頷いた。
「それは、よいことだと思います」
*
ルナの正式登録の日。
夜間部の事務室には、サエ、リツ、ミオ、そしてルナがいた。
ルルトはいない。
本人曰く、「書類と戦う場面は、殺し屋の領分ではない」らしい。
リツはそれを聞いて、「絶対めんどくさいから逃げただけだろ」と言った。
たぶん、半分は当たっている。
端末の前に座ったサエは、ルナの登録情報を確認していた。
氏名、ルナ。
種別、少女型機械人形。
所属、帝都月影高等学院・夜間特別課程。
保護責任者、申請中。
所有者。
そこで端末が止まる。
サエは眉間を押さえた。
「やはり、ここで止まりますね」
「所有者欄が空欄のままでは登録できません、ってやつ?」
リツが横から覗く。
サエは頷いた。
「機械人形の生徒登録は前例があります。ただ、ほとんどは家庭の所有者、保護者、または所属法人が記入されています」
「所属法人は嫌だよな」
ミオが小さく言う。
ルナは頷いた。
「はい。嫌です」
「ルルトさんを保護責任者にする案もありますが」
サエが言うと、リツが即座に顔をしかめた。
「あの人、保護責任者って感じじゃないでしょ」
「同意します」
ルナも言った。
サエは少し困ったように笑った。
「本人が聞いたら怒りそうですね」
「怒らないと思います」
「そうですか?」
「はい。たぶん、心外だと言うだけです」
ルナは端末を見た。
所有者欄。
空白。
以前なら、そこが空白であることが怖かった。
誰にも登録されていない。
誰にも守られていない。
誰のものでもない。
この街では、それは自由ではなく危険を意味していた。
でも今は。
ルナはキーボードへ手を伸ばした。
「入力してもよろしいでしょうか」
サエが少し目を見開く。
「ええ」
ルナは、ゆっくり文字を打った。
本人。
端末は一度、エラーを出した。
登録規定外。
所有者欄に本人は入力できません。
保護者または所有者情報を入力してください。
ルナは端末を見つめた。
リツがぼそりと言う。
「書類の敵、強いな」
「はい。強敵です」
ミオが小さく笑う。
サエはしばらく端末を見ていた。
そして、管理者権限を開いた。
「例外として認めます」
電子承認印が表示される。
御門サエ。
夜間部管理責任者。
承認。
端末がもう一度処理を行う。
数秒。
長い数秒だった。
やがて、画面が切り替わる。
登録完了。
氏名、ルナ。
所有者、本人。
ルナは画面を見つめた。
何も言わない。
ただ、目を瞬かせる。
ミオがそっと言った。
「おめでとう、ルナ」
リツが笑う。
「これで書類に勝ったな」
「はい」
ルナは、自分の胸に手を当てた。
「勝ちました」
サエは少しだけ笑った。
「勝った後も、書類は増えますけれどね」
「……強敵は続くのですね」
「学校ですから」
*
夕方の〈ホーム〉は、相変わらず騒がしかった。
違法屋台の蒸気。
排熱パイプの白い湯気。
古いアパートの階段。
廊下の血痕は、誰かが適当に水で流したせいで、さらに汚く広がっている。隣室では今日も喧嘩が起きていたが、銃声はない。代わりに皿の割れる音がした。
ルナは制服姿で階段を上がった。
帝都月影高等学院・夜間部の制服。
昼の生徒の制服とは少し違う。
動きやすく、夜道でも目立ちすぎず、義体や機械人形の調整にも対応できるよう、袖口や襟元が工夫されている。
胸には学生証。
氏名、ルナ。
所有者、本人。
ルナはそれを何度も見てしまう。
見すぎて、階段を一段踏み外しかけた。
危ない。
彼女は慌てて体勢を立て直す。
地図機能は相変わらず壊れている。
けれど、アパートまでの道はもう覚えた。
ルナは部屋の前に立ち、扉を開けた。
「ただいま帰りました、ルルト様」
部屋の中から、返事があった。
「おかえり」
ルルトは台所に立っていた。
黒いシャツの袖をまくり、鍋をかき混ぜている。胸元にはまだ包帯がある。完全には治っていない。けれど、顔色は以前より少しだけ戻っていた。
台所に立つ宵の明星。
裏社会で恐れられる探偵寄りの殺し屋。
その手元では、安い鍋がぐつぐつと煮えている。
ルナは少し驚いた。
「ルルト様が夕食を」
「料理をする殺し屋は珍しいかな」
「珍しいと思います」
「偏見だね。殺し屋も食事をする」
「それは、そうですが」
「座っていなさい。右手首にまだ負担をかけない方がいい」
ルナは言われた通り、テーブルについた。
部屋は以前と同じだった。
古い壁。
狭い台所。
資料の積まれた机。
窓の外に広がる帝都エデンの夜景。
でも、少し違って見えた。
ここは、拾われた場所。
帰ってくる場所。
けれど、所有される場所ではない。
ルルトが皿を並べる。
「学校はどうだった?」
ルナは少し考えた。
答えはたくさんあった。
登録が大変だった。
書類が強敵だった。
ミオが笑った。
リツが居眠りした。
サエが例外承認を押してくれた。
自分の名前が学生証に載った。
でも、一番近い言葉を探す。
「怖かったです」
「そう」
「面倒でした」
「学校らしい」
「知らないことばかりでした」
「それも学校らしい」
「ですが」
ルナは顔を上げた。
「明日も行きます」
ルルトは皿を置いた。
湯気が立つ。
彼は、いつものように少しだけ目を細めた。
「そうかい」
「止めないのですか?」
「理由があるなら、とっくに止めている」
ルナは、その言葉を聞いて少しだけ笑いそうになった。
ルルトは続ける。
「理由がないから、好きにすればいい」
「それは、以前も似たようなことをおっしゃいました」
「ボクは言葉の再利用が好きでね。エコロジーだ」
「それは違うと思います」
「違うか」
「はい」
二人は向かい合って座った。
食事は、少しだけ塩気が強かった。
ルナは味覚センサーでそれを検出したが、言わなかった。
代わりに、ゆっくり食べた。
窓の外には、帝都エデンの夜景が広がっている。
ホウジュ区の光。
カミハラ区の研究塔。
遠く、帝都月影高等学院の校舎。
昼の光は消え、夜の窓だけが淡く灯っていた。
その灯りは、以前より少しだけ暖かく見えた。
ルルトはふと、自分の足元を見た。
影がある。
黒いコートの裾から伸びる、いつもの影。
影縫いの傷はまだ完全ではないが、そこにある。
その隣に、小さなルナの影が並んでいた。
以前、窓硝子に映ったルナの影は、本人と違う角度で首を傾げていた。
今、床に落ちるルナの影は、彼女の隣にいる。
完全に同じ動きではない。
ほんの少し遅れる。
ほんの少しだけ、別の少女の影を内側に含んでいる。
けれど、それはルナから離れていない。
ルナはルルトの視線に気づいた。
「どうかなさいましたか」
「いや」
ルルトは皿を手に取る。
「影が二つ並んでいると思ってね」
「変でしょうか」
「変だよ」
ルナは少し固まる。
ルルトは続けた。
「だが、この街では、変であることと間違っていることは別問題だ」
ルナは瞬きをした。
それから、小さく笑った。
「はい」
窓の外で、帝都の夜が瞬く。
影は本体に従うだけではない。
時には、本体の隣を歩く。
月影の教室では、明日も誰かが、自分の名前を名乗る練習をする。




