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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
8/12

第8話 影の手術道具

 〈ホーム〉には、病院へ行けない者のための医者がいる。


 もちろん、看板は出ていない。


 表通りの診療所なら、白い看板に診療時間と保険適用の有無が書かれている。カミハラ区の医療施設なら、入口に女帝政府の認証番号が掲げられ、義体対応、魔導災害後遺症対応、機械人形整備対応などの項目が端末に表示されている。


 だが、〈ホーム〉の裏医者にそんなものはない。


 古いビルの地下。


 廃棄された飲食店の厨房を改装したような部屋。


 壁には古い配管が走り、天井からは赤錆びた換気扇がぶら下がっている。消毒液の匂いと、油と、煙草と、魔導炉の排熱に焼けた金属の匂いが混じっていた。医療用ベッドは三台あるが、どれも型が違う。義体整備台も一つ。人間用の輸血パックの隣に、機械人形用の冷却液が置かれている。


 ここでは、人間も、義体も、機械人形も、裏社会の連中も、名前を聞かれずに寝かされる。


 名前を聞かない代わりに、料金は高い。


 ルルトは、その中央のベッドに横たわっていた。


 上半身裸で、胸から腹にかけて包帯が巻かれている。包帯の下には、まだ完全に塞がっていない傷がある。胸元の十字刻印の一部は黒く焼け、皮膚の下で影のようなものが滲んでいた。


 彼の白銀の髪はまだ乾ききっていない。


 唇は薄く紫がかっている。


 いつもの紅い毒花のような色ではない。


 隣の椅子にはルナが座っていた。


 彼女も無傷ではない。右手首には固定具が巻かれ、背中の外装パネルは応急処置で閉じられている。旧第七研究施設から脱出する時、完全に拘束を外す前に無理に動いたせいで、右腕の人工筋肉と手首のフレームを傷めていた。


 それでも、ルナは自分の傷より、ベッドの上のルルトを見ていた。


 見るたびに、胸の奥がざわつく。


 ルルトは傷つかない人だと思っていたわけではない。


 銃弾を受け、身体を貫かれ、血を流すところは何度も見た。だが、そのたびに傷は塞がった。何もなかったように立ち上がり、皮肉を言い、服代を請求した。


 だから、どこかで思っていたのかもしれない。


 ルルト様は、壊れない。


 そうではなかった。


 今、彼の傷は塞がっていない。


 裏医者はベッドの横で、煙草を咥えたままルルトの胸元を見ていた。


 名はシジマという。


 年齢は不詳。髪は灰色で、片目は義眼。左手の指先はすべて義体化されており、爪の代わりに極細の医療用器具が折り畳まれている。医師免許があるのかどうかは誰も知らない。だが〈ホーム〉では、撃たれた者、切られた者、義体が暴走した者、名前を出せない者は、たいてい最後にここへ転がり込む。


 シジマは煙を吐いた。


「ひでえな」


「ひどい言葉だね。患者に優しくない」


 ルルトは目を閉じたまま言った。


「患者に優しくしてほしけりゃ、保険証持って表の病院へ行け」


「表の病院は嫌いでね」


「表の病院もおまえが嫌いだよ」


 シジマは包帯を少しだけめくり、十字刻印の周囲を確認した。


 黒い筋が、刻印から脇腹へ向かって走っている。


 傷ではない。


 影だ。


 ベッドの上のルルトの身体に落ちる影が、胸元のあたりで裂けている。照明の角度を変えても、裂け目は動かない。肉体の傷ではなく、影そのものに刻まれた亀裂だった。


 ルナはそれを見て、指を握った。


「ルルト様の影が……」


「裂けてるな」


 シジマは淡々と言った。


「肉の方は放っておいても塞がる。こいつの身体はそういうふうに壊れてる。だが、影の方が駄目だ。影が裂けてるから、本体の再生も引っ張られて止まってる」


「影が裂けると、身体の傷も治らないのですか」


「人間は、自分の形を影でも確認してる。普通の医者はそんなこと言わねえが、魔導医療だと基本だ。影ってのは、光を遮った黒い跡じゃない。身体が世界に落とす二枚目の輪郭だ」


 シジマは金属のトレーに、血で汚れた針を落とした。


「肉体の傷なら縫える。だが、影の傷は道具が違う」


 ルルトが薄く目を開けた。


「それで、治せない言い訳かな」


「治せないとは言ってない。ここには道具がないと言ってる」


「道具」


「影縫いの針。影を固定して、裂け目を縫い合わせる古い魔導具だ。今の医療機器じゃない。呪具に近い」


「影山家か」


 シジマは煙草を灰皿へ押しつけた。


「知ってるなら聞くな」


「確認だよ」


「影を縫う道具は、もともと影武者を作るためのものだ。本人の影を切り分ける。影武者の影に縫い付ける。記録と顔と声だけじゃ足りないものを、影で補う。そんな胸糞悪い手術に使った道具がある」


 ルナの身体が、わずかに震えた。


 影武者。


 誰かの代わり。


 月影試作系列。


 研究施設で聞いた言葉が、また胸の内側を刺す。


 シジマはルナを見た。


「嬢ちゃんにも関係ある話らしいな」


「……わたくしは」


「言わなくていい。ここじゃ、言いたくない名前は言わなくていい。言いたい名前だけ言え」


 ルナは少しだけ目を見開いた。


 ルルトが、ベッドの上で小さく笑った。


「珍しくいいことを言う」


「おまえに褒められると医療事故を起こしたくなる」


「それは困る」


「なら大人しく寝てろ」


「寝ている場合ではない」


 ルルトは身体を起こそうとした。


 その瞬間、胸の傷から黒い血が滲み、彼は小さく息を詰めた。


 ルナが立ち上がる。


「ルルト様」


「座っていなさい」


「ですが」


「君の右手の方が、今は外れやすい」


「わたくしのことは」


「患者が増えると、料金が増える」


 ルナは言葉を失った。


 心配しているのか、費用の話をしているのか、いつも通りわからない。


 だが、ルルトの額には薄く汗が浮かんでいた。


 ルナはゆっくりと椅子に座り直した。


 シジマは溜息をついた。


「影山の屋敷へ行くつもりか」


「ほかに道具のありかを知っている者がいない」


「源三郎に借りを作る気か」


「もう作っている。依頼を未完了にした」


「だったら余計に危ねえ」


「危ない方が、話が早いこともある」


「おまえは本当に、死にたがりの理屈を綺麗に喋るな」


「死にたいわけではないよ」


 ルルトはゆっくりと上体を起こした。


 影が床に落ちる。


 裂けた影は、まだ揺れていた。


「まだ、真相を見ていない」


     *


 影山源三郎の屋敷は、ホウジュ区の高台にあった。


 帝都エデンの中心から少し外れ、古い住宅街と企業家の屋敷が混じる場所である。都市の再開発から取り残されたような石塀が続き、その奥に、帝都成立以前からある邸宅を魔導改修した建物が建っている。


 夜ではなく、昼だった。


 雨は上がっている。


 しかし庭の木々にはまだ水滴が残り、石畳は濡れて黒く光っていた。空は灰色。雲の切れ目から薄い光が落ちるたび、屋敷の窓硝子が冷たく光る。


 ルルトは黒いコートを羽織っていた。


 胸の包帯は服の下に隠している。だが、歩き方にわずかな乱れがある。普通の人間なら気づかない。だが、源三郎の屋敷へ通された使用人は、視線を一瞬だけ彼の足元へ落とした。


 見ている。


 訓練されている。


 ルルトはそれを記憶する。


 応接間は古かった。


 古いが、手入れされている。壁には帝都成立期の企業家たちの写真が並び、飾り棚には古い魔導具と勲章が置かれていた。部屋の中央には低い卓。窓の外には、雨に濡れた庭が見える。


 影山源三郎は、窓際の椅子に座っていた。


 細い老人だった。


 だが、弱々しくはない。


 枯れた木の枝のように見えて、内部にはまだ硬い芯が残っている。白髪を後ろへ撫でつけ、膝には毛布を掛けている。手元には杖。だがその目だけは、若い人間よりずっと濃い影を宿していた。


「よう来たな、ルルト君」


「招かれてはいないがね」


「君は、招かれてから来る性質ではあるまい」


「よくご存じで」


 ルルトは向かいの椅子に座らなかった。


 立ったまま、源三郎を見た。


 源三郎も座れとは言わない。


「雄蔵を殺しておらんそうだな」


「殺せる状況ではあった」


「だが殺さなかった」


「標的が標的かどうか、確認できなかったのでね」


 源三郎は笑った。


 小さく、愉快そうに。


「よい」


「責めないのかい」


「なぜ責める。君は依頼を放棄したのではない。むしろ、ようやく影山家の事件を見始めた」


「事件と言ったね」


「言ったとも」


「依頼は殺しだったはずだ」


「殺しは入り口だ。君なら、入り口で満足せぬと思った」


 ルルトの目が細くなる。


「ボクを試した?」


「最初からそう言ったではないか。君が標的を殺すだけの男なら、ここまで呼ばぬ」


「呼んでいないだろう」


「来るように置いた」


「言葉遊びが好きだね」


「年寄りの楽しみだ」


 源三郎は杖の先で、床を一度だけ叩いた。


 使用人が静かに入ってきて、卓の上に木箱を置く。古びた箱だった。黒い木材に銀の金具。表面には影山家の紋章が刻まれている。


 ルルトはその箱を見た。


 まだ開けない。


「中身は?」


「君が欲しがっているものだ」


「影縫いの手術道具」


「正確には、影切りと影縫いの道具一式だ。切る針、縫う針、影を固定する鉗子、影の癒着を剥がす小刀、そして、本人と影を仮止めする黒糸」


「よく保存していたね」


「影山家は、役に立つ罪を捨てるのが下手でな」


 源三郎は窓の外を見た。


 雨上がりの庭に、古い松の影が落ちている。


「影山家の話をしよう」


「聞こう」


「トキオ聖戦の後、帝都エデンが成立した時、多くの企業家が死んだ。物理的に死んだ者もいる。記録上死んだ者もいる。政治的に殺された者もいる。旧東京が死都となり、神奈川全域が女帝政府のもとで再編されたあの混乱の中で、企業は生き残るために何でもした」


 源三郎の声は、昔話をする老人のものだった。


 だが、内容は穏やかではない。


「影山も例外ではない。表に出た当主は狙われる。交渉の席に出れば暗殺される。記者会見に出れば呪いを受ける。契約書に名を書けば、責任も憎しみもそこへ集まる。ならば、どうするか」


「影を立てる」


「そうだ」


 源三郎は頷いた。


「最初は護身だった。当主本人の代わりに、顔の似た者を立てる。声を似せる。仕草を教える。危険な会合へ出す。暗殺者が来れば、影が死ぬ。本体は生き残る」


「醜いが、合理的だ」


「そう言ってくれるか」


「合理的なことと、許されることは別だよ」


「それもそうだ」


 源三郎は少し笑った。


「やがて、技術は進んだ。顔を似せるだけでは足りぬ。記憶がいる。筆跡がいる。影がいる。影は本体を守る。それは自然なことだ。だが、長く続けすぎた。いつしか、どちらが本体なのかわからなくなった」


 部屋の空気が重くなる。


 ルルトは源三郎を見る。


 老人の影は、椅子の下に濃く落ちている。


 濃すぎる。


 昼の光の中で、そこだけ夜のように暗い。


「影武者が書類に署名し、影武者が社長として会見し、影武者が政府と契約し、影武者が家族写真に写る。記録は影を本体として積み上げる。本体は安全な奥へ隠れる。隠れ続ける。隠れ続ければ、やがて誰も本体を知らなくなる」


「その本体自身も?」


 源三郎は答えなかった。


 それが答えだった。


「影山雄蔵は、何人いる?」


 ルルトは尋ねた。


 源三郎は窓から視線を戻す。


「君は、何人見た」


「少なくとも二人。一人は朝の車列にいた男。もう一人は旧第七研究施設の地下で起動した気配だけ」


「気配だけで数えるとは、探偵らしい」


「探偵ではないよ」


「では、殺し屋らしい」


「どちらでもいい」


 源三郎は木箱に手を置いた。


「影山雄蔵は、役職だ」


 ルルトは黙った。


「最初の雄蔵は、確かにわしの息子だった。だが、いつからか、影山雄蔵は個人名ではなくなった。社長、後継者、政治的発言者、メディアに出る顔。必要な場に立つ、影山家の表の顔。その役を担う者が、影山雄蔵になった」


「息子を殺してほしい、という依頼は嘘か」


「嘘ではない」


「本当でもない」


「影山では、そういう言葉が多くなった」


 ルルトは薄く笑った。


「便利な家だ」


「不便な家だよ」


 源三郎の声が、少しだけ低くなる。


「影が本体を守る。それは自然なことだ。だが、影に名前を与え、記録を与え、生活を与え、恐怖を与え、そして最後に捨てる。それを何代も続けた。影山家は、影で身を守っているのではない。影を食って生きている」


「だから終わらせたい?」


 源三郎は答えなかった。


 代わりに、木箱をルルトの方へ押した。


「持っていけ」


 ルルトは箱を開けた。


 中には、黒い布に包まれた手術道具が並んでいた。


 細い針。


 曲がった針。


 影を挟むための鉗子。


 刃のない小刀。


 黒い糸。


 どれも古い。


 だが、手入れされている。


 道具の表面に、薄い影がまとわりついていた。


「これで君の影は応急処置できる」


「代金は?」


「条件がある」


「だろうね」


 源三郎は、ルルトの目を見た。


「雄蔵を殺せ」


 同じ依頼。


 だが、響きが違う。


「今度は、あれが本物か影かは問わん。影山の名を名乗るものは、もう終わらせねばならん」


 ルルトは箱から目を上げた。


 源三郎の顔を見る。


 そこに、息子への憎しみはある。


 だが、それだけではない。


 疲労。


 嫌悪。


 後悔。


 そして、もっと底の深い何か。


 自分が作った仕組みを、自分では壊せなくなった者の影。


「あなたは息子を殺したいわけではない」


 ルルトは言った。


 源三郎は笑った。


「では、何を殺したいと思う」


「影山というシステムそのもの」


 源三郎の笑みが、少しだけ深くなった。


「探偵のようなことを言う」


「殺し屋だよ」


「なら、殺し屋らしく壊してくれ」


「壊すものを間違えると、瓦礫の下敷きになるのは子どもたちだ」


「だから君を呼んだ」


「買いかぶりだ」


「そうかもしれぬ」


 源三郎は、ふと疲れたように椅子へ深く沈んだ。


「だが、影山にはもう、本体がいない」


 その言葉だけは、部屋の中で妙に重く響いた。


 ルルトは木箱を閉じた。


「一つ聞く」


「何だ」


「影山ミオは何者だ」


 源三郎はしばらく黙った。


 雨上がりの庭で、水滴が葉から落ちた。


「器だ」


 老人は言った。


「影山の影を継ぐための、最後の器だ」


     *


 帝都月影高等学院の夜間部では、雨上がりの湿った匂いが廊下に残っていた。


 昼の学院なら、清掃用ドローンがすぐに床を乾かし、空調が湿気を取り除く。だが夜間部の廊下は、少しだけ管理が遅れる。窓の隙間から入った湿気が、掲示板の紙を波打たせ、蛍光灯の光を柔らかく濁らせていた。


 その日の授業は、いつもより落ち着かなかった。


 旧第七研究施設の騒ぎは、表のニュースにはなっていない。


 だが、夜間部の生徒たちは、表に出ない事件ほど早く察する。影山基金の職員が朝から姿を見せない。夜羽先生は休講。御門サエの顔色が悪い。掲示板から影山グループ社会復帰支援基金のポスターが一枚だけ剥がされている。


 何かが動いている。


 そういう空気が、教室に漂っていた。


 ルナは後ろの席に座っていた。


 右手首にはまだ固定具がある。背中の外装も完全ではない。それでも、彼女は授業に来た。ルルトは止めなかった。止めなかったが、玄関でこう言った。


「帰れなくなったら呼びなさい」


 いつもの言葉だった。


 ただ、今回は続きが少し違った。


「今度は、助ける可能性が前より高い」


 ルナは、それを聞いて少しだけ困った。


 心配しているのか、確率の話をしているのか、相変わらずわからなかったからだ。


 教室の前では、御門サエが授業をしていた。


 夜羽先生の代講だった。


 授業内容は、身元保護制度について。


 名前を変えて生きる者。


 名前を隠して働く者。


 名前を取り戻したい者。


 名前を持たない者。


 そのための書類、制度、危険性。


 サエの声は落ち着いている。


 だが、疲れていた。


「名前は、守るために使われることがあります。けれど、同時に縛るためにも使われます。保護名、仮名、登録名、通称、所有名。呼び方が増えるほど、その人の本当の名前が見えにくくなることもあります」


 ルナはノートに書いた。


 名前は守るため。

 名前は縛るため。


 隣ではリツが眠そうにしている。


 だが今日は、いつもほど寝ていない。


 リツも何かを感じているのだろう。


 ミオは、教室の中央あたりに座っていた。


 背筋を伸ばし、黒板を見ている。


 けれど、手元の鉛筆は動いていない。


 足元の影が、濃い。


 ルナはその影を時々見てしまう。


 見ない方がいい。


 リツにもそう言われた。


 だが、見ずにはいられなかった。


 ミオの影は、昨日よりも濃い。照明の角度とは合っていない。机の脚を越え、椅子の下から床へ広がり、まるで黒い水たまりのように揺れている。


 サエも気づいている。


 気づいていながら、授業を続けている。


 彼女の手元の端末には、警告表示が出ているのかもしれない。だが、教室の中でパニックを起こさないよう、あえて声を変えていない。


「身元保護制度を使う時、大切なのは本人の意思です。本人が何を隠したいのか。何を守りたいのか。何を取り戻したいのか――」


 その時、ミオの影が立ち上がった。


 音はなかった。


 床から剥がれるように、黒い影だけが起き上がる。


 ミオ本人は椅子に座ったままだ。


 だが、影は立っている。


 教室の空気が凍った。


 誰も叫ばない。


 叫べない。


 影は、ミオと同じ形をしていた。肩の高さ、髪の長さ、制服の輪郭。けれど顔はない。ただ黒い膜のような輪郭があり、その奥にさらに深い闇がある。


 サエが声を止めた。


「ミオさん」


 ミオは震えていた。


「わたしじゃない……」


 声が小さい。


「わたしじゃない、先生……」


 影が、首を傾けた。


 そして、喋った。


「お父様が呼んでいる」


 声はミオのものではなかった。


 男とも女ともつかない、古い声。


 何重にも重なった声。


 乾いた紙をめくるような、低い声。


 教室の端で、誰かが椅子を倒した。


 リツが立ち上がる。


「ミオ!」


「来ないで!」


 ミオ本人が叫んだ。


 涙が頬を伝っていた。


「来ないで、見ないで、お願い、見ないで……!」


 影は続ける。


「お父様が呼んでいる。影山の名が呼んでいる。器は戻らねばならない」


 サエが端末を操作した。


「照明出力を上げます。全員、席を離れないで」


 教室の照明が強くなる。


 普通なら、影は薄くなるはずだった。


 だが、ミオの影は薄くならない。


 むしろ濃くなる。


 光が強くなればなるほど、そこに落ちる闇が深くなる。


 ルナは立ち上がった。


「ルナ、駄目だ」


 リツが言った。


 だが、ルナはミオの方へ歩いた。


 右手首の固定具が軋む。


 痛みが走る。


 それでも歩く。


「ミオさん」


 ルナは声をかけた。


 ミオ本人は涙で濡れた顔を上げる。


「ルナ……来ないで。わたし、また変になる。わたしの影が、誰かを――」


「ミオさんは、ここにいます」


 ルナは言った。


 自分に言い聞かせるように。


「影が何を言っても、ミオさんはここにいます」


 影が、ルナの方を向いた。


 顔のない闇。


 だが、見られているのがわかる。


「器が器を慰めるのか」


 影が言った。


 ルナの身体が強張る。


「月の人形。影の入れ物。名を与えられた故障品」


「……わたくしは」


 言い返そうとする。


 わたくしは、ルナです。


 そう言おうとした。


 だが、その前に、足元が冷たくなった。


 ルナは下を見る。


 自分の影が、床から剥がれ始めていた。


 ルナの影。


 けれど、形が違う。


 彼女は少女型機械人形だ。身体の輪郭は十代半ばの少女に近い。髪は肩に落ち、ワンピースの裾が影に映るはずだった。


 だが、床から離れ始めた影は、ルナの形をしていなかった。


 もっと幼い少女の形。


 髪が少し長い。


 肩が細い。


 服の形も違う。


 古い実験着のような、簡素なワンピース。


 その影は、ルナの足元から立ち上がりかけていた。


 教室の誰もが息を呑む。


 リツが低く言った。


「ルナ……?」


 ルナは動けなかった。


 自分の影なのに。


 自分ではない。


 誰か別の少女が、自分の足元から出てこようとしている。


 胸の奥で、研究施設の映像が蘇る。


 白い部屋。

 拘束台。

 月影試作零号。

 感情反応過剰。

 廃棄。


 あのぼかされた顔。


 あれは、誰だったのか。


 あれが、自分なのか。


 それとも、自分の中に残された誰かの影なのか。


 ルナは初めて、自分の影を怖いと思った。


 〈ホーム〉の路地よりも。


 影山の回収部隊よりも。


 研究施設の拘束台よりも。


 自分の足元から剥がれようとする、自分ではない影が怖かった。


「わたくしは……」


 声が震える。


 影が、ルナと同じ動きをしない。


 足元の少女の影は、ゆっくりと顔を上げた。


 顔はない。


 けれど、泣いているように見えた。


 ミオの影が笑う。


 声のない笑い。


「お父様が呼んでいる」


 教室の照明が一斉に落ちた。


 非常灯だけが点く。


 赤い光の中で、ミオの影とルナの影だけが、床から離れて立っていた。


 サエが叫ぶ。


「全員、教室から出て!」


 生徒たちが動き出す。


 椅子が倒れる。


 リツがルナへ駆け寄ろうとする。


 だが、床に黒い線が走り、彼の足を止めた。


 深夜課程の予鈴のような電子音が、校舎の奥から鳴る。


 まだ零時ではない。


 なのに、校舎が少しずつ切り替わろうとしている。


 黒板に、白い文字が浮かび始めた。


 出席確認準備中。


 影識別番号照合。


 器、二名確認。


 ルナは、自分の影を見つめたまま、動けなかった。


 その影が、誰か別の少女の形で、彼女へ手を伸ばしていた。


 まるで、ずっと前から呼んでいた名前を、ようやく思い出してほしいと願うように。

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