第8話 影の手術道具
〈ホーム〉には、病院へ行けない者のための医者がいる。
もちろん、看板は出ていない。
表通りの診療所なら、白い看板に診療時間と保険適用の有無が書かれている。カミハラ区の医療施設なら、入口に女帝政府の認証番号が掲げられ、義体対応、魔導災害後遺症対応、機械人形整備対応などの項目が端末に表示されている。
だが、〈ホーム〉の裏医者にそんなものはない。
古いビルの地下。
廃棄された飲食店の厨房を改装したような部屋。
壁には古い配管が走り、天井からは赤錆びた換気扇がぶら下がっている。消毒液の匂いと、油と、煙草と、魔導炉の排熱に焼けた金属の匂いが混じっていた。医療用ベッドは三台あるが、どれも型が違う。義体整備台も一つ。人間用の輸血パックの隣に、機械人形用の冷却液が置かれている。
ここでは、人間も、義体も、機械人形も、裏社会の連中も、名前を聞かれずに寝かされる。
名前を聞かない代わりに、料金は高い。
ルルトは、その中央のベッドに横たわっていた。
上半身裸で、胸から腹にかけて包帯が巻かれている。包帯の下には、まだ完全に塞がっていない傷がある。胸元の十字刻印の一部は黒く焼け、皮膚の下で影のようなものが滲んでいた。
彼の白銀の髪はまだ乾ききっていない。
唇は薄く紫がかっている。
いつもの紅い毒花のような色ではない。
隣の椅子にはルナが座っていた。
彼女も無傷ではない。右手首には固定具が巻かれ、背中の外装パネルは応急処置で閉じられている。旧第七研究施設から脱出する時、完全に拘束を外す前に無理に動いたせいで、右腕の人工筋肉と手首のフレームを傷めていた。
それでも、ルナは自分の傷より、ベッドの上のルルトを見ていた。
見るたびに、胸の奥がざわつく。
ルルトは傷つかない人だと思っていたわけではない。
銃弾を受け、身体を貫かれ、血を流すところは何度も見た。だが、そのたびに傷は塞がった。何もなかったように立ち上がり、皮肉を言い、服代を請求した。
だから、どこかで思っていたのかもしれない。
ルルト様は、壊れない。
そうではなかった。
今、彼の傷は塞がっていない。
裏医者はベッドの横で、煙草を咥えたままルルトの胸元を見ていた。
名はシジマという。
年齢は不詳。髪は灰色で、片目は義眼。左手の指先はすべて義体化されており、爪の代わりに極細の医療用器具が折り畳まれている。医師免許があるのかどうかは誰も知らない。だが〈ホーム〉では、撃たれた者、切られた者、義体が暴走した者、名前を出せない者は、たいてい最後にここへ転がり込む。
シジマは煙を吐いた。
「ひでえな」
「ひどい言葉だね。患者に優しくない」
ルルトは目を閉じたまま言った。
「患者に優しくしてほしけりゃ、保険証持って表の病院へ行け」
「表の病院は嫌いでね」
「表の病院もおまえが嫌いだよ」
シジマは包帯を少しだけめくり、十字刻印の周囲を確認した。
黒い筋が、刻印から脇腹へ向かって走っている。
傷ではない。
影だ。
ベッドの上のルルトの身体に落ちる影が、胸元のあたりで裂けている。照明の角度を変えても、裂け目は動かない。肉体の傷ではなく、影そのものに刻まれた亀裂だった。
ルナはそれを見て、指を握った。
「ルルト様の影が……」
「裂けてるな」
シジマは淡々と言った。
「肉の方は放っておいても塞がる。こいつの身体はそういうふうに壊れてる。だが、影の方が駄目だ。影が裂けてるから、本体の再生も引っ張られて止まってる」
「影が裂けると、身体の傷も治らないのですか」
「人間は、自分の形を影でも確認してる。普通の医者はそんなこと言わねえが、魔導医療だと基本だ。影ってのは、光を遮った黒い跡じゃない。身体が世界に落とす二枚目の輪郭だ」
シジマは金属のトレーに、血で汚れた針を落とした。
「肉体の傷なら縫える。だが、影の傷は道具が違う」
ルルトが薄く目を開けた。
「それで、治せない言い訳かな」
「治せないとは言ってない。ここには道具がないと言ってる」
「道具」
「影縫いの針。影を固定して、裂け目を縫い合わせる古い魔導具だ。今の医療機器じゃない。呪具に近い」
「影山家か」
シジマは煙草を灰皿へ押しつけた。
「知ってるなら聞くな」
「確認だよ」
「影を縫う道具は、もともと影武者を作るためのものだ。本人の影を切り分ける。影武者の影に縫い付ける。記録と顔と声だけじゃ足りないものを、影で補う。そんな胸糞悪い手術に使った道具がある」
ルナの身体が、わずかに震えた。
影武者。
誰かの代わり。
月影試作系列。
研究施設で聞いた言葉が、また胸の内側を刺す。
シジマはルナを見た。
「嬢ちゃんにも関係ある話らしいな」
「……わたくしは」
「言わなくていい。ここじゃ、言いたくない名前は言わなくていい。言いたい名前だけ言え」
ルナは少しだけ目を見開いた。
ルルトが、ベッドの上で小さく笑った。
「珍しくいいことを言う」
「おまえに褒められると医療事故を起こしたくなる」
「それは困る」
「なら大人しく寝てろ」
「寝ている場合ではない」
ルルトは身体を起こそうとした。
その瞬間、胸の傷から黒い血が滲み、彼は小さく息を詰めた。
ルナが立ち上がる。
「ルルト様」
「座っていなさい」
「ですが」
「君の右手の方が、今は外れやすい」
「わたくしのことは」
「患者が増えると、料金が増える」
ルナは言葉を失った。
心配しているのか、費用の話をしているのか、いつも通りわからない。
だが、ルルトの額には薄く汗が浮かんでいた。
ルナはゆっくりと椅子に座り直した。
シジマは溜息をついた。
「影山の屋敷へ行くつもりか」
「ほかに道具のありかを知っている者がいない」
「源三郎に借りを作る気か」
「もう作っている。依頼を未完了にした」
「だったら余計に危ねえ」
「危ない方が、話が早いこともある」
「おまえは本当に、死にたがりの理屈を綺麗に喋るな」
「死にたいわけではないよ」
ルルトはゆっくりと上体を起こした。
影が床に落ちる。
裂けた影は、まだ揺れていた。
「まだ、真相を見ていない」
*
影山源三郎の屋敷は、ホウジュ区の高台にあった。
帝都エデンの中心から少し外れ、古い住宅街と企業家の屋敷が混じる場所である。都市の再開発から取り残されたような石塀が続き、その奥に、帝都成立以前からある邸宅を魔導改修した建物が建っている。
夜ではなく、昼だった。
雨は上がっている。
しかし庭の木々にはまだ水滴が残り、石畳は濡れて黒く光っていた。空は灰色。雲の切れ目から薄い光が落ちるたび、屋敷の窓硝子が冷たく光る。
ルルトは黒いコートを羽織っていた。
胸の包帯は服の下に隠している。だが、歩き方にわずかな乱れがある。普通の人間なら気づかない。だが、源三郎の屋敷へ通された使用人は、視線を一瞬だけ彼の足元へ落とした。
見ている。
訓練されている。
ルルトはそれを記憶する。
応接間は古かった。
古いが、手入れされている。壁には帝都成立期の企業家たちの写真が並び、飾り棚には古い魔導具と勲章が置かれていた。部屋の中央には低い卓。窓の外には、雨に濡れた庭が見える。
影山源三郎は、窓際の椅子に座っていた。
細い老人だった。
だが、弱々しくはない。
枯れた木の枝のように見えて、内部にはまだ硬い芯が残っている。白髪を後ろへ撫でつけ、膝には毛布を掛けている。手元には杖。だがその目だけは、若い人間よりずっと濃い影を宿していた。
「よう来たな、ルルト君」
「招かれてはいないがね」
「君は、招かれてから来る性質ではあるまい」
「よくご存じで」
ルルトは向かいの椅子に座らなかった。
立ったまま、源三郎を見た。
源三郎も座れとは言わない。
「雄蔵を殺しておらんそうだな」
「殺せる状況ではあった」
「だが殺さなかった」
「標的が標的かどうか、確認できなかったのでね」
源三郎は笑った。
小さく、愉快そうに。
「よい」
「責めないのかい」
「なぜ責める。君は依頼を放棄したのではない。むしろ、ようやく影山家の事件を見始めた」
「事件と言ったね」
「言ったとも」
「依頼は殺しだったはずだ」
「殺しは入り口だ。君なら、入り口で満足せぬと思った」
ルルトの目が細くなる。
「ボクを試した?」
「最初からそう言ったではないか。君が標的を殺すだけの男なら、ここまで呼ばぬ」
「呼んでいないだろう」
「来るように置いた」
「言葉遊びが好きだね」
「年寄りの楽しみだ」
源三郎は杖の先で、床を一度だけ叩いた。
使用人が静かに入ってきて、卓の上に木箱を置く。古びた箱だった。黒い木材に銀の金具。表面には影山家の紋章が刻まれている。
ルルトはその箱を見た。
まだ開けない。
「中身は?」
「君が欲しがっているものだ」
「影縫いの手術道具」
「正確には、影切りと影縫いの道具一式だ。切る針、縫う針、影を固定する鉗子、影の癒着を剥がす小刀、そして、本人と影を仮止めする黒糸」
「よく保存していたね」
「影山家は、役に立つ罪を捨てるのが下手でな」
源三郎は窓の外を見た。
雨上がりの庭に、古い松の影が落ちている。
「影山家の話をしよう」
「聞こう」
「トキオ聖戦の後、帝都エデンが成立した時、多くの企業家が死んだ。物理的に死んだ者もいる。記録上死んだ者もいる。政治的に殺された者もいる。旧東京が死都となり、神奈川全域が女帝政府のもとで再編されたあの混乱の中で、企業は生き残るために何でもした」
源三郎の声は、昔話をする老人のものだった。
だが、内容は穏やかではない。
「影山も例外ではない。表に出た当主は狙われる。交渉の席に出れば暗殺される。記者会見に出れば呪いを受ける。契約書に名を書けば、責任も憎しみもそこへ集まる。ならば、どうするか」
「影を立てる」
「そうだ」
源三郎は頷いた。
「最初は護身だった。当主本人の代わりに、顔の似た者を立てる。声を似せる。仕草を教える。危険な会合へ出す。暗殺者が来れば、影が死ぬ。本体は生き残る」
「醜いが、合理的だ」
「そう言ってくれるか」
「合理的なことと、許されることは別だよ」
「それもそうだ」
源三郎は少し笑った。
「やがて、技術は進んだ。顔を似せるだけでは足りぬ。記憶がいる。筆跡がいる。影がいる。影は本体を守る。それは自然なことだ。だが、長く続けすぎた。いつしか、どちらが本体なのかわからなくなった」
部屋の空気が重くなる。
ルルトは源三郎を見る。
老人の影は、椅子の下に濃く落ちている。
濃すぎる。
昼の光の中で、そこだけ夜のように暗い。
「影武者が書類に署名し、影武者が社長として会見し、影武者が政府と契約し、影武者が家族写真に写る。記録は影を本体として積み上げる。本体は安全な奥へ隠れる。隠れ続ける。隠れ続ければ、やがて誰も本体を知らなくなる」
「その本体自身も?」
源三郎は答えなかった。
それが答えだった。
「影山雄蔵は、何人いる?」
ルルトは尋ねた。
源三郎は窓から視線を戻す。
「君は、何人見た」
「少なくとも二人。一人は朝の車列にいた男。もう一人は旧第七研究施設の地下で起動した気配だけ」
「気配だけで数えるとは、探偵らしい」
「探偵ではないよ」
「では、殺し屋らしい」
「どちらでもいい」
源三郎は木箱に手を置いた。
「影山雄蔵は、役職だ」
ルルトは黙った。
「最初の雄蔵は、確かにわしの息子だった。だが、いつからか、影山雄蔵は個人名ではなくなった。社長、後継者、政治的発言者、メディアに出る顔。必要な場に立つ、影山家の表の顔。その役を担う者が、影山雄蔵になった」
「息子を殺してほしい、という依頼は嘘か」
「嘘ではない」
「本当でもない」
「影山では、そういう言葉が多くなった」
ルルトは薄く笑った。
「便利な家だ」
「不便な家だよ」
源三郎の声が、少しだけ低くなる。
「影が本体を守る。それは自然なことだ。だが、影に名前を与え、記録を与え、生活を与え、恐怖を与え、そして最後に捨てる。それを何代も続けた。影山家は、影で身を守っているのではない。影を食って生きている」
「だから終わらせたい?」
源三郎は答えなかった。
代わりに、木箱をルルトの方へ押した。
「持っていけ」
ルルトは箱を開けた。
中には、黒い布に包まれた手術道具が並んでいた。
細い針。
曲がった針。
影を挟むための鉗子。
刃のない小刀。
黒い糸。
どれも古い。
だが、手入れされている。
道具の表面に、薄い影がまとわりついていた。
「これで君の影は応急処置できる」
「代金は?」
「条件がある」
「だろうね」
源三郎は、ルルトの目を見た。
「雄蔵を殺せ」
同じ依頼。
だが、響きが違う。
「今度は、あれが本物か影かは問わん。影山の名を名乗るものは、もう終わらせねばならん」
ルルトは箱から目を上げた。
源三郎の顔を見る。
そこに、息子への憎しみはある。
だが、それだけではない。
疲労。
嫌悪。
後悔。
そして、もっと底の深い何か。
自分が作った仕組みを、自分では壊せなくなった者の影。
「あなたは息子を殺したいわけではない」
ルルトは言った。
源三郎は笑った。
「では、何を殺したいと思う」
「影山というシステムそのもの」
源三郎の笑みが、少しだけ深くなった。
「探偵のようなことを言う」
「殺し屋だよ」
「なら、殺し屋らしく壊してくれ」
「壊すものを間違えると、瓦礫の下敷きになるのは子どもたちだ」
「だから君を呼んだ」
「買いかぶりだ」
「そうかもしれぬ」
源三郎は、ふと疲れたように椅子へ深く沈んだ。
「だが、影山にはもう、本体がいない」
その言葉だけは、部屋の中で妙に重く響いた。
ルルトは木箱を閉じた。
「一つ聞く」
「何だ」
「影山ミオは何者だ」
源三郎はしばらく黙った。
雨上がりの庭で、水滴が葉から落ちた。
「器だ」
老人は言った。
「影山の影を継ぐための、最後の器だ」
*
帝都月影高等学院の夜間部では、雨上がりの湿った匂いが廊下に残っていた。
昼の学院なら、清掃用ドローンがすぐに床を乾かし、空調が湿気を取り除く。だが夜間部の廊下は、少しだけ管理が遅れる。窓の隙間から入った湿気が、掲示板の紙を波打たせ、蛍光灯の光を柔らかく濁らせていた。
その日の授業は、いつもより落ち着かなかった。
旧第七研究施設の騒ぎは、表のニュースにはなっていない。
だが、夜間部の生徒たちは、表に出ない事件ほど早く察する。影山基金の職員が朝から姿を見せない。夜羽先生は休講。御門サエの顔色が悪い。掲示板から影山グループ社会復帰支援基金のポスターが一枚だけ剥がされている。
何かが動いている。
そういう空気が、教室に漂っていた。
ルナは後ろの席に座っていた。
右手首にはまだ固定具がある。背中の外装も完全ではない。それでも、彼女は授業に来た。ルルトは止めなかった。止めなかったが、玄関でこう言った。
「帰れなくなったら呼びなさい」
いつもの言葉だった。
ただ、今回は続きが少し違った。
「今度は、助ける可能性が前より高い」
ルナは、それを聞いて少しだけ困った。
心配しているのか、確率の話をしているのか、相変わらずわからなかったからだ。
教室の前では、御門サエが授業をしていた。
夜羽先生の代講だった。
授業内容は、身元保護制度について。
名前を変えて生きる者。
名前を隠して働く者。
名前を取り戻したい者。
名前を持たない者。
そのための書類、制度、危険性。
サエの声は落ち着いている。
だが、疲れていた。
「名前は、守るために使われることがあります。けれど、同時に縛るためにも使われます。保護名、仮名、登録名、通称、所有名。呼び方が増えるほど、その人の本当の名前が見えにくくなることもあります」
ルナはノートに書いた。
名前は守るため。
名前は縛るため。
隣ではリツが眠そうにしている。
だが今日は、いつもほど寝ていない。
リツも何かを感じているのだろう。
ミオは、教室の中央あたりに座っていた。
背筋を伸ばし、黒板を見ている。
けれど、手元の鉛筆は動いていない。
足元の影が、濃い。
ルナはその影を時々見てしまう。
見ない方がいい。
リツにもそう言われた。
だが、見ずにはいられなかった。
ミオの影は、昨日よりも濃い。照明の角度とは合っていない。机の脚を越え、椅子の下から床へ広がり、まるで黒い水たまりのように揺れている。
サエも気づいている。
気づいていながら、授業を続けている。
彼女の手元の端末には、警告表示が出ているのかもしれない。だが、教室の中でパニックを起こさないよう、あえて声を変えていない。
「身元保護制度を使う時、大切なのは本人の意思です。本人が何を隠したいのか。何を守りたいのか。何を取り戻したいのか――」
その時、ミオの影が立ち上がった。
音はなかった。
床から剥がれるように、黒い影だけが起き上がる。
ミオ本人は椅子に座ったままだ。
だが、影は立っている。
教室の空気が凍った。
誰も叫ばない。
叫べない。
影は、ミオと同じ形をしていた。肩の高さ、髪の長さ、制服の輪郭。けれど顔はない。ただ黒い膜のような輪郭があり、その奥にさらに深い闇がある。
サエが声を止めた。
「ミオさん」
ミオは震えていた。
「わたしじゃない……」
声が小さい。
「わたしじゃない、先生……」
影が、首を傾けた。
そして、喋った。
「お父様が呼んでいる」
声はミオのものではなかった。
男とも女ともつかない、古い声。
何重にも重なった声。
乾いた紙をめくるような、低い声。
教室の端で、誰かが椅子を倒した。
リツが立ち上がる。
「ミオ!」
「来ないで!」
ミオ本人が叫んだ。
涙が頬を伝っていた。
「来ないで、見ないで、お願い、見ないで……!」
影は続ける。
「お父様が呼んでいる。影山の名が呼んでいる。器は戻らねばならない」
サエが端末を操作した。
「照明出力を上げます。全員、席を離れないで」
教室の照明が強くなる。
普通なら、影は薄くなるはずだった。
だが、ミオの影は薄くならない。
むしろ濃くなる。
光が強くなればなるほど、そこに落ちる闇が深くなる。
ルナは立ち上がった。
「ルナ、駄目だ」
リツが言った。
だが、ルナはミオの方へ歩いた。
右手首の固定具が軋む。
痛みが走る。
それでも歩く。
「ミオさん」
ルナは声をかけた。
ミオ本人は涙で濡れた顔を上げる。
「ルナ……来ないで。わたし、また変になる。わたしの影が、誰かを――」
「ミオさんは、ここにいます」
ルナは言った。
自分に言い聞かせるように。
「影が何を言っても、ミオさんはここにいます」
影が、ルナの方を向いた。
顔のない闇。
だが、見られているのがわかる。
「器が器を慰めるのか」
影が言った。
ルナの身体が強張る。
「月の人形。影の入れ物。名を与えられた故障品」
「……わたくしは」
言い返そうとする。
わたくしは、ルナです。
そう言おうとした。
だが、その前に、足元が冷たくなった。
ルナは下を見る。
自分の影が、床から剥がれ始めていた。
ルナの影。
けれど、形が違う。
彼女は少女型機械人形だ。身体の輪郭は十代半ばの少女に近い。髪は肩に落ち、ワンピースの裾が影に映るはずだった。
だが、床から離れ始めた影は、ルナの形をしていなかった。
もっと幼い少女の形。
髪が少し長い。
肩が細い。
服の形も違う。
古い実験着のような、簡素なワンピース。
その影は、ルナの足元から立ち上がりかけていた。
教室の誰もが息を呑む。
リツが低く言った。
「ルナ……?」
ルナは動けなかった。
自分の影なのに。
自分ではない。
誰か別の少女が、自分の足元から出てこようとしている。
胸の奥で、研究施設の映像が蘇る。
白い部屋。
拘束台。
月影試作零号。
感情反応過剰。
廃棄。
あのぼかされた顔。
あれは、誰だったのか。
あれが、自分なのか。
それとも、自分の中に残された誰かの影なのか。
ルナは初めて、自分の影を怖いと思った。
〈ホーム〉の路地よりも。
影山の回収部隊よりも。
研究施設の拘束台よりも。
自分の足元から剥がれようとする、自分ではない影が怖かった。
「わたくしは……」
声が震える。
影が、ルナと同じ動きをしない。
足元の少女の影は、ゆっくりと顔を上げた。
顔はない。
けれど、泣いているように見えた。
ミオの影が笑う。
声のない笑い。
「お父様が呼んでいる」
教室の照明が一斉に落ちた。
非常灯だけが点く。
赤い光の中で、ミオの影とルナの影だけが、床から離れて立っていた。
サエが叫ぶ。
「全員、教室から出て!」
生徒たちが動き出す。
椅子が倒れる。
リツがルナへ駆け寄ろうとする。
だが、床に黒い線が走り、彼の足を止めた。
深夜課程の予鈴のような電子音が、校舎の奥から鳴る。
まだ零時ではない。
なのに、校舎が少しずつ切り替わろうとしている。
黒板に、白い文字が浮かび始めた。
出席確認準備中。
影識別番号照合。
器、二名確認。
ルナは、自分の影を見つめたまま、動けなかった。
その影が、誰か別の少女の形で、彼女へ手を伸ばしていた。
まるで、ずっと前から呼んでいた名前を、ようやく思い出してほしいと願うように。




