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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
7/12

第7話 雨の日のルシフェル

 影山グループ旧第七研究施設の扉は、悲鳴を上げて裂けた。


 厚い魔導装甲の防御扉だった。正規の施設であれば、企業機密や高危険度機械人形、あるいは魔導炉部品を保管するための隔壁として使われる等級である。熱にも、銃撃にも、爆薬にも、一般的な魔導干渉にも耐える。侵入者を防ぐためではなく、内部のものを外へ出さないための扉でもあった。


 だが、ルルトの黒い爪は、それを紙のように切った。


 ダーククロウ。


 夜を削り出したような黒い爪が、防御扉に斜めの傷を刻み、魔導装甲の表面を走っていた防壁文様を引き裂いた。火花が散る。いや、火花だけではない。切断面から黒い影の粒が吹き出し、赤い警報灯の下で煤のように舞った。


 ルルトは裂けた扉の隙間へ手をかけた。


 指先に力を込める。


 金属が軋み、歪み、内側へ折れる。


 施設の中から、警報が鳴り響いていた。


『外部侵入警報。第一隔壁破損。警備部隊は第二防衛線へ移行』


 ルルトは半分崩れた扉をまたぎ、施設内部へ入った。


 赤い光。


 白い壁。


 消毒液と機械油の匂い。


 床は磨かれているが、古い施設特有の湿り気が残っている。壁の一部には新しい配線が走り、天井には後付けの監視装置が並んでいた。閉鎖済みの物流管理センターを偽装しているが、中身は研究施設そのものだ。


 そして、迎撃用の廊下でもある。


 正面から、影山グループの警備部隊が現れた。


 黒い戦闘服。顔面保護レンズ。軽量魔導装甲。手には短機関銃と影縫い杭。両脇の壁からは、自動砲台が起動する。床下には拘束結界のラインが走り、侵入者の足元の影を測っていた。


 ルルトは足を止めなかった。


「警告。侵入者、停止せよ」


 機械音声が響く。


「警告は聞き飽きたよ」


 最初の銃撃が来た。


 魔導弾が廊下を埋める。青白い光が雨のように走り、ルルトの身体へ突き刺さった。肩、胸、腹、太腿。黒いコートに穴が開き、血が飛び散る。


 だが、彼は歩き続けた。


 傷は開いた端から塞がる。肉が盛り上がり、骨がつながり、弾丸が押し出され、床に落ちて乾いた音を立てる。普通の人間なら一歩で死ぬ弾幕の中を、彼は少し眉をひそめるだけで進んだ。


「銃弾の無駄だね」


 ルルトが右手を振った。


 黒い爪が伸びる。


 最前列の警備員が反応するより早く、彼の銃が斜めに切断された。続けて胸部装甲が裂ける。血は出ない。ルルトは装甲の内側、制御用魔導回路だけを切っていた。男は糸が切れたように倒れる。


 二人目が影縫い杭を投げる。


 杭は床に刺さり、ルルトの影へ黒い糸を伸ばした。


 影を固定する術式。


 前回、ルナを縛ったものと同じ系統だった。


 ルルトは靴のつま先でその杭を踏んだ。


 砕く。


 杭の魔導回路が潰れ、黒い糸が千切れた。


「人形を縛る手つきだ。人間相手には、少し雑だね」


「包囲しろ!」


 警備員たちが左右に展開する。


 ルルトの影が床に落ちる。


 その影へ、別の影が重なった。


 廊下の奥から、影使いたちが現れる。


 顔を布で覆い、手には影刃。前回の追跡妨害に出てきた者たちより、格が高い。立ち位置も、呼吸も、目線も訓練されている。銃撃で止まらない相手を、影で止めるための部隊。


 ルルトは彼らを見た。


「予備が多い会社だ」


 影使いの一人が低く詠唱する。


 床の影が広がった。


 通常の照明の影ではない。施設の床に描かれていた黒いラインが浮かび上がり、廊下全体に網のような結界を形成する。


 影固定結界。


 ルルトの足元の影が、床に貼り付けられた。


 彼は一歩踏み出そうとして、ほんの少しだけ動きが遅れた。


 その一瞬を、影使いたちは逃さない。


 影刃が肩へ入る。


 肉を切る刃ではない。


 影を切る刃。


 ルルトの左肩から血が散った。だが傷口は浅い。問題は足元だった。彼の影の肩部分が裂け、黒い輪郭が揺れている。肉体の傷は塞がる。だが、影の傷は塞がらない。


 ルルトの眉がわずかに動いた。


「なるほど。施設ごと罠にしている」


 彼は右手を床へ向ける。


 ダーククロウで、自分の影に絡む結界線を切ろうとする。


 だが、爪の軌道がわずかにずれた。


 床の影が波打っている。


 照明が不安定なのではない。


 施設全体に張られた結界が、ルルトの影の位置を常に微細にずらしているのだ。


 シャドービハインドが使いにくい。


 影から影へ移るためには、自分の影の輪郭を正確に把握する必要がある。だが、その輪郭が施設側に攪乱されている。


 ルルトは舌打ちしなかった。


 ただ、少し笑った。


「準備がいい。誰が教えた?」


 返事は、背後から来た。


 改造機械人形が天井から落下した。


 人型ではあるが、人間に似せる気はほとんどない。四肢は長く、関節は逆向きにも曲がり、背中には薄い刃状の補助腕が六本伸びている。顔は少女のように整えられているが、表情はない。機械人形の残骸を戦闘用に組み直したものだ。


 ルルトは振り向く。


 間に合わない。


 機械人形の刃腕が、ルルトの腹を貫いた。


 金属の刃が背中へ抜ける。


 血が床へ落ちる。


 ルルトはその刃を掴んだ。


「君も名前がない顔をしているね」


 黒い爪が機械人形の顔面を掴む。


 ダーククロウが食い込む。


 外装が砕け、内部の人工筋肉と魔導回路が露出する。機械人形は刃腕を引き抜こうとしたが、ルルトは離さない。


「悪いが、今日は人形に優しくする余裕が薄い」


 ルルトは機械人形の頭部を握り潰した。


 制御核が弾ける。


 刃腕が力を失い、彼の腹から抜けた。


 傷は塞がり始める。


 だが、遅い。


 肉は戻る。血も止まる。けれど、さっきまでのような即時再生ではない。裂けた腹の縁が、ためらうようにゆっくりと繋がっていく。


 その時、外で雷が鳴った。


 施設の壁が低く震える。


 数秒遅れて、雨音が聞こえ始めた。


 最初は小さかった。


 すぐに強くなる。


 雨は埋立地のコンクリートを叩き、錆びたコンテナを叩き、施設の古い屋根を叩いた。ミナト区の夜気に、魔導炉の排熱が混ざっている。降り始めた雨は、施設周辺に漂う廃熱と混ざり、黒い霧になって低く溜まり始めた。


 ルルトの唇の色が、わずかに変わった。


 いつもの紅ではない。


 薄く、紫がかった色。


 彼は自分の腹の傷を見る。


 完全には塞がっていない。


「雨か」


 ルルトは呟いた。


「本当に、趣味が悪い」


 警備部隊が第二射撃態勢に入る。


 影使いが結界を強める。


 床の黒いラインが光り、ルルトの影をさらに強く固定する。


 彼はゆっくりと右手を上げた。


 黒い爪が伸びる。


 その先から、血が滴った。


 再生が遅れている。


 だが、止まってはいない。


「続けよう」


 ルルトは微笑んだ。


「雨の日は気分が滅入る。だから、早めに終わらせたい」


     *


 拘束台の上で、ルナは雨音を聞いていた。


 施設の奥まった研究室にも、雨の気配は届いている。直接の音ではない。壁を伝う震え、排気ダクトを流れる湿った空気、魔導炉排熱と雨が混ざった時に生じる黒い霧のノイズ。それらが、彼女のセンサーをざらつかせていた。


 赤い警報灯が回っている。


 廊下の向こうでは、銃声と金属音と悲鳴が聞こえる。


 ルルトが来ている。


 ルナにはわかった。


 論理的な根拠は少ない。けれど、あの扉を切り裂いた影の反応を、彼女の内部センサーは覚えていた。あれはルルトの魔導だ。黒く、冷たく、触れたものを壊すのに、なぜか自分の帰り道を作る影。


 ルナは拘束具を動かそうとした。


 手首は固定されている。


 脚も動かない。


 首筋と背中には解析コードが接続され、記録核の周囲に薄い侵入圧がかかっている。外部から自分の中を覗かれている感覚。皮膚を剥がされるよりも、もっと内側を触られるような不快感。


 研究員は端末を見ていた。


 外の戦闘には動揺しているが、完全な混乱ではない。こういう事態も想定しているのだろう。何人かは警備班と連絡を取り、何人かはルナの拘束状態を確認し、何人かは移送準備を始めている。


 白衣の主任代理が、ルナの横へ立った。


「予定を前倒しする」


「どのような予定でしょうか」


「地下施設へ移送する。旧第七研究施設は放棄する可能性が高い」


「わたくしは移動を希望しておりません」


「希望確認は不要」


 また、その言葉。


 希望確認は不要。


 意思は後回し。


 名前は登録名ではない。


 所有者がいなければ、保護という名で回収できる。


 ルナはその言葉を聞くたびに、自分の中の何かが少しずつ削られていくのを感じた。


「質問してもよろしいでしょうか」


 ルナは言った。


 主任代理は端末を操作しながら答えた。


「検査に支障のない範囲で」


「月影試作系列とは、何ですか」


 研究員の手が止まった。


 彼はルナを見る。


 質問に答える必要があるか、判断している顔だった。


 やがて彼は言った。


「影武者用機械人形の試作系列だ」


「影武者用」


「人間の顔、声、仕草、筆跡、癖、記憶の断片を模倣し、本人の代わりに社会活動を行うための機械人形。通常の代理人や義体操作では不可能な、長期的な身代わり運用を目的としていた」


 ルナは瞬きをした。


 人間の代わり。


 誰かの顔。


 誰かの声。


 誰かの仕草。


 誰かの記憶。


「それは、影山雄蔵氏と関係がありますか」


 主任代理は、少しだけ眉を動かした。


「その質問は検査範囲を超える」


「では、わたくしと関係がありますか」


「ある」


 即答だった。


「君の構造は、月影試作系列と一致する部分が多い。人工人格の基礎設計、影反応補助回路、外装規格、記録核の空白領域。特に、他者の影情報を受け入れるための余剰人格領域が残っている」


「余剰人格領域」


「誰かの影を入れる器だ」


 ルナは息を止めた。


 必要のない呼吸。


 けれど止まった。


「器」


「影武者とは、ただ似た顔を持てば成立するものではない。本人らしい判断、本人らしい恐れ、本人らしい癖、本人らしい沈黙が必要になる。人間の影として社会に立つには、顔と声だけでは足りない。人格の影が必要だ」


「わたくしは、そのために作られたのですか」


「可能性が高い」


「可能性」


「君が零号そのものか、零号の後継個体か、廃棄予定個体から再利用されたものかは、まだ断定できない」


 主任代理は端末を操作した。


 研究室の壁面モニターに古い記録が映る。


 白い部屋。


 拘束台。


 少女型機械人形。


 顔はぼかされている。


 けれど、白い肌、淡い髪、青紫系の人工眼はルナによく似ていた。


 画面には文字がある。


 月影試作零号。

 影代用人格実験。

 不適合。

 感情反応過剰。

 命令優先度低下。

 自己保存反応異常。

 廃棄申請。


「試作零号は失敗した」


 主任代理の声は淡々としていた。


「命令よりも、自分の不安を優先した。対象人物の影を受け入れる前に、自我に近い反応が発生した。自分が誰の代わりになるのかを問うた。代用品としては不適格だった」


 ルナは画面の中の少女を見ていた。


 ぼかされた顔。


 けれど、見ているうちに、自分がそこに横たわっているような気がした。


 知らない。


 知らないはず。


 でも、胸の奥が痛い。


「その個体は……どうなったのですか」


「廃棄記録がある」


「廃棄」


「部品の一部は保存された。記録核は破損。外装の一部は不明。回収漏れの可能性がある」


 主任代理はルナを見た。


「君がその回収漏れかもしれない」


「わたくしは」


 声が出にくい。


 ルナは言葉を探した。


 ルナです。


 そう言いたかった。


 だが、主任代理の言葉が先に来た。


「君は誰かの代わりになるために作られた」


 ルナの中で、何かが軋んだ。


 誰かの代わり。


 誰かの影。


 誰かの器。


 誰かのために作られ、誰かの人格を入れられ、誰かの顔をして、誰かの名で歩くための人形。


 では、今までの自分は何なのか。


 ルルトの部屋で、初めてバッテリーを交換された時の恥ずかしさ。


 〈ホーム〉の路地で怖かったこと。


 リツに名前を聞かれて、ルナですと名乗った時の震え。


 ミオと話して、夜の学校向きだねと言われた時の暖かさ。


 ルルトが心配と利用は両立すると言った時に、少し嬉しくなったこと。


 それらは、誰かの影として設計された反応なのか。


 命令よりも不安を優先した失敗。


 自分の名前を欲しがる不良品。


 ルナは目を閉じた。


 閉じても、声は消えない。


 君は誰かの代わりになるために作られた。


「……違います」


 小さく、声が出た。


 主任代理は聞き返した。


「何が違う」


「わかりません」


「わからないのに否定するのか」


「はい」


 ルナは目を開けた。


「わたくしには、わかりません。わたくしが何のために作られたのか。月影試作零号なのか。失敗作なのか。誰かの影を入れる器なのか。すべて、わかりません」


「ならば、否定する根拠はない」


「ですが」


 拘束具が軋む。


 ルナの手首が、ほんのわずかに動いた。


「それでも、わたくしは、今、ルナです」


 主任代理は表情を変えなかった。


「現行呼称に固執する人工人格反応。記録済み」


「呼称ではありません」


「登録名ではない」


「名前です」


「君の名前は、君が決めるものではない」


 その瞬間、研究室の扉が開いた。


 入ってきたのは、夜羽先生だった。


 夜間部では非常勤講師として教壇に立っていた男。魔導倫理、社会適応、夜間労働者の権利、身元保護制度の授業を担当していた。柔らかい口調で、よく笑い、生徒に距離を取らせない話し方をする男だった。


 だが今、彼は教師の顔をしていなかった。


 黒いスーツ。


 手袋。


 胸元には影山グループの小さな認証ピン。


 そして足元の影が、普通の人間よりもずっと濃い。


「そこまでにしておきましょう、主任代理」


 夜羽は穏やかに言った。


「その子は、言葉で壊すには少々もったいない」


 ルナは彼を見た。


「夜羽先生」


「こんばんは、ルナさん。いえ、今はルナと呼ぶべきかな。君は、その呼び方を好むようですし」


「先生は、夜間部の先生では」


「そうですよ」


 夜羽は微笑んだ。


「そして、影山グループの選別担当でもあります」


 ルナは息を呑んだ。


「選別」


「夜間部の生徒たちには、さまざまな可能性があります。義体適性、魔導適性、影干渉適性、身元秘匿適性、社会的代用能力。普通の学校では拾えない才能を、夜間部はたくさん抱えている」


「それを、影山グループへ」


「流している、と言うと響きが悪いですね。支援者へ適切な情報を提供している、と言いましょう」


「リツさんも、ミオさんも」


「必要な範囲で」


 ルナの内部で、怒りに似た反応が立ち上がった。


 怒り。


 これも作られた反応なのか。


 それでも、熱かった。


「なぜ、そのようなことを」


「子どもたちを救いたいなら、金が要る」


 夜羽は静かに言った。


「金を出す者には、見返りが要る。綺麗事では夜の学校は動かない」


 その言葉は、御門サエが抱えていた矛盾にも似ていた。


 だが、サエの言葉とは違う。


 サエは苦しんでいた。


 夜羽は、整理していた。


 必要なものとして。


 当然の仕組みとして。


 ルナはそれを、怖いと思った。


 扉の向こうで轟音が響く。


 夜羽は視線を上げる。


「彼が来ましたね」


 主任代理が言った。


「第二防衛線が突破されました」


「でしょうね。宵の明星を通常警備で止めるのは無理です」


「では」


「私が行きます。ルナを移送準備へ」


 夜羽はルナへ近づき、拘束台の端に手を置いた。


「少し待っていてください。君を必要としている場所は、もっと下にあります」


「わたくしは、行きません」


「行くかどうかは、今の君には決められません」


「決めます」


 夜羽は、少しだけ悲しそうに笑った。


「その反応が、零号系列の失敗なのですよ」


 そして彼は、研究室を出た。


     *


 夜羽は、第三隔壁の前でルルトを待っていた。


 廊下はひどい状態だった。


 警備員たちが倒れ、改造機械人形の残骸が転がり、壁には黒い爪痕が走っている。自動砲台は三基とも切断され、床の影固定ラインは半分以上破壊されていた。


 その中心に、ルルトが立っている。


 血に濡れていた。


 だが立っている。


 胸に三発、腹に一発、肩に一つ、影刃の傷。どれも塞がりきっていない。雨のノイズと影固定結界の影響で、彼の再生は鈍っている。黒いコートは裂け、白銀の髪は湿気を含み、唇の色は紫がかっていた。


 それでも、彼は笑った。


「夜羽先生。授業の時間かな」


「補習です」


 夜羽も笑った。


「無断欠席の生徒を迎えに来る保護者のようですね、ルルトさん」


「ボクは保護者ではない」


「所有者でもない」


「そうだね」


「では、なぜ来たのです」


「拾ったものを返してもらいに」


「それは所有者の言葉では?」


「違うよ」


 ルルトは一歩進んだ。


 床の影固定ラインが再び起動する。


 彼の影が軋む。


「ボクは拾ったものを、拾った場所へ戻しに来たわけじゃない。帰りたいと言った者を、帰れる場所まで案内しに来た」


「綺麗事ですね」


「今日は少し汚れている」


 夜羽は手袋をはめ直した。


 その指先から、影が糸のように垂れる。


「子どもたちを救いたいなら、金が要る。金を出す者には、見返りが要る。綺麗事では夜の学校は動かない」


「綺麗事では動かないからといって、子どもの影を売っていい理由にはならない」


「売っているのではありません。活用しているのです」


「言い換えが上手い」


「教師ですから」


「教師なら、まず名前を呼ぶべきだったね」


 夜羽の目が細くなる。


「ルナは、ルナですか?」


「少なくとも、本人はそう名乗っている」


「それが人工人格の異常反応だとしても?」


「異常かどうかは、誰が基準を持つかで変わる」


「影山グループには、その基準があります」


「なら、その基準が間違っている」


 夜羽は微笑んだ。


「殺し屋が、ずいぶん教育的なことを言いますね」


「ボクも驚いている」


 夜羽の影が跳ね上がった。


 床から黒い鎖が伸びる。


 ルルトは横へ動こうとする。


 だが、動きが鈍る。


 影固定結界。


 雨による影輪郭の乱れ。


 シャドービハインドがうまく繋がらない。


 黒い鎖がルルトの左腕に絡みついた。


 影への拘束。


 肉体だけなら引き千切れる。だが鎖は足元の影にも巻きつき、動作そのものを阻害する。


 夜羽が手を振る。


 影が刃に変わる。


 ルルトの胸元へ飛ぶ。


 狙いは、十字刻印。


 胸元に刻まれた魔導刻印。


 ルルトの再生と影魔導の基点の一つ。


 ルルトは右手のダーククロウで刃を弾いた。


 だが、二本目が腹へ入る。


 肉を切る。


 影も切る。


 ルルトは一歩下がった。


 血が床に落ちる。


 塞がらない。


「なるほど」


 彼は息を吐いた。


「君はよく勉強している」


「先生ですから」


「皮肉の返しも丁寧だ」


「あなたの授業なら、もっと上手いかもしれません」


 夜羽が踏み込む。


 影の刃が三方向から来る。


 ルルトは一つを爪で裂き、一つを身体で受け、一つを首の傾きだけで避けた。避けきれなかった刃が頬を切る。血が流れる。雨のノイズを含んだ黒い霧が、通気口から廊下へ流れ込んでいる。


 ルルトの視界が少し揺れた。


 体温が下がっている。


 雨の日は調子が悪い。


 その事実を、彼は誰にも言わない。


 だが夜羽は知っている。


「雨の日のあなたは、噂ほど不死ではない」


「噂を信じすぎると、足元を掬われるよ」


「ええ。だから、噂と記録と実験結果を照合しました」


「教師というより研究者だ」


「夜間部の教師は、いくつも役を持ちます」


 夜羽の影が、さらに広がる。


 鎖。


 刃。


 杭。


 それらが床、壁、天井から同時に伸びる。


 ルルトは影へ潜ろうとした。


 だが、結界がその移動を捻じ曲げる。


 行き先が乱れる。


 半歩分だけずれる。


 その半歩で、影刃が胸を貫いた。


 十字刻印の端を切る。


 ルルトの身体が大きく揺れた。


 口から血が溢れる。


 傷は塞がらない。


 刻印の周囲から、黒い煙のようなものが漏れる。


 夜羽が近づく。


「残念です。あなたのような人は、夜間部に必要だったかもしれない」


「殺し屋を教師に?」


「裏社会を生きる術を教えられるでしょう」


「最初の授業で、教師を信じるなと教えるね」


「それは困ります」


「だろうね」


 ルルトはリボルバーを抜いた。


 怨霊呪弾。


 弾倉を回す。


 指先が黒ずんでいる。呪弾を使う前から、影の傷と雨のせいで神経が鈍い。


 狙いは夜羽の足元。


 影の基点。


 通常の弾丸では届かない相手には、怨霊を撃ち込む。


 ルルトは銃口を向けた。


 だが、雨音が強くなった。


 施設の外で降る雨が、排熱と混ざって黒い霧を増やす。換気ダクトから流れ込むノイズが、彼の照準をわずかに乱す。怨霊呪弾の中で呻く声が、雨に濡れたように滲む。


 照準が揺れる。


 夜羽はその一瞬を待っていた。


 影の鎖が銃身に絡む。


 ルルトは撃った。


 銃声。


 呪弾は夜羽の足元を掠め、床の結界線を破壊した。


 夜羽本体には届かない。


 だが、結界の一部が弾け、廊下の照明が落ちる。


 赤い非常灯だけが残る。


 夜羽は後退した。


「惜しいですね。晴れていれば、当たっていたかもしれない」


「教師が天気に頼るのは、少し情けない」


「勝てばよいのです」


 夜羽は通信端末へ短く命じる。


「対象を地下へ移送。旧第七は放棄準備」


 ルルトが踏み出そうとする。


 膝が落ちた。


 床に手をつく。


 胸の傷が塞がらない。


 腹の傷も。


 十字刻印から黒い血が滲んでいる。


 夜羽は彼を見下ろした。


「あなたは強い。ですが、影を持つ限り、影山の技術からは逃れられない」


「それは、影山の宣伝文句かな」


「真実です」


「真実は、たいてい宣伝より汚い」


 夜羽は笑った。


「では、続きは地下で」


 彼は踵を返す。


 ルルトは追おうとする。


 だが、膝が言うことを聞かない。


 影が裂けている。


 本体が影に引きずられている。


 身体の傷なら再生できる。


 影の傷は、道具が違う。


 ルルトは床に落ちた自分の血を見た。


 赤ではなく、黒が混じっている。


「……面倒だね」


 彼はそう呟いた。


     *


 研究室では、ルナの拘束台が移送用レールへ接続されていた。


 研究員たちは慌ただしい。


 警報は鳴り続けている。


 夜羽からの指示が飛ぶ。


『対象を地下へ移送。侵入者は足止め中』


「了解。拘束台、移送モードへ」


「記録核接続を維持」


「鎮静追加は?」


「地下で行う。今は移せ」


 ルナは天井を見ていた。


 ルルトが来ている。


 けれど、足止めされている。


 夜羽先生がいる。


 雨が降っている。


 ルルトは雨の日が苦手だと、彼女は直接聞いたことはない。


 だが、帰宅した時の彼の唇の色、濡れたコート、塞がりにくい傷、そして今施設に流れ込む黒い霧のノイズで、何となくわかった。


 このまま待っていれば、ルルトは来てくれるかもしれない。


 けれど、来られないかもしれない。


 自分は回収対象として地下へ運ばれる。


 月影試作系列。


 失敗作の後継。


 誰かの代わりになるための器。


 登録名ではない名前を抱えた機械人形。


 ルナは手首の拘束具を見た。


 物理拘束と魔導拘束。


 完全ではない。


 先ほど、影固定結界の一部が揺れた。


 ルルトの呪弾が外れた時、施設の結界線が破壊された。研究室の拘束具にも、一瞬だけノイズが走った。研究員たちは気づいていない。移送準備を優先している。


 ルナは、自分の右手の指先へ意識を集中した。


 人間ならできない。


 だが、機械人形ならできる。


 指の関節一つ、人工筋肉一本、爪の下に隠された微細な接続端子。通常は整備用にしか使わない端子を、拘束具の接続部へ滑り込ませる。


 エラー。


 権限不足。


 外部拘束優先。


 ルナはもう一度試す。


 エラー。


 権限不足。


 なら、別の方法。


 彼女は自分の内部出力を少しだけ上げた。


 新しいエネルギー炉が熱を持つ。


 警告が走る。


 出力上昇。

 拘束状態での出力上昇は関節損傷の危険あり。

 記録核防壁低下。

 停止推奨。


 停止しない。


 ルナは歯を食いしばった。


 怖い。


 壊れるかもしれない。


 でも、今壊れなくても、地下へ行けば別の形に壊される。


 名前を剥がされる。


 ルナでなくなる。


 それは、もっと怖い。


「拘束台、移送開始」


 研究員が言った。


 台が動き始める。


 その瞬間、ルナは右手首を捻った。


 金属が軋む。


 人工皮膚の下でフレームが悲鳴を上げる。


 痛み。


 痛覚は制御できるはずだった。


 だが、痛かった。


 それでも、端子が拘束具の隙間へ入る。


 ルナは施設の警報系統へ接続した。


 通常なら外部アクセスは拒否される。


 だが、さっきルルトの呪弾で結界線が壊れた。


 警報系統は混乱している。


 侵入者対応、火災対応、魔導漏洩対応、研究対象暴走対応。複数のプロトコルが重なり、優先順位が揺れている。


 ルナはそこへ、自分の信号を流し込んだ。


 種別、少女型機械人形。


 登録、未確定。


 状態、拘束中。


 意思表示、拒否。


 研究対象暴走ではない。


 回収対象ではない。


 本人による非常通報。


 研究員が異常に気づく。


「対象が警報系統にアクセス!」


「遮断しろ!」


「間に合いません!」


 ルナは声を出した。


 拘束台の上で、首も動かせないまま。


 それでも、声だけは出した。


「わたくしは」


 研究員たちが振り返る。


 ルナの瞳が、青紫に強く光る。


「回収対象ではありません」


 施設全体の警報が切り替わった。


 赤い光が、さらに濃くなる。


『緊急通報。研究対象による本人拒否申告を検出』

『所有権未確定個体への強制拘束、規定違反の可能性』

『外部監査ログへ転送準備』

『施設全域、非常記録モードへ移行』


 研究員たちの顔色が変わった。


「まずい、記録が外へ出る!」


「遮断しろ!」


「非常記録モードが優先されています!」


 赤い光が研究室を染める。


 廊下も、隔壁も、地下へ続くレールも。


 ルナの右手首から火花が散る。


 拘束はまだ完全には外れていない。


 だが、彼女は初めて、自分の意思で施設を動かした。


 自分を回収対象としてではなく、本人として記録させた。


 遠くの廊下で、ルルトが顔を上げる。


 赤い警報の音が、雨のノイズを裂いて響いていた。


 彼は床に片膝をついたまま、小さく笑った。


「……上出来だ」


 その声は、誰にも届かなかった。


 けれど、赤い光の中で、ルナは確かに自分の名前を抱きしめていた。


 ルナ。


 登録名ではない。


 呼称でもない。


 今、ここで、自分が守ろうとした名前。

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