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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
6/12

第6話 人形誘拐

 夜間部の授業が終わると、帝都月影高等学院は少しだけ息を吐く。


 昼の学院の放課後とは違う。


 昼の生徒たちは、授業が終われば廊下へあふれ出し、部活動へ向かい、購買へ走り、友人と寄り道の相談をする。自由になるための騒がしさがある。


 けれど、夜間部の終わりには、自由よりも先に疲労がある。


 時計は二十三時を過ぎている。生徒たちは鞄を持ち、上着を羽織り、義体の接続具合を確かめ、端末で帰路の安全情報を確認する。これから夜勤へ戻る者もいる。支援施設の寝台へ向かう者もいる。朝まで開いている診療所へ寄る者もいる。誰かに迎えを頼む者もいれば、誰にも頼めず一人で帰る者もいる。


 ルナは、その最後の集団にいた。


 制服ではない。


 古びた制服風ワンピースに、見学者用カードを下げている。正式な学生証ではないが、カードには小さく「体験授業参加」と表示されていた。


 それだけで、彼女は少し嬉しかった。


 所有者欄は空白のまま。


 保護者欄も空白のまま。


 だが、名前欄には「ルナ」とある。


 昨日、リツに言われた言葉が、まだ彼女の内部に残っている。


 呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ。


 ルナは、通用口のそばでそのカードをそっと撫でた。


「何、学生証見てにやけてんの」


 隣からリツが言った。


 彼は夜間部の鞄を肩にかけ、反対の手で眠気覚ましの紙パック飲料を持っている。目の下には薄い隈があり、授業中に何度か首が落ちかけていた。だが、口調はいつものように軽い。


「にやけておりません」


「してたよ。こう、ちょっと嬉しそうに」


「表情筋の制御に乱れがありましたか」


「乱れっていうか、普通に笑ってた」


「笑って」


 ルナは自分の頬に指を当てた。


 笑っていた。


 自覚はなかった。


 リツはそれを見て、少しだけ笑う。


「いいんじゃない。夜間部のカードで笑えるなら、まだ健全だよ」


「夜間部のカードで笑うことは、不健全なのですか」


「人による。俺は最初、これ見て“ああ、書類に捕まった”って思った」


「捕まった」


「支援って、逃げ道でもあるけど、首輪にもなるから」


 リツは黒い月の通用口を見上げた。


 夜の校章は、光をあまり返さない。


 黒い月。


 昼の学院の銀色の月とは違う。


 同じ学院でありながら、夜だけ別の顔を持つ印。


「リツさんは、今日は配送センターへ向かわれるのですか」


「うん。カミハラ南の仕分け。朝まで」


「お身体は大丈夫でしょうか」


「大丈夫じゃない」


「では、休むべきでは」


「休むと給料が減る。給料が減ると食費が減る。食費が減ると授業中に寝る。結局同じ」


「同じではないように思えます」


「細かいこと言うなよ、機械人形」


「機械人形だから細かいことを言うのではありませんか」


「それもそうか」


 リツは笑った。


 ルナも少しだけ笑った。


 その笑みは、以前よりぎこちなくなかった。


 二人は夜間部の通用口を出る。門の外には、夜のカミハラ区が広がっていた。


 カミハラ区は研究機関と学園の多い区域だ。昼間は学生と研究員が多く、道は整っていて、警備ドローンもよく巡回している。だが夜になると、表通りと裏通りの差が大きくなる。正規の研究棟が灯りを消した後、非正規の工房や下請け施設が動き出す。学園都市の清潔さの下で、企業の夜の仕事が始まるのだ。


 ルナは帰り道を確認した。


 夜間部から大通りへ出る。

 魔導バスの停留所を右に見て、歩道橋の手前を左。

 二つ目の交差点を渡る。

 排熱パイプが見える道を進み、〈ホーム〉方面へ向かう。


 内蔵地図は相変わらず不安定だった。


 だが、少しずつ覚えてきている。


 道の匂い。照明の色。看板。危険な路地の手前にある落書き。ルルトに教えられた「通ってよい道」と「通らない方がよい道」。屋台の親父が教えてくれた目印。リツが教えてくれた夜間バスの停留所。


 地図機能は壊れていても、自分で覚えることはできる。


 そのことが、ルナには少し誇らしかった。


「一人で帰れる?」


 リツが尋ねる。


「はい。おそらく」


「おそらくか」


「前回よりは高確率です」


「その言い方、不安になるんだけど」


「迷った場合は、ルルト様へ通信いたします」


「それがいい。宵の明星に迎えに来られる方も怖そうだけど」


「ルルト様は、迎えには来るが助けるとは限らないとおっしゃいました」


「そこは助けろよ」


「わたくしもそう申し上げました」


「珍しく意見が合った」


 リツは紙パックを潰し、近くのゴミ箱へ投げ入れた。きれいに入る。眠そうなのに、手元だけは妙に正確だ。


「じゃ、俺こっち」


 彼は配送センター方面の道を指した。


「ルナはそっち。大通りから外れすぎるなよ。あと、黒い車には近づくな」


「黒い車、ですか」


「夜に路肩で止まってる黒い車。だいたい面倒」


「覚えておきます」


「特に影山の車はな」


 ルナは小さく反応した。


「影山グループ」


「うん。最近、学校の周りでよく見る。基金の人間か、調査員か、送迎か。どれでも嫌だけど」


「リツさんは、影山基金の方々を警戒しているのですか」


「してる。けど、世話にもなってる。だから余計に嫌」


 リツは少しだけ視線を逸らした。


「気をつけろよ。所有者未登録の機械人形は、書類上だといろんな大人が触りたがる」


「わたくしは、触られたいとは思いません」


「なら、そう言え。はっきり」


「言えば、止まるでしょうか」


「止まらないやつもいる」


「その場合は?」


「逃げろ。通信しろ。叫べ。無理なら噛め」


「噛む」


「機械人形なら噛む力くらい強いだろ」


「人間を噛むのは、倫理的に問題があるのでは」


「誘拐されるよりはマシ」


 その言葉を、リツは冗談ではなく言った。


 ルナは頷いた。


「承知いたしました。必要に応じて噛みます」


「真面目に言われると怖いな」


「リツさんが教えてくださいました」


「責任が発生するやつだ、これ」


 リツは苦笑し、手を振った。


「じゃあな。無事に帰れよ」


「はい。リツさんも、お仕事お気をつけて」


「寝ないように祈ってて」


「祈れば、寝ないのですか」


「気分の問題」


「では、気分を祈ります」


「何だそれ」


 リツは笑いながら、夜の道へ歩いていった。


 ルナはしばらくその背中を見送る。


 それから、自分の帰り道へ向かった。


 ひとりで。


 夜の空気は、少し冷たかった。


 通りの向こうでは、研究棟の窓がいくつか青く光っている。無人運搬車が低い音を立てて走り、歩道には夜間部の生徒がぽつぽつと散っていく。数分もすれば、ルナの周囲から学院の気配は薄くなった。


 彼女は歩く。


 一つ目の交差点。


 信号を待つ。


 青になる。


 渡る。


 リツに教わったとおり、黒い車には近づかない。


 歩道橋の手前を左。


 古い魔導広告が点滅している。


 大通りを外れすぎない。


 呼吸は不要。


 けれど、彼女は息を吸って、吐く。


 怖くない。


 怖くないわけではない。


 だが、前よりも歩ける。


 夜間部へ行き、授業を受け、ミオと話し、リツと別れ、自分で帰る。


 それは小さなことかもしれない。


 人間の生徒なら、当たり前のことかもしれない。


 けれどルナにとっては、当たり前ではなかった。


 彼女は、自分で道を覚えている。


 自分で歩いている。


 自分の名前が書かれたカードを下げている。


 ルナ。


 そう名乗った名前。


 その時、背後で車の走行音が止まった。


 ルナは振り向いた。


 黒い車が一台、路肩に停まっている。


 いつの間にか。


 車体は大きいが、音はほとんどなかった。窓は黒く、内部は見えない。車両側面に企業ロゴはない。だが、フロント部分に小さな月影のような紋章がある。


 影山グループの紋章に、似ていた。


 リツの言葉がよみがえる。


 黒い車には近づくな。


 ルナは歩幅を早めた。


 前方の角を曲がれば、大通りに出る。


 そこまで行けば、人目がある。


 だが、角の向こうから二台目の黒い車が出てきた。


 道を塞ぐように停まる。


 ルナは足を止めた。


 背後の車のドアが開く。


 男たちが降りてきた。


 黒いスーツ。黒い手袋。顔には透明な視覚補助レンズ。企業警備員というより、回収業者に近い無機質さがある。腰には銃ではなく、細い金属杭のような魔導具を下げていた。


 前方の車からも二人。


 左右の路地から、さらに二人。


 計六人。


 ルナを囲むには十分な数だった。


 ルナは金属製の街灯を背にした。


「どちら様でしょうか」


 声は震えなかった。


 そのことに、彼女自身が少し驚いた。


 先頭の男が端末を起動する。


 画面にはルナの顔写真が表示されていた。


 いつ撮られたのか、彼女にはわからない。


 夜間部の受付端末か。


 校内の監視カメラか。


 あるいはもっと前からか。


「識別照合。対象、少女型機械人形。月影試作系列候補。現行呼称、ルナ。所有者登録なし。保護責任者なし」


「わたくしは、ルナです」


「現行呼称は確認済み」


「呼称ではございません。名前です」


 男は反応しなかった。


 端末の表示だけを見ている。


「対象は所有者不明の高位機械人形と判断。影山グループ保全規定に基づき、回収する」


「回収、とは」


「保護、検査、所有権確認、構造解析を行う」


「わたくしは、保護を希望しておりません」


「希望確認は不要」


「不要ではありません」


 ルナは一歩下がった。


 背中が街灯に当たる。


 逃げ道は少ない。


 左側の路地は狭い。だが一人なら抜けられるかもしれない。右側は車。正面に二人、背後に二人。空中へ跳ぶ機能はない。戦闘機能もほとんどない。出力は上がったが、身体能力で押し切れるかは不明。


 通信。


 ルルトへ。


 ルナは内部通信を起動しようとした。


 だが、ノイズが走った。


 通信妨害。


 周囲の車両から、広域ジャミングが出ている。


「通信遮断確認」


 男が言った。


「対象の外部連絡を制限」


「わたくしは、帰宅中です」


「回収後、必要に応じて関係者へ通知する」


「関係者とは誰ですか」


「所有者または保護責任者」


「わたくしには」


 ルナは言葉を詰まらせた。


 所有者は、いない。


 保護責任者も、登録されていない。


 ルルトは署名していない。


 空白。


 その空白が、ここで牙を剥いた。


 男が一歩近づく。


「同行を」


「拒否します」


「拒否権限は確認できない」


「わたくしの意思は、権限ではないのですか」


「人工人格の意思は所有権確認後に評価される」


 その言葉は、鋭利だった。


 刃物のようではない。


 書類の端で指を切るような、薄く冷たい痛み。


 ルナは胸の前で拳を握った。


「リツさんは、必要であれば噛めとおっしゃいました」


 男たちが一瞬だけ止まった。


「何?」


「警告いたします。近づいた場合、噛みます」


 場違いな言葉だった。


 だがルナは本気だった。


 男たちは理解に数秒かかったようだった。ひとりが小さく笑う。


「拘束」


 左右の男が同時に動いた。


 ルナは左へ走った。


 予測より速く。


 新しいエネルギー炉が出力を上げ、脚部の人工筋肉が限界近くまで収縮する。彼女は一人目の脇を抜け、左の路地へ滑り込もうとした。


 その瞬間、地面に黒い杭が打ち込まれた。


 影縫い杭。


 男が腰から抜いた魔導具が、ルナの足元の影へ突き刺さる。


 ルナの身体が止まった。


 足が動かない。


 いや、足そのものは動く。だが、影が床に縫いつけられたことで、動作命令と実際の移動がずれる。脚部関節が悲鳴を上げ、制御系がエラーを吐いた。


 ルナは倒れそうになる。


 別の杭が打ち込まれる。


 二本目。


 影がさらに固定される。


 両腕が重くなる。


 まるで、身体の外側にある何かが、内側の命令を拒絶しているようだった。


「影拘束、成功」


「対象出力、上昇傾向」


「追加固定」


 三本目の杭。


 ルナは歯を食いしばった。


 機械人形に歯を食いしばる必要はない。


 だが、そうした。


「わたくしは……帰ります」


「回収する」


「帰ります」


「人工人格興奮状態。鎮静処理」


 男が細い注射器のような魔導具を取り出した。


 機械人形の記録核へ干渉するための鎮静コードだ。


 ルナは通信を再起動する。


 ノイズ。


 失敗。


 もう一度。


 ノイズ。


 失敗。


 ルルト様。


 通信妨害の隙間を探す。


 短文なら送れるかもしれない。


 長い文章は無理。


 位置情報も乱されている。


 なら、言葉だけ。


 ルナは内部回路の一部を強制的に開放した。記録核が熱を持つ。視界が赤く揺れる。外部通信モジュールが一瞬だけ妨害の波の隙間を拾った。


 送信。


 たった一文。


 帰れなくなりました。


 送れたかどうかはわからない。


 次の瞬間、鎮静コードが首筋の接続端子へ撃ち込まれた。


 視界が暗くなる。


 音が遠ざかる。


 最後に見えたのは、自分の影だった。


 地面に縫いつけられた影。


 その影だけが、ほんのわずかに手を伸ばしていた。


 まるで、帰り道を探すように。


     *


 その頃、ルルトは別件の依頼人と会っていた。


 場所はホウジュ区とミナト区の境にある古い喫茶店だった。


 看板には「純喫茶オルフェ」とある。昼間は近隣の会社員が来るが、夜になると裏社会の小さな相談場所になる。店主は誰の味方でもない。代わりに、店内で銃を抜いた者には二度と珈琲を出さない。それだけの店だった。


 ルルトは奥の席に座っている。


 黒いコートは椅子の背に掛けられ、テーブルには古いカップと資料が置かれている。彼の向かいには、痩せた男が座っていた。年齢は四十前後。高級ではないが清潔なスーツを着ている。表の人間に見えるが、手元の震えと目の血走り方は、まともな相談ではないことを示していた。


「ですから、妻を殺したのは私ではありません」


 男は早口で言った。


「警察は私を疑っています。保険金の件もある。確かに、妻とはうまくいっていませんでした。ですが殺してはいない。私はただ、あの日、家に帰らなかっただけで――」


「帰らなかったのではなく、帰れなかった」


 ルルトはカップを置いた。


 男の言葉が止まる。


「え?」


「あなたの靴底に、ミナト区の冷凍倉庫街で使われる防滑樹脂の粉がついている。昨日の雨では流れにくい粉だ。スーツの袖口には安い香水の移り香。港湾労働者向けの宿に出入りする女性がよく使う銘柄。あなたは昨夜、妻の死亡推定時刻に家へ帰らなかったのではなく、帰れなかった。愛人といたからだ」


 男の顔が白くなる。


「ち、違……」


「違うなら、嘘をつく順番を間違えています。最初に“妻を殺していない”ではなく、“妻とは会っていない”と言うべきだった」


「私は……」


「あなたは妻を殺していない。たぶんね」


 男は息を呑んだ。


「ほ、本当ですか」


「ただし、妻が死ぬように配置した可能性はある」


「配置?」


「玄関の防犯結界を切ったのはあなたでしょう。浮気を隠すために。結果として、別の誰かが入った」


「そんな……私は、ただ」


「ただ、の後に続く言葉で人はよく死にます」


 ルルトは淡々と言った。


 男は震えながら資料を握り締めた。


「では、犯人は」


 その時、ルルトの通信端末が震えた。


 短い受信。


 ノイズ混じり。


 送信者、ルナ。


 位置情報、破損。

 通信状態、不安定。

 本文、一文。


 帰れなくなりました。


 ルルトの指が止まった。


 店内の空気が、ほんのわずかに変わる。


 依頼人の男は気づかなかった。


「先生、犯人は誰なんですか。私はどうすれば――」


 ルルトは立ち上がった。


「すまないね」


「え?」


「拾ったものが盗まれた」


 男は呆然とした。


「は? いや、待ってください。私の妻の件は」


「あなたの妻を殺した犯人は、保険金ではなく家の古い結界鍵を狙っている。鍵を持っているなら今すぐ捨てるなり、警察へ渡すなりしなさい。愛人の件は、聞かれたら正直に話した方がいい。嘘を重ねると、あなたは妻を殺していなくても、妻を殺したような顔になる」


「ちょ、ちょっと待ってください! 依頼料は払っています!」


「前金分の助言はした」


「そんな無責任な!」


 男が立ち上がり、ルルトの腕を掴もうとした。


 ルルトは振り返った。


 ただ、それだけだった。


 男の手が止まる。


 ルルトの目に、いつもの皮肉な色がなかった。


 冷たい。


 いや、冷たいだけではない。


 温度が消えていた。


 男は本能的に理解した。


 これ以上、触れてはいけない。


 ルルトは静かに言った。


「領収書は店主に預けておく」


 それだけ言って、彼は店を出た。


 夜のホウジュ区。


 通りにはまだ人がいる。酔客、仕事帰り、裏稼業の運び屋、夜勤へ向かう者。ルルトはその中へ出ると、通信端末を開いた。


 位置情報は壊れている。


 だが、送信の痕跡は残っていた。


 カミハラ区南西。学院から〈ホーム〉へ向かう帰路。通信妨害。車両型ジャマー。影拘束術式の痕跡。


「早いね」


 ルルトは呟いた。


 誰に向けた言葉でもない。


 影山が動くのは予想していた。


 だが、これほど早くルナを直接回収するとは。


 所有者未登録。


 月影試作零号。


 夜間部への体験授業。


 端末に出た名前。


 それらが重なった瞬間、影山側はルナを“回収可能な資産”として扱ったのだろう。


 ルルトは端末を閉じた。


 次に、足元の影へ視線を落とす。


「さて」


 彼の影が、街灯の下で細く伸びる。


「拾ったものを盗むなら、せめて盗み方くらい美しくしてほしいものだ」


 次の瞬間、ルルトの姿は路地の影へ沈んだ。


     *


 ルルトは、ルナを運ぶ車列を追った。


 普通の追跡ではない。


 彼は車両の後ろを走らない。


 影を辿る。


 車の影。街路樹の影。高架下の影。深夜営業の店から漏れる光に切られた細い影。魔導バスの下に伸びる揺れる影。ビルの壁面広告が作る不規則な暗がり。


 そこを渡る。


 シャドービハインドは瞬間移動ではない。影から影へ、自分の位置をずらす技術だ。長距離移動には向かない。連続すれば身体と影の結びつきが揺らぎ、足元の感覚が薄くなる。


 だが、今はそれを気にしない。


 カミハラ区の外縁。


 追跡開始地点に残っていた影縫い杭の痕跡を確認する。


 地面に小さな焦げ跡。


 影を縫った後の黒いにじみ。


 ルナの足跡は途中で消えている。抱え上げられたか、拘束して車内へ運ばれたか。車両のタイヤ跡は三台分。すべて同じ規格。影山系警備車両の可能性が高い。


 ルルトはしゃがみ、地面の黒い跡に指先を触れた。


 指先に微かな痛み。


 影を固定する術式の残り香。


「雑だね」


 怒りの声ではなかった。


 むしろ、いつも通りの淡々とした声だった。


 ただ、その淡々さが、逆に危うい。


「逃げる相手ではなく、物を縛る手つきだ」


 彼は立ち上がった。


 車両はミナト区方面へ向かっている。


 遠回りしている。


 直接、影山グループ本社地下へ運ぶのではない。旧研究施設、倉庫、あるいは基金管理外の施設。公式記録に残しにくい場所。


 ルルトはミナト区へ向かう裏ルートに入った。


 〈ホーム〉のさらに奥、排熱パイプの下を通る道。違法屋台の裏。野良機械人形が部品を漁る廃材置き場。魔導炉の副産物を無許可で抜き取る小工房。地図にはない歩道橋。建設途中で放棄された空中通路。


 彼の動きは速かった。


 だが、急いでいるようには見えない。


 急いでいる者は、無駄な動きをする。


 ルルトは無駄を削る。


 次の角で誰が出てくるか、どの屋根が崩れやすいか、どの監視カメラが生きているか、どの路地に魔導ノイズが溜まっているか。すべてを見ながら、最短ではなく最適の道を選ぶ。


 それでも、妨害は来た。


 ミナト区へ入る手前、高架下。


 そこは昼でも薄暗い場所だった。上を走る高速道路の排熱と、下を流れる排水路の湿気が混ざり、空気は重い。壁には古い広告と女帝信仰の祈祷札が重なり、ところどころ剥がれている。


 ルルトが高架下へ踏み込んだ瞬間、影が立ち上がった。


 人影が三つ。


 黒い布を纏ったような姿。顔は見えない。足元は地面と繋がっている。影山グループの私設回収部隊ではない。彼らよりも古い術を使う者たち。


 影使い。


「通行止めかな」


 ルルトは足を止めた。


 影使いの一人が言った。


「対象追跡を中止しろ」


「対象とは?」


「所有者不明機械人形」


「名前がある」


「登録名は未確定」


「ルナだよ」


 影使いたちは反応しない。


 その無反応が、ルルトの目をさらに冷たくした。


「なるほど。君たちも、書類しか読めない類か」


「警告は一度だけだ」


「親切だね。ボクは警告が苦手だ」


「退け」


「断る」


 影使いが同時に動いた。


 高架下の影が波のように盛り上がり、ルルトの足元へ走る。影縫いではない。影そのものを沼に変え、身体を沈める術式だ。ルルトは横へ跳ぶ。だが壁の影から黒い腕が伸び、彼のコートを掴んだ。


 ルルトはコートを脱いだ。


 黒い布だけが影の腕に絡め取られる。


 その隙に、二人目の影使いが背後へ回る。手には短い影刃。物理刃ではなく、影を裂くための刃だ。


 ルルトの弱点を知っている。


 影への攻撃は治りにくい。


 情報が渡っている。


「予習済みか」


 ルルトは言った。


 影刃が彼の背中を切った。


 肉体ではなく、足元の影が裂ける。


 ルルトの身体が一瞬揺らぐ。視界がぶれる。胸の奥で、心臓とは別の場所が掴まれたような痛みが走る。


 だが、倒れない。


 彼は振り返らず、背後へ肘を打ち込んだ。


 影使いの顔面に入る。


 骨の砕ける音。


 一人目が壁に叩きつけられる。


 二人目が影沼を広げる。


 ルルトは足元を見た。


 自分の影の裂け目。


 そこへ、黒い爪を立てる。


 ダーククロウ。


 自分の影を掴み、裂けた部分を強引に引き寄せる。


 痛みはある。


 だが、動ける。


「必要な相手を、必要なだけ壊す」


 ルルトは低く呟いた。


「今日は、それでいい」


 次の瞬間、高架下の影が爆ぜた。


 ルルトの身体が、影使いの一人の背後へ現れる。黒い爪が肩口を抉り、魔導回路を切る。男は悲鳴を上げる前に膝を折った。二人目が逃げようとする。ルルトは地面の影を踏み、相手の影を踏み潰す。


 影使いの動きが止まる。


「影を使う者は、影を踏まれる覚悟も持つべきだ」


 ルルトは彼の手首を踏んだ。


 鈍い音。


 三人目が、影の中へ逃げようとした。


 ルルトはリボルバーを抜く。


 怨霊呪弾。


 銃声が高架下に響いた。


 弾丸は三人目の身体ではなく、その足元の影へ撃ち込まれる。影が黒い炎のように揺れ、男の身体を地面から引きずり出した。


 男は転がり、吐いた。


 ルルトは彼の胸元を踏む。


「ルナをどこへ運んだ?」


 男は答えない。


 ルルトは足に力を込めた。


 肋骨が軋む。


「答えなくてもいい。君の靴底に、旧研究区画の防塵樹脂がついている。袖にはミナト区南部の海塩。車両は三台。カミハラからミナトへ抜ける途中で一度、排熱道路を使っている。目的地は影山グループ旧第七研究施設かな」


 男の目が揺れた。


 それで十分だった。


「ありがとう。口を割る手間が省けた」


 ルルトは足をどける。


 男は咳き込みながら、地面を這う。


「ば、化け物……」


 ルルトはコートを拾い上げた。


 影に絡め取られたせいで、布の一部が黒く腐食している。


「また服代が増えた」


 彼はそう言って、高架下を抜けた。


     *


 ルナが目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。


 背中が冷たい。


 手首が重い。


 脚が動かない。


 視界には白い天井。


 明るすぎる照明。


 消毒液の匂い。


 低い機械音。


 彼女は拘束台の上に横たえられていた。


 両手首、両足首、首、腰が固定されている。影縫い杭ではない。物理拘束と魔導拘束の複合。背中の外装パネルに何かが接続され、記録核の外側を解析されている。


 ルナは起き上がろうとした。


 動けない。


 内部警告。


 拘束状態。

 外部接続検出。

 記録核防壁、自動展開。

 通信不可。

 位置情報、不明。


「覚醒しました」


 誰かの声。


 研究員だった。


 白衣を着た男。年齢は三十代ほど。顔に疲れはあるが、感情は薄い。人間を診る医者ではない。機械を見る技術者の目だ。


 彼はルナの瞳孔反応を確認し、端末へ入力した。


「人工人格反応、安定。鎮静コード残留あり。出力上昇は許容範囲」


 ルナは声を出そうとした。


 喉が少し遅れて動く。


「ここは、どこでしょうか」


「影山グループ旧第七研究施設」


 研究員は、隠す気もないようだった。


「あなたは何者ですか」


「研究管理主任代理。名乗っても、君の処遇には影響しない」


「わたくしを、帰してください」


「検査後、判断する」


「わたくしは、検査を希望しておりません」


「希望確認は不要」


 同じ言葉。


 ルナは手首を動かそうとした。


 拘束具が鳴るだけだった。


 視線だけを横へ向ける。


 そこには、棚が並んでいた。


 部品棚。


 だが、普通の機械部品ではない。


 少女型機械人形の腕。


 脚。


 顔面外装。


 人工眼。


 壊れた記録核。


 小さな指。


 髪の束。


 外装パネル。


 胸部フレーム。


 どれも、ルナと似た色をしていた。


 白い肌。


 淡い髪。


 青紫系の人工眼。


 ルナは呼吸を忘れた。


 必要のない呼吸を。


 忘れた。


「これは……」


「月影試作系列の残骸だ」


 研究員は淡々と言った。


「残骸」


「廃棄個体、未完成個体、人格不適合個体、出力暴走個体、記録核欠損個体。保存価値のある部位だけ残している」


 ルナの視界が揺れる。


 自分と似た腕。


 自分と似た瞳。


 自分と似た顔。


 それらが、物のように並んでいる。


「わたくしと……同じ」


「同系統だ」


「わたくしは、何なのでしょうか」


「月影試作系列候補。現行名ルナ。外観、出力炉、人工人格反応、影干渉適性、旧記録との照合から、月影試作零号または派生個体の可能性が高い」


「月影試作零号」


 その言葉を聞いた瞬間、ルナの内部でノイズが走った。


 知らないはずの単語。


 なのに、どこかで聞いたような感覚。


 暗い部屋。


 白い光。


 誰かの声。


 失敗。


 廃棄。


 感情過多。


 代用不適合。


 ルナは目を閉じた。


 だが、映像は消えない。


「わたくしは、ルナです」


 声が震えた。


 機械人形の声なのに。


 震えた。


 研究員は端末から目を上げた。


「現行呼称は確認済み」


「呼称ではありません。わたくしは、ルナです」


「登録名ではない」


 その言葉は、ルナの胸を深く刺した。


 登録名ではない。


 名前ではない。


 呼ばれているだけ。


 書類に載らない。


 正式ではない。


 所有者欄が空白のままなら、誰かが別の名前を貼れる。


 月影試作零号。


 月影試作系列。


 所有者不明の高位機械人形。


 回収対象。


 資産。


 ルナは歯を食いしばった。


 リツの声が、かすかに蘇る。


 呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ。


 ミオの声も。


 じゃあ、わたしたち、夜の学校向きだね。


 ルルトの声も。


 人形であることと、心がないことは別問題だ。


 ルナは、研究員を見た。


「わたくしは、ルナです」


「人工人格の自己主張反応、強い」


「わたくしは、ルナです」


「記録しておけ。感情応答が過剰だ。零号記録と一致する可能性がある」


「わたくしは、ルナです」


 研究員は少しだけ眉をひそめた。


 うるさい機械を見た時の顔だった。


「鎮静を追加する」


 別の研究員が近づく。


 手に、コード注入器。


 ルナは動けない。


 だが、目だけは逸らさなかった。


 怖い。


 怖いが、名前を手放したくなかった。


 注入器が首筋へ近づく。


 その時、施設全体が揺れた。


 低い衝撃音。


 続けて、警報。


 赤いランプが天井で回転し始める。


『外部侵入警報。第一隔壁、破損。第二警備班、応答なし』


 研究員たちが顔を上げる。


「何だ」


『外部侵入警報。影干渉反応。高危険度対象』


 ルナの視界の端で、扉の向こうの廊下が赤く点滅している。


 足音。


 怒号。


 銃声。


 何かが裂ける音。


 そして、黒い影が扉の下から滲む。


 研究員の一人が叫んだ。


「警備員を呼べ!」


     *


 影山グループ旧第七研究施設は、ミナト区南部の埋立地にあった。


 表向きには、閉鎖済みの物流管理センター。


 古い倉庫群の一角にあり、周囲には使われなくなったコンテナ、錆びたクレーン、魔導炉廃材の山が並んでいる。海からの風には塩と油の匂いが混じり、遠くの港湾区画では深夜の荷役機械が低い音を立てていた。


 施設の正面ゲートには、影山グループの名前は出ていない。


 別会社の管理札。


 だが、警備員の装備は影山系だった。


 ルルトはゲートの前に立っていた。


 影使いたちを突破し、車列の痕跡を追い、ミナト区の裏ルートを抜け、ここへ辿り着いた。


 コートは汚れている。


 袖は裂け、裾には影の腐食跡がある。頬に薄い切り傷。影を裂かれた反動で、足元の輪郭が少し揺れている。


 だが、彼は静かだった。


 静かすぎた。


 正面ゲートの警備員が銃を向ける。


「止まれ。ここは民間管理施設だ」


「そうは見えないね」


「身分証を提示しろ」


「持っていない」


「立ち去れ」


「中にいる機械人形を返してもらいに来た」


 警備員たちの目が変わった。


 情報は回っている。


 ルルトはそれを見て、確信した。


「やはり、ここか」


 警備員の一人が言った。


「その人形は影山グループの資産だ」


 ルルトは首を傾げた。


「その人形?」


「所有者不明の高位機械人形を、保全規定に基づき回収した。貴様に返還請求権はない」


「なるほど」


 ルルトは一歩進んだ。


 警備員たちが構える。


「それは嘘だね」


「何?」


「所有権を語る順番を間違えている」


 ルルトの声は静かだった。


 だが、その静けさは刃物よりも鋭かった。


「彼女に名前を聞いたかい」


「機械人形の現行呼称など――」


 その言葉は最後まで続かなかった。


 ルルトの影が伸びた。


 黒い爪が、右手に展開される。


 ダーククロウ。


 夜の闇を削り出したような爪が、赤い警備灯の光を吸う。


「名前を聞く前に資産と呼ぶ。意思を確認する前に回収する。所有者がいないから自分たちのものだと言う」


 ルルトは微笑んだ。


 美しい笑みだった。


 だが、そこには一片の温度もない。


「実に、書類の読み方が下手だ」


 警備員が発砲した。


 魔導弾がルルトの胸を撃ち抜く。


 彼は止まらない。


 一発、二発、三発。


 黒いコートに穴が開き、血が散る。


 だが傷は塞がりながら進む。


 警備員の顔に恐怖が走る。


 ルルトは施設の扉の前に立った。


 厚い防御扉。


 魔導装甲。


 企業研究施設用の隔壁。


 ダーククロウが振り下ろされる。


 黒い爪が、扉を斜めに切り裂いた。


 金属が悲鳴を上げる。


 魔導防壁が砕ける。


 火花と影が同時に散る。


 ルルトは切り裂かれた扉の隙間へ手をかけた。


「さて」


 彼は低く言った。


「拾ったものを返してもらおうか」


 黒い影が、施設の内側へ流れ込んだ。

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