第6話 人形誘拐
夜間部の授業が終わると、帝都月影高等学院は少しだけ息を吐く。
昼の学院の放課後とは違う。
昼の生徒たちは、授業が終われば廊下へあふれ出し、部活動へ向かい、購買へ走り、友人と寄り道の相談をする。自由になるための騒がしさがある。
けれど、夜間部の終わりには、自由よりも先に疲労がある。
時計は二十三時を過ぎている。生徒たちは鞄を持ち、上着を羽織り、義体の接続具合を確かめ、端末で帰路の安全情報を確認する。これから夜勤へ戻る者もいる。支援施設の寝台へ向かう者もいる。朝まで開いている診療所へ寄る者もいる。誰かに迎えを頼む者もいれば、誰にも頼めず一人で帰る者もいる。
ルナは、その最後の集団にいた。
制服ではない。
古びた制服風ワンピースに、見学者用カードを下げている。正式な学生証ではないが、カードには小さく「体験授業参加」と表示されていた。
それだけで、彼女は少し嬉しかった。
所有者欄は空白のまま。
保護者欄も空白のまま。
だが、名前欄には「ルナ」とある。
昨日、リツに言われた言葉が、まだ彼女の内部に残っている。
呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ。
ルナは、通用口のそばでそのカードをそっと撫でた。
「何、学生証見てにやけてんの」
隣からリツが言った。
彼は夜間部の鞄を肩にかけ、反対の手で眠気覚ましの紙パック飲料を持っている。目の下には薄い隈があり、授業中に何度か首が落ちかけていた。だが、口調はいつものように軽い。
「にやけておりません」
「してたよ。こう、ちょっと嬉しそうに」
「表情筋の制御に乱れがありましたか」
「乱れっていうか、普通に笑ってた」
「笑って」
ルナは自分の頬に指を当てた。
笑っていた。
自覚はなかった。
リツはそれを見て、少しだけ笑う。
「いいんじゃない。夜間部のカードで笑えるなら、まだ健全だよ」
「夜間部のカードで笑うことは、不健全なのですか」
「人による。俺は最初、これ見て“ああ、書類に捕まった”って思った」
「捕まった」
「支援って、逃げ道でもあるけど、首輪にもなるから」
リツは黒い月の通用口を見上げた。
夜の校章は、光をあまり返さない。
黒い月。
昼の学院の銀色の月とは違う。
同じ学院でありながら、夜だけ別の顔を持つ印。
「リツさんは、今日は配送センターへ向かわれるのですか」
「うん。カミハラ南の仕分け。朝まで」
「お身体は大丈夫でしょうか」
「大丈夫じゃない」
「では、休むべきでは」
「休むと給料が減る。給料が減ると食費が減る。食費が減ると授業中に寝る。結局同じ」
「同じではないように思えます」
「細かいこと言うなよ、機械人形」
「機械人形だから細かいことを言うのではありませんか」
「それもそうか」
リツは笑った。
ルナも少しだけ笑った。
その笑みは、以前よりぎこちなくなかった。
二人は夜間部の通用口を出る。門の外には、夜のカミハラ区が広がっていた。
カミハラ区は研究機関と学園の多い区域だ。昼間は学生と研究員が多く、道は整っていて、警備ドローンもよく巡回している。だが夜になると、表通りと裏通りの差が大きくなる。正規の研究棟が灯りを消した後、非正規の工房や下請け施設が動き出す。学園都市の清潔さの下で、企業の夜の仕事が始まるのだ。
ルナは帰り道を確認した。
夜間部から大通りへ出る。
魔導バスの停留所を右に見て、歩道橋の手前を左。
二つ目の交差点を渡る。
排熱パイプが見える道を進み、〈ホーム〉方面へ向かう。
内蔵地図は相変わらず不安定だった。
だが、少しずつ覚えてきている。
道の匂い。照明の色。看板。危険な路地の手前にある落書き。ルルトに教えられた「通ってよい道」と「通らない方がよい道」。屋台の親父が教えてくれた目印。リツが教えてくれた夜間バスの停留所。
地図機能は壊れていても、自分で覚えることはできる。
そのことが、ルナには少し誇らしかった。
「一人で帰れる?」
リツが尋ねる。
「はい。おそらく」
「おそらくか」
「前回よりは高確率です」
「その言い方、不安になるんだけど」
「迷った場合は、ルルト様へ通信いたします」
「それがいい。宵の明星に迎えに来られる方も怖そうだけど」
「ルルト様は、迎えには来るが助けるとは限らないとおっしゃいました」
「そこは助けろよ」
「わたくしもそう申し上げました」
「珍しく意見が合った」
リツは紙パックを潰し、近くのゴミ箱へ投げ入れた。きれいに入る。眠そうなのに、手元だけは妙に正確だ。
「じゃ、俺こっち」
彼は配送センター方面の道を指した。
「ルナはそっち。大通りから外れすぎるなよ。あと、黒い車には近づくな」
「黒い車、ですか」
「夜に路肩で止まってる黒い車。だいたい面倒」
「覚えておきます」
「特に影山の車はな」
ルナは小さく反応した。
「影山グループ」
「うん。最近、学校の周りでよく見る。基金の人間か、調査員か、送迎か。どれでも嫌だけど」
「リツさんは、影山基金の方々を警戒しているのですか」
「してる。けど、世話にもなってる。だから余計に嫌」
リツは少しだけ視線を逸らした。
「気をつけろよ。所有者未登録の機械人形は、書類上だといろんな大人が触りたがる」
「わたくしは、触られたいとは思いません」
「なら、そう言え。はっきり」
「言えば、止まるでしょうか」
「止まらないやつもいる」
「その場合は?」
「逃げろ。通信しろ。叫べ。無理なら噛め」
「噛む」
「機械人形なら噛む力くらい強いだろ」
「人間を噛むのは、倫理的に問題があるのでは」
「誘拐されるよりはマシ」
その言葉を、リツは冗談ではなく言った。
ルナは頷いた。
「承知いたしました。必要に応じて噛みます」
「真面目に言われると怖いな」
「リツさんが教えてくださいました」
「責任が発生するやつだ、これ」
リツは苦笑し、手を振った。
「じゃあな。無事に帰れよ」
「はい。リツさんも、お仕事お気をつけて」
「寝ないように祈ってて」
「祈れば、寝ないのですか」
「気分の問題」
「では、気分を祈ります」
「何だそれ」
リツは笑いながら、夜の道へ歩いていった。
ルナはしばらくその背中を見送る。
それから、自分の帰り道へ向かった。
ひとりで。
夜の空気は、少し冷たかった。
通りの向こうでは、研究棟の窓がいくつか青く光っている。無人運搬車が低い音を立てて走り、歩道には夜間部の生徒がぽつぽつと散っていく。数分もすれば、ルナの周囲から学院の気配は薄くなった。
彼女は歩く。
一つ目の交差点。
信号を待つ。
青になる。
渡る。
リツに教わったとおり、黒い車には近づかない。
歩道橋の手前を左。
古い魔導広告が点滅している。
大通りを外れすぎない。
呼吸は不要。
けれど、彼女は息を吸って、吐く。
怖くない。
怖くないわけではない。
だが、前よりも歩ける。
夜間部へ行き、授業を受け、ミオと話し、リツと別れ、自分で帰る。
それは小さなことかもしれない。
人間の生徒なら、当たり前のことかもしれない。
けれどルナにとっては、当たり前ではなかった。
彼女は、自分で道を覚えている。
自分で歩いている。
自分の名前が書かれたカードを下げている。
ルナ。
そう名乗った名前。
その時、背後で車の走行音が止まった。
ルナは振り向いた。
黒い車が一台、路肩に停まっている。
いつの間にか。
車体は大きいが、音はほとんどなかった。窓は黒く、内部は見えない。車両側面に企業ロゴはない。だが、フロント部分に小さな月影のような紋章がある。
影山グループの紋章に、似ていた。
リツの言葉がよみがえる。
黒い車には近づくな。
ルナは歩幅を早めた。
前方の角を曲がれば、大通りに出る。
そこまで行けば、人目がある。
だが、角の向こうから二台目の黒い車が出てきた。
道を塞ぐように停まる。
ルナは足を止めた。
背後の車のドアが開く。
男たちが降りてきた。
黒いスーツ。黒い手袋。顔には透明な視覚補助レンズ。企業警備員というより、回収業者に近い無機質さがある。腰には銃ではなく、細い金属杭のような魔導具を下げていた。
前方の車からも二人。
左右の路地から、さらに二人。
計六人。
ルナを囲むには十分な数だった。
ルナは金属製の街灯を背にした。
「どちら様でしょうか」
声は震えなかった。
そのことに、彼女自身が少し驚いた。
先頭の男が端末を起動する。
画面にはルナの顔写真が表示されていた。
いつ撮られたのか、彼女にはわからない。
夜間部の受付端末か。
校内の監視カメラか。
あるいはもっと前からか。
「識別照合。対象、少女型機械人形。月影試作系列候補。現行呼称、ルナ。所有者登録なし。保護責任者なし」
「わたくしは、ルナです」
「現行呼称は確認済み」
「呼称ではございません。名前です」
男は反応しなかった。
端末の表示だけを見ている。
「対象は所有者不明の高位機械人形と判断。影山グループ保全規定に基づき、回収する」
「回収、とは」
「保護、検査、所有権確認、構造解析を行う」
「わたくしは、保護を希望しておりません」
「希望確認は不要」
「不要ではありません」
ルナは一歩下がった。
背中が街灯に当たる。
逃げ道は少ない。
左側の路地は狭い。だが一人なら抜けられるかもしれない。右側は車。正面に二人、背後に二人。空中へ跳ぶ機能はない。戦闘機能もほとんどない。出力は上がったが、身体能力で押し切れるかは不明。
通信。
ルルトへ。
ルナは内部通信を起動しようとした。
だが、ノイズが走った。
通信妨害。
周囲の車両から、広域ジャミングが出ている。
「通信遮断確認」
男が言った。
「対象の外部連絡を制限」
「わたくしは、帰宅中です」
「回収後、必要に応じて関係者へ通知する」
「関係者とは誰ですか」
「所有者または保護責任者」
「わたくしには」
ルナは言葉を詰まらせた。
所有者は、いない。
保護責任者も、登録されていない。
ルルトは署名していない。
空白。
その空白が、ここで牙を剥いた。
男が一歩近づく。
「同行を」
「拒否します」
「拒否権限は確認できない」
「わたくしの意思は、権限ではないのですか」
「人工人格の意思は所有権確認後に評価される」
その言葉は、鋭利だった。
刃物のようではない。
書類の端で指を切るような、薄く冷たい痛み。
ルナは胸の前で拳を握った。
「リツさんは、必要であれば噛めとおっしゃいました」
男たちが一瞬だけ止まった。
「何?」
「警告いたします。近づいた場合、噛みます」
場違いな言葉だった。
だがルナは本気だった。
男たちは理解に数秒かかったようだった。ひとりが小さく笑う。
「拘束」
左右の男が同時に動いた。
ルナは左へ走った。
予測より速く。
新しいエネルギー炉が出力を上げ、脚部の人工筋肉が限界近くまで収縮する。彼女は一人目の脇を抜け、左の路地へ滑り込もうとした。
その瞬間、地面に黒い杭が打ち込まれた。
影縫い杭。
男が腰から抜いた魔導具が、ルナの足元の影へ突き刺さる。
ルナの身体が止まった。
足が動かない。
いや、足そのものは動く。だが、影が床に縫いつけられたことで、動作命令と実際の移動がずれる。脚部関節が悲鳴を上げ、制御系がエラーを吐いた。
ルナは倒れそうになる。
別の杭が打ち込まれる。
二本目。
影がさらに固定される。
両腕が重くなる。
まるで、身体の外側にある何かが、内側の命令を拒絶しているようだった。
「影拘束、成功」
「対象出力、上昇傾向」
「追加固定」
三本目の杭。
ルナは歯を食いしばった。
機械人形に歯を食いしばる必要はない。
だが、そうした。
「わたくしは……帰ります」
「回収する」
「帰ります」
「人工人格興奮状態。鎮静処理」
男が細い注射器のような魔導具を取り出した。
機械人形の記録核へ干渉するための鎮静コードだ。
ルナは通信を再起動する。
ノイズ。
失敗。
もう一度。
ノイズ。
失敗。
ルルト様。
通信妨害の隙間を探す。
短文なら送れるかもしれない。
長い文章は無理。
位置情報も乱されている。
なら、言葉だけ。
ルナは内部回路の一部を強制的に開放した。記録核が熱を持つ。視界が赤く揺れる。外部通信モジュールが一瞬だけ妨害の波の隙間を拾った。
送信。
たった一文。
帰れなくなりました。
送れたかどうかはわからない。
次の瞬間、鎮静コードが首筋の接続端子へ撃ち込まれた。
視界が暗くなる。
音が遠ざかる。
最後に見えたのは、自分の影だった。
地面に縫いつけられた影。
その影だけが、ほんのわずかに手を伸ばしていた。
まるで、帰り道を探すように。
*
その頃、ルルトは別件の依頼人と会っていた。
場所はホウジュ区とミナト区の境にある古い喫茶店だった。
看板には「純喫茶オルフェ」とある。昼間は近隣の会社員が来るが、夜になると裏社会の小さな相談場所になる。店主は誰の味方でもない。代わりに、店内で銃を抜いた者には二度と珈琲を出さない。それだけの店だった。
ルルトは奥の席に座っている。
黒いコートは椅子の背に掛けられ、テーブルには古いカップと資料が置かれている。彼の向かいには、痩せた男が座っていた。年齢は四十前後。高級ではないが清潔なスーツを着ている。表の人間に見えるが、手元の震えと目の血走り方は、まともな相談ではないことを示していた。
「ですから、妻を殺したのは私ではありません」
男は早口で言った。
「警察は私を疑っています。保険金の件もある。確かに、妻とはうまくいっていませんでした。ですが殺してはいない。私はただ、あの日、家に帰らなかっただけで――」
「帰らなかったのではなく、帰れなかった」
ルルトはカップを置いた。
男の言葉が止まる。
「え?」
「あなたの靴底に、ミナト区の冷凍倉庫街で使われる防滑樹脂の粉がついている。昨日の雨では流れにくい粉だ。スーツの袖口には安い香水の移り香。港湾労働者向けの宿に出入りする女性がよく使う銘柄。あなたは昨夜、妻の死亡推定時刻に家へ帰らなかったのではなく、帰れなかった。愛人といたからだ」
男の顔が白くなる。
「ち、違……」
「違うなら、嘘をつく順番を間違えています。最初に“妻を殺していない”ではなく、“妻とは会っていない”と言うべきだった」
「私は……」
「あなたは妻を殺していない。たぶんね」
男は息を呑んだ。
「ほ、本当ですか」
「ただし、妻が死ぬように配置した可能性はある」
「配置?」
「玄関の防犯結界を切ったのはあなたでしょう。浮気を隠すために。結果として、別の誰かが入った」
「そんな……私は、ただ」
「ただ、の後に続く言葉で人はよく死にます」
ルルトは淡々と言った。
男は震えながら資料を握り締めた。
「では、犯人は」
その時、ルルトの通信端末が震えた。
短い受信。
ノイズ混じり。
送信者、ルナ。
位置情報、破損。
通信状態、不安定。
本文、一文。
帰れなくなりました。
ルルトの指が止まった。
店内の空気が、ほんのわずかに変わる。
依頼人の男は気づかなかった。
「先生、犯人は誰なんですか。私はどうすれば――」
ルルトは立ち上がった。
「すまないね」
「え?」
「拾ったものが盗まれた」
男は呆然とした。
「は? いや、待ってください。私の妻の件は」
「あなたの妻を殺した犯人は、保険金ではなく家の古い結界鍵を狙っている。鍵を持っているなら今すぐ捨てるなり、警察へ渡すなりしなさい。愛人の件は、聞かれたら正直に話した方がいい。嘘を重ねると、あなたは妻を殺していなくても、妻を殺したような顔になる」
「ちょ、ちょっと待ってください! 依頼料は払っています!」
「前金分の助言はした」
「そんな無責任な!」
男が立ち上がり、ルルトの腕を掴もうとした。
ルルトは振り返った。
ただ、それだけだった。
男の手が止まる。
ルルトの目に、いつもの皮肉な色がなかった。
冷たい。
いや、冷たいだけではない。
温度が消えていた。
男は本能的に理解した。
これ以上、触れてはいけない。
ルルトは静かに言った。
「領収書は店主に預けておく」
それだけ言って、彼は店を出た。
夜のホウジュ区。
通りにはまだ人がいる。酔客、仕事帰り、裏稼業の運び屋、夜勤へ向かう者。ルルトはその中へ出ると、通信端末を開いた。
位置情報は壊れている。
だが、送信の痕跡は残っていた。
カミハラ区南西。学院から〈ホーム〉へ向かう帰路。通信妨害。車両型ジャマー。影拘束術式の痕跡。
「早いね」
ルルトは呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
影山が動くのは予想していた。
だが、これほど早くルナを直接回収するとは。
所有者未登録。
月影試作零号。
夜間部への体験授業。
端末に出た名前。
それらが重なった瞬間、影山側はルナを“回収可能な資産”として扱ったのだろう。
ルルトは端末を閉じた。
次に、足元の影へ視線を落とす。
「さて」
彼の影が、街灯の下で細く伸びる。
「拾ったものを盗むなら、せめて盗み方くらい美しくしてほしいものだ」
次の瞬間、ルルトの姿は路地の影へ沈んだ。
*
ルルトは、ルナを運ぶ車列を追った。
普通の追跡ではない。
彼は車両の後ろを走らない。
影を辿る。
車の影。街路樹の影。高架下の影。深夜営業の店から漏れる光に切られた細い影。魔導バスの下に伸びる揺れる影。ビルの壁面広告が作る不規則な暗がり。
そこを渡る。
シャドービハインドは瞬間移動ではない。影から影へ、自分の位置をずらす技術だ。長距離移動には向かない。連続すれば身体と影の結びつきが揺らぎ、足元の感覚が薄くなる。
だが、今はそれを気にしない。
カミハラ区の外縁。
追跡開始地点に残っていた影縫い杭の痕跡を確認する。
地面に小さな焦げ跡。
影を縫った後の黒いにじみ。
ルナの足跡は途中で消えている。抱え上げられたか、拘束して車内へ運ばれたか。車両のタイヤ跡は三台分。すべて同じ規格。影山系警備車両の可能性が高い。
ルルトはしゃがみ、地面の黒い跡に指先を触れた。
指先に微かな痛み。
影を固定する術式の残り香。
「雑だね」
怒りの声ではなかった。
むしろ、いつも通りの淡々とした声だった。
ただ、その淡々さが、逆に危うい。
「逃げる相手ではなく、物を縛る手つきだ」
彼は立ち上がった。
車両はミナト区方面へ向かっている。
遠回りしている。
直接、影山グループ本社地下へ運ぶのではない。旧研究施設、倉庫、あるいは基金管理外の施設。公式記録に残しにくい場所。
ルルトはミナト区へ向かう裏ルートに入った。
〈ホーム〉のさらに奥、排熱パイプの下を通る道。違法屋台の裏。野良機械人形が部品を漁る廃材置き場。魔導炉の副産物を無許可で抜き取る小工房。地図にはない歩道橋。建設途中で放棄された空中通路。
彼の動きは速かった。
だが、急いでいるようには見えない。
急いでいる者は、無駄な動きをする。
ルルトは無駄を削る。
次の角で誰が出てくるか、どの屋根が崩れやすいか、どの監視カメラが生きているか、どの路地に魔導ノイズが溜まっているか。すべてを見ながら、最短ではなく最適の道を選ぶ。
それでも、妨害は来た。
ミナト区へ入る手前、高架下。
そこは昼でも薄暗い場所だった。上を走る高速道路の排熱と、下を流れる排水路の湿気が混ざり、空気は重い。壁には古い広告と女帝信仰の祈祷札が重なり、ところどころ剥がれている。
ルルトが高架下へ踏み込んだ瞬間、影が立ち上がった。
人影が三つ。
黒い布を纏ったような姿。顔は見えない。足元は地面と繋がっている。影山グループの私設回収部隊ではない。彼らよりも古い術を使う者たち。
影使い。
「通行止めかな」
ルルトは足を止めた。
影使いの一人が言った。
「対象追跡を中止しろ」
「対象とは?」
「所有者不明機械人形」
「名前がある」
「登録名は未確定」
「ルナだよ」
影使いたちは反応しない。
その無反応が、ルルトの目をさらに冷たくした。
「なるほど。君たちも、書類しか読めない類か」
「警告は一度だけだ」
「親切だね。ボクは警告が苦手だ」
「退け」
「断る」
影使いが同時に動いた。
高架下の影が波のように盛り上がり、ルルトの足元へ走る。影縫いではない。影そのものを沼に変え、身体を沈める術式だ。ルルトは横へ跳ぶ。だが壁の影から黒い腕が伸び、彼のコートを掴んだ。
ルルトはコートを脱いだ。
黒い布だけが影の腕に絡め取られる。
その隙に、二人目の影使いが背後へ回る。手には短い影刃。物理刃ではなく、影を裂くための刃だ。
ルルトの弱点を知っている。
影への攻撃は治りにくい。
情報が渡っている。
「予習済みか」
ルルトは言った。
影刃が彼の背中を切った。
肉体ではなく、足元の影が裂ける。
ルルトの身体が一瞬揺らぐ。視界がぶれる。胸の奥で、心臓とは別の場所が掴まれたような痛みが走る。
だが、倒れない。
彼は振り返らず、背後へ肘を打ち込んだ。
影使いの顔面に入る。
骨の砕ける音。
一人目が壁に叩きつけられる。
二人目が影沼を広げる。
ルルトは足元を見た。
自分の影の裂け目。
そこへ、黒い爪を立てる。
ダーククロウ。
自分の影を掴み、裂けた部分を強引に引き寄せる。
痛みはある。
だが、動ける。
「必要な相手を、必要なだけ壊す」
ルルトは低く呟いた。
「今日は、それでいい」
次の瞬間、高架下の影が爆ぜた。
ルルトの身体が、影使いの一人の背後へ現れる。黒い爪が肩口を抉り、魔導回路を切る。男は悲鳴を上げる前に膝を折った。二人目が逃げようとする。ルルトは地面の影を踏み、相手の影を踏み潰す。
影使いの動きが止まる。
「影を使う者は、影を踏まれる覚悟も持つべきだ」
ルルトは彼の手首を踏んだ。
鈍い音。
三人目が、影の中へ逃げようとした。
ルルトはリボルバーを抜く。
怨霊呪弾。
銃声が高架下に響いた。
弾丸は三人目の身体ではなく、その足元の影へ撃ち込まれる。影が黒い炎のように揺れ、男の身体を地面から引きずり出した。
男は転がり、吐いた。
ルルトは彼の胸元を踏む。
「ルナをどこへ運んだ?」
男は答えない。
ルルトは足に力を込めた。
肋骨が軋む。
「答えなくてもいい。君の靴底に、旧研究区画の防塵樹脂がついている。袖にはミナト区南部の海塩。車両は三台。カミハラからミナトへ抜ける途中で一度、排熱道路を使っている。目的地は影山グループ旧第七研究施設かな」
男の目が揺れた。
それで十分だった。
「ありがとう。口を割る手間が省けた」
ルルトは足をどける。
男は咳き込みながら、地面を這う。
「ば、化け物……」
ルルトはコートを拾い上げた。
影に絡め取られたせいで、布の一部が黒く腐食している。
「また服代が増えた」
彼はそう言って、高架下を抜けた。
*
ルナが目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。
背中が冷たい。
手首が重い。
脚が動かない。
視界には白い天井。
明るすぎる照明。
消毒液の匂い。
低い機械音。
彼女は拘束台の上に横たえられていた。
両手首、両足首、首、腰が固定されている。影縫い杭ではない。物理拘束と魔導拘束の複合。背中の外装パネルに何かが接続され、記録核の外側を解析されている。
ルナは起き上がろうとした。
動けない。
内部警告。
拘束状態。
外部接続検出。
記録核防壁、自動展開。
通信不可。
位置情報、不明。
「覚醒しました」
誰かの声。
研究員だった。
白衣を着た男。年齢は三十代ほど。顔に疲れはあるが、感情は薄い。人間を診る医者ではない。機械を見る技術者の目だ。
彼はルナの瞳孔反応を確認し、端末へ入力した。
「人工人格反応、安定。鎮静コード残留あり。出力上昇は許容範囲」
ルナは声を出そうとした。
喉が少し遅れて動く。
「ここは、どこでしょうか」
「影山グループ旧第七研究施設」
研究員は、隠す気もないようだった。
「あなたは何者ですか」
「研究管理主任代理。名乗っても、君の処遇には影響しない」
「わたくしを、帰してください」
「検査後、判断する」
「わたくしは、検査を希望しておりません」
「希望確認は不要」
同じ言葉。
ルナは手首を動かそうとした。
拘束具が鳴るだけだった。
視線だけを横へ向ける。
そこには、棚が並んでいた。
部品棚。
だが、普通の機械部品ではない。
少女型機械人形の腕。
脚。
顔面外装。
人工眼。
壊れた記録核。
小さな指。
髪の束。
外装パネル。
胸部フレーム。
どれも、ルナと似た色をしていた。
白い肌。
淡い髪。
青紫系の人工眼。
ルナは呼吸を忘れた。
必要のない呼吸を。
忘れた。
「これは……」
「月影試作系列の残骸だ」
研究員は淡々と言った。
「残骸」
「廃棄個体、未完成個体、人格不適合個体、出力暴走個体、記録核欠損個体。保存価値のある部位だけ残している」
ルナの視界が揺れる。
自分と似た腕。
自分と似た瞳。
自分と似た顔。
それらが、物のように並んでいる。
「わたくしと……同じ」
「同系統だ」
「わたくしは、何なのでしょうか」
「月影試作系列候補。現行名ルナ。外観、出力炉、人工人格反応、影干渉適性、旧記録との照合から、月影試作零号または派生個体の可能性が高い」
「月影試作零号」
その言葉を聞いた瞬間、ルナの内部でノイズが走った。
知らないはずの単語。
なのに、どこかで聞いたような感覚。
暗い部屋。
白い光。
誰かの声。
失敗。
廃棄。
感情過多。
代用不適合。
ルナは目を閉じた。
だが、映像は消えない。
「わたくしは、ルナです」
声が震えた。
機械人形の声なのに。
震えた。
研究員は端末から目を上げた。
「現行呼称は確認済み」
「呼称ではありません。わたくしは、ルナです」
「登録名ではない」
その言葉は、ルナの胸を深く刺した。
登録名ではない。
名前ではない。
呼ばれているだけ。
書類に載らない。
正式ではない。
所有者欄が空白のままなら、誰かが別の名前を貼れる。
月影試作零号。
月影試作系列。
所有者不明の高位機械人形。
回収対象。
資産。
ルナは歯を食いしばった。
リツの声が、かすかに蘇る。
呼ばれてるんじゃなくて、名乗ればいいんだよ。
ミオの声も。
じゃあ、わたしたち、夜の学校向きだね。
ルルトの声も。
人形であることと、心がないことは別問題だ。
ルナは、研究員を見た。
「わたくしは、ルナです」
「人工人格の自己主張反応、強い」
「わたくしは、ルナです」
「記録しておけ。感情応答が過剰だ。零号記録と一致する可能性がある」
「わたくしは、ルナです」
研究員は少しだけ眉をひそめた。
うるさい機械を見た時の顔だった。
「鎮静を追加する」
別の研究員が近づく。
手に、コード注入器。
ルナは動けない。
だが、目だけは逸らさなかった。
怖い。
怖いが、名前を手放したくなかった。
注入器が首筋へ近づく。
その時、施設全体が揺れた。
低い衝撃音。
続けて、警報。
赤いランプが天井で回転し始める。
『外部侵入警報。第一隔壁、破損。第二警備班、応答なし』
研究員たちが顔を上げる。
「何だ」
『外部侵入警報。影干渉反応。高危険度対象』
ルナの視界の端で、扉の向こうの廊下が赤く点滅している。
足音。
怒号。
銃声。
何かが裂ける音。
そして、黒い影が扉の下から滲む。
研究員の一人が叫んだ。
「警備員を呼べ!」
*
影山グループ旧第七研究施設は、ミナト区南部の埋立地にあった。
表向きには、閉鎖済みの物流管理センター。
古い倉庫群の一角にあり、周囲には使われなくなったコンテナ、錆びたクレーン、魔導炉廃材の山が並んでいる。海からの風には塩と油の匂いが混じり、遠くの港湾区画では深夜の荷役機械が低い音を立てていた。
施設の正面ゲートには、影山グループの名前は出ていない。
別会社の管理札。
だが、警備員の装備は影山系だった。
ルルトはゲートの前に立っていた。
影使いたちを突破し、車列の痕跡を追い、ミナト区の裏ルートを抜け、ここへ辿り着いた。
コートは汚れている。
袖は裂け、裾には影の腐食跡がある。頬に薄い切り傷。影を裂かれた反動で、足元の輪郭が少し揺れている。
だが、彼は静かだった。
静かすぎた。
正面ゲートの警備員が銃を向ける。
「止まれ。ここは民間管理施設だ」
「そうは見えないね」
「身分証を提示しろ」
「持っていない」
「立ち去れ」
「中にいる機械人形を返してもらいに来た」
警備員たちの目が変わった。
情報は回っている。
ルルトはそれを見て、確信した。
「やはり、ここか」
警備員の一人が言った。
「その人形は影山グループの資産だ」
ルルトは首を傾げた。
「その人形?」
「所有者不明の高位機械人形を、保全規定に基づき回収した。貴様に返還請求権はない」
「なるほど」
ルルトは一歩進んだ。
警備員たちが構える。
「それは嘘だね」
「何?」
「所有権を語る順番を間違えている」
ルルトの声は静かだった。
だが、その静けさは刃物よりも鋭かった。
「彼女に名前を聞いたかい」
「機械人形の現行呼称など――」
その言葉は最後まで続かなかった。
ルルトの影が伸びた。
黒い爪が、右手に展開される。
ダーククロウ。
夜の闇を削り出したような爪が、赤い警備灯の光を吸う。
「名前を聞く前に資産と呼ぶ。意思を確認する前に回収する。所有者がいないから自分たちのものだと言う」
ルルトは微笑んだ。
美しい笑みだった。
だが、そこには一片の温度もない。
「実に、書類の読み方が下手だ」
警備員が発砲した。
魔導弾がルルトの胸を撃ち抜く。
彼は止まらない。
一発、二発、三発。
黒いコートに穴が開き、血が散る。
だが傷は塞がりながら進む。
警備員の顔に恐怖が走る。
ルルトは施設の扉の前に立った。
厚い防御扉。
魔導装甲。
企業研究施設用の隔壁。
ダーククロウが振り下ろされる。
黒い爪が、扉を斜めに切り裂いた。
金属が悲鳴を上げる。
魔導防壁が砕ける。
火花と影が同時に散る。
ルルトは切り裂かれた扉の隙間へ手をかけた。
「さて」
彼は低く言った。
「拾ったものを返してもらおうか」
黒い影が、施設の内側へ流れ込んだ。




