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ルナティックハイ  作者: 秋月キアラ
宵の明星と月影の教室
5/12

第5話 月影の奨学生

 ルナが夜間部へ行きたいと言い出した時、ルルトは驚かなかった。


 驚かなかったので、ルナは少し困った。


 〈ホーム〉の朝は、相変わらず汚れていた。


 窓の外では、違法屋台の蒸気が排熱パイプの白い湯気に混じり、古いビルの谷間に薄い雲を作っている。路地では、昨日とは別の子どもたちが廃材のボールを蹴っていた。二階の廊下では誰かが洗濯物を落とし、三階では義体修理屋の見習いが古い腕部パーツを抱えて階段を駆け下りている。遠くで銃声のような音がしたが、誰も反応しない。実際には銃声ではなく、違法改造バイクのエンジンが破裂した音だったらしい。


 ルルトの部屋は、その騒がしさから少しだけ切り離されている。


 完全に静かではない。壁は薄いし、廊下の足音は聞こえるし、下の階の夫婦喧嘩は朝から始まっている。けれど部屋の中には、ルルトの作った秩序があった。


 机の上には、影山雄蔵に関する資料が並んでいる。


 公式経歴。

 報道写真。

 影山グループの事業構造。

 帝都月影高等学院夜間部の支援資料。

 影山グループ社会復帰支援基金の広報パンフレット。

 夜間部の校章。

 古い出席簿の一部と思われる、シンから送られてきた文字化けだらけの断片。


 その隣で、ルナは両手を膝に置いて座っていた。


 薄い月色の髪を丁寧に梳かし、昨日より少しだけ整えられたワンピースを着ている。胸元には、帝都月影高等学院・夜間特別課程の見学者用カードがぶら下がっていた。


 正式な学生証ではない。


 体験授業参加証。


 その文字を見ていると、ルナの中で人工心拍に似た駆動音が少しだけ速くなる。


「ルルト様」


「何かな」


「わたくし、本当に行ってもよろしいのでしょうか」


「よろしい、という許可を求めているのかい?」


「はい」


「許可がなければ行かない?」


「……わかりません」


 ルルトは資料から顔を上げた。


「なら、許可を求める順番を間違えている」


「順番、でございますか」


「行きたいかどうかを先に決める。許可はその後だ」


「ですが、わたくしは機械人形です」


「そうだね」


「機械人形は、所有者の許可なく外出しないものではありませんか」


「君の所有者は誰かな」


 ルナは黙った。


 その問いは、最近ずっと彼女の中に残っている。


 所有者。


 登録欄。


 空白。


 未登録。


 ルルトのもとにいる。ルルトに拾われた。ルルトがエネルギー炉を買ってくれる。ルルトが帰る場所を開けてくれる。だが、それは所有なのだろうか。


 所有であれば、安心できるのだろうか。


 それとも、怖いのだろうか。


「ルルト様は……」


 ルナは言いかけて、止まった。


 ルルトは続きを急かさない。


 彼はいつもそうだ。ルナが言葉を探している時、早くしなさいとは言わない。ただ見ている。観察している。待っているようでもあり、待っていないようでもある。


「ルルト様は、わたくしの所有者ではないのでしょうか」


「少なくとも、ボクはその欄に署名した覚えはない」


「署名すれば、所有者になるのですか」


「書類上はね」


「書類上ではない場合は?」


「それは、もっと面倒な話になる」


「面倒なお話が多すぎます」


「この街は、面倒な話でできている」


 ルルトはペンを置いた。


 そして、体験授業参加証を見る。


「行きたいなら行けばいい」


「反対なさらないのですか」


「する理由がない」


「理由がないから、許可するのですか」


「理由があるなら止める」


「それは、優しさなのでしょうか」


「違うよ。判断保留だ」


「判断保留」


「君があの学校に興味を持った。夜間部には影山の手が伸びている。ミオという影の濃い生徒がいる。リツという影山奨学生がいる。君の名前が出席管理端末に表示された可能性もある。調べる価値はある」


「つまり、わたくしは調査に利用されるのですね」


「そういう言い方をすれば、そうなる」


 ルナは少しむくれた。


 頬を膨らませるほどではない。けれど、唇の端がほんのわずかに下がる。自分でもそれに気づいたらしく、すぐに表情を戻そうとする。


 ルルトはそれを見ていた。


「不満かな」


「少しだけ」


「では、別の言い方をしよう」


 ルルトは椅子の背にもたれた。


「君が見たいと思った場所へ行く。ボクは、それを止めない。その結果、ボクの調査にも役立つ。これならどうかな」


 ルナは少し考えた。


「……先ほどより、少しよいです」


「よかった」


「ですが、ルルト様はわたくしを心配なさらないのですか」


「するよ」


「今、調査に役立つとおっしゃいました」


「心配と利用は両立する」


「両立してよいものなのでしょうか」


「よいかどうかは知らない。両立してしまう」


 ルナはまた困った。


 困ったけれど、少し嬉しかった。


 心配。


 ルルトがそれを認めたことが、嬉しかった。


 彼は優しい言葉を選ばない。励ましもしない。大丈夫だとも言わない。けれど、見ている。危険を見ている。自分が壊れる可能性を、きっと見ている。


 それは冷たい観察なのかもしれない。


 けれど、完全な無関心ではない。


「条件がある」


 ルルトは言った。


 ルナは背筋を伸ばした。


「はい」


「帰れなくなったら呼びなさい。迎えには行く。助けるとは限らないけれど」


「そこは助けるとおっしゃってくださいませ」


「状況による」


「わたくしが危険な場合でもですか」


「危険の種類による。たとえば、君が書類手続きで困っているなら助けない」


「それは危険です」


「危険ではない」


「書類は敵だとリツさんがおっしゃっていました」


「彼は正しい。だが、敵を全部ボクが倒していたら、君は書類に勝てない」


「書類に勝つ必要があるのですか」


「この街で生きるなら、時々ある」


 ルナは真剣に頷いた。


「承知いたしました。書類と戦います」


「殺さないように」


「書類は殺せるのですか」


「燃やせばね」


「燃やしてはいけないのですね」


「場合による」


「ルルト様、教育に向いていないと思います」


「ボクもそう思う」


 ルナは少しだけ笑った。


 それから、参加証をそっと握った。


「行ってまいります」


「行ってらっしゃい」


 ルナは玄関へ向かった。


 靴を履き、扉を開ける前に一度振り返る。


 ルルトはもう資料へ視線を戻していた。


 だが、その指先は机の上の通信端末に触れている。


 ルナの位置情報を確認するための端末だ。


 見送っていないようで、見ている。


 ルナはそれに気づいて、胸の奥が少し暖かくなった。


     *


 夜の帝都月影高等学院は、三度目に来てもまだ別の場所に見えた。


 初めて来た時は、迷子の終点だった。


 二度目に来た時は、夜の学校の入り口だった。


 そして今夜は、体験授業の場所だった。


 同じ通用口。黒い月の校章。同じ受付端末。同じ照明。けれど、ルナの中の状態が違うだけで、景色の意味も変わる。


 見学者用カードをかざすと、端末が反応した。


 氏名、ルナ。

 種別、機械人形。

 参加区分、体験授業。

 保護者、未入力。

 所有者、未入力。


 画面が一瞬だけ固まる。


 ルナは息を止めた。


 だが、次の瞬間、端末は通過許可を出した。


 夜間部管理者承認済。


 御門サエの名前が小さく表示される。


「お、来た」


 通用口の内側で、リツが手を振った。


 彼は今日も制服を少し崩している。肩には鞄、片手には紙パックの珈琲。眠そうな目をしているが、昨日より少しだけ機嫌がよさそうに見えた。


「こんばんは、リツさん」


「こんばんは。迷わず来られた?」


「はい。三回、経路補正を行いましたが、通信せず到着できました」


「それは迷わずって言うのか?」


「目的地に到着できれば正しい道だと屋台の方がおっしゃっていました」


「その理論、夜間部向きだな」


 リツは笑いながら、ルナを中へ案内した。


 廊下には夜間部の生徒たちが集まり始めている。今日も顔ぶれはばらばらだった。作業着の者、制服の者、義体を引きずる者、顔を隠す者、明らかに成人している者。昼の学校なら浮くはずの者たちが、ここではそれほど浮かない。


 ただし、ルナは珍しがられた。


「昨日の機械人形の子だ」


「名前、ルナだっけ」


「正式に入るの?」


「所有者欄どうしたの?」


「おい、それ聞くなって」


「でも気になるじゃん」


 ルナは少し困ったが、怖くはなかった。


 視線はある。


 しかし、〈ホーム〉の路地のような値踏みではない。昼の学院のような距離でもない。ここでは、誰もが何かしら見られる理由を持っているから、見られることそのものが絶対的な拒絶にならない。


「ルナ、こっち」


 リツが掲示板の前で立ち止まった。


「昨日は授業だけだったから、今日は夜間部の中を案内する」


「ありがとうございます」


「まず、ここが掲示板。昼の学院とは貼ってあるものが違う」


 壁一面に紙と端末表示が並んでいる。


 夜間補食申請。

 住居支援相談。

 義体メンテナンス予約。

 魔導災害補償申請。

 匿名退職相談。

 裏稼業からの離脱支援。

 戸籍・身元相談。

 機械人形同伴授業に関する申請。

 人工人格個体の学習権に関する相談窓口。

 夜間労働者の単位認定。

 暴力被害者一時保護。


 ルナは一つ一つ読んでいった。


 読まなければならない気がした。


 この掲示板には、昼の生徒たちが見ない生活が貼られている。


 食べること。

 眠る場所。

 身体の修理。

 名前。

 身元。

 仕事から逃げる方法。

 暴力から隠れる方法。

 人形が授業を受けるための申請。


「ここには、たくさんの困りごとがあるのですね」


「学校っていうより、夜の役所みたいだろ」


「役所も学校も、わたくしにはよくわかりません」


「じゃあ、夜の何でも相談所」


「それは、わかりやすいです」


「ただし、何でも解決するわけじゃない」


 リツは掲示板の端を指差した。


「で、あれ」


 そこには、他の掲示物より綺麗なポスターが貼られていた。


 上質な紙。


 品のいい青と銀。


 影山グループの紋章。


 影山グループ社会復帰支援基金。


 ――行き場のない若者に、学び直しと未来を。

 ――夜を歩くすべての子どもたちへ。

 ――帝都月影高等学院・夜間特別課程支援事業。


 写真には、笑顔の生徒たちが映っている。


 義体の少女。

 作業着の少年。

 機械人形と並ぶ生徒。

 夜間部の教室。


 どれも綺麗に撮られていた。


 綺麗すぎるほどに。


「影山グループ」


 ルナは呟いた。


「知ってる?」


「ルルト様が調べていらっしゃいます」


「だろうな」


 リツは紙パックの珈琲を振った。中身はほとんど空らしく、軽い音がした。


「俺、それ」


「それ、とは」


「影山奨学生」


 ルナはリツを見た。


 リツはポスターを見上げている。


 その横顔は、いつもの軽い調子とは少し違った。


「学費支援、住居支援、義体検査、健康診断、進路相談。まあ色々ついてくる。俺みたいな〈ホーム〉寄りのやつには、ありがたい話だよ。昼働いて、夜学校に来て、それで卒業資格が取れる。住む場所も一応紹介してくれる。たまに食券も出る」


「よい制度なのではありませんか」


「そう。よい制度」


 リツは笑った。


 けれど、その笑いは少しだけ乾いていた。


「よい制度だから、文句言いにくいんだよ」


「文句」


「何で支援してくれるのか、とか。何で検査が多いのか、とか。何で影山基金の面談だけ、先生じゃなくて知らない大人が来るのか、とか。そういうの、気になってもさ」


「質問しないのですか」


「したことはあるよ」


「答えは?」


「将来支援に必要だから。健康状態の把握。適性に合った進路紹介。安全管理。全部、正しい答えだった」


「正しいのに、不安なのですか」


「正しい答えって、不安を消すためにある時と、不安を隠すためにある時がある」


 リツはそう言って、空になった紙パックを潰した。


「俺は、どっちかわからない」


 ルナはポスターを見た。


 笑顔の生徒たち。


 その中の一人が、リツに少し似ている気がした。


 いや、似ていない。


 写真の少年はもっと明るく、姿勢がよく、前を向いている。リツは、そんなふうには笑わない。けれど、写真に使われるなら、彼もあんな顔をさせられるのかもしれない。


「リツさんは、影山奨学生であることを嫌だと思っているのですか」


「嫌なら辞めればいいって言われる」


「辞められるのですか」


「たぶん。書類上は」


「書類上」


「実際には、辞めた後どうやって学費払うのか、どこに住むのか、仕事どうするのか、って話になる。支援ってさ、手を差し伸べてもらってるみたいに見えるけど、その手を離した後に落ちる場所が深すぎると、握り返すしかないんだよ」


 ルナは返事ができなかった。


 所有者。


 支援者。


 保護者。


 呼び方は違う。


 けれど、どれも似た場所にある気がした。


 誰かの手の中にいること。


 それが安全なのか、拘束なのか、外からはわからないこと。


「難しいです」


「だろ。夜間部は難しいんだよ」


「リツさんは、どうして笑っていられるのですか」


「笑ってないと、眠くなる」


「眠いのですか」


「いつも眠い」


「それは笑う理由になるのでしょうか」


「なる。寝たら負け」


「何にですか」


「人生?」


 リツは肩をすくめた。


 ルナは真剣に受け止めてしまい、しばらく考え込んだ。


 それを見て、リツが苦笑する。


「ごめん。今のは半分冗談」


「半分は本気なのですね」


「まあね」


 チャイムが鳴った。


 夜間部の低い鐘の音。


 リツは掲示板から離れた。


「行こう。今日の体験授業、遅れるとサエ先生が怖い」


「御門サエ先生は、怖い方なのですか」


「昼の先生としては怖い。夜の大人としては、まだマシ」


「評価基準が複雑です」


「夜間部ではよくある」


     *


 その頃、ルルトは学院の外にはいなかった。


 正確には、外から入って、中にいた。


 許可はない。


 ただし、堂々と侵入して捕まるような真似もしていない。


 昼の職員室でも、夜間部の受付でもなく、東棟の裏手にある古い資料保管室の前に立っていた。


 帝都月影高等学院は新しい校舎に見える。だが、施設の一部は旧研究機関時代の建物を改修して使っている。カミハラ区が研究学園区として整備される前、この丘陵地には女帝政府の下請け研究施設と、企業の共同実験棟があった。その名残が地下や東棟に残っている。


 ルルトは扉の前で、電子錠を見る。


 旧式。


 ただし、後から魔導認証を追加している。


 物理鍵、電子キー、魔導印、職員証の四重認証。


 普通の侵入者なら諦める。


 ルルトは諦めなかった。


 彼は懐から、細い金属片を取り出した。


 まず物理鍵を外す。


 次に電子キーへ古い端末を接続する。


 魔導印は、昨夜拾った校章を近づけた。黒い月の校章。夜間部のもの。認証が一瞬だけ迷う。その迷いの隙に、ルルトは自分の影を扉下へ滑り込ませた。


 影が内側の開錠レバーへ触れる。


 小さな音がした。


 扉が開く。


「学校の鍵は、だいたい生徒より素直だね」


 ルルトは中へ入った。


 資料保管室は暗かった。


 古い紙の匂い。


 湿気。


 使われなくなった端末の埃。


 壁際にはファイル棚が並び、中央には低い机がある。保管されているのは古い出席簿、支援記録、卒業者台帳、奨学金関連書類、義体メンテナンス履歴、身元保護制度の申請控え。


 もちろん、表向きに保管してよいものだけだ。


 本当に危険な記録は、もっと下か、もっと別の場所にある。


 だが、人間はすべてを完璧に隠せない。


 表の書類には、裏の輪郭が残る。


 ルルトは手袋をはめ、古い台帳を取り出した。


 影山グループ社会復帰支援基金。


 過去十年分。


 紙の記録と端末データが混在している。途中で管理システムが変わったのだろう。書式が三度変わっている。担当者も変わっている。学校法人、基金側、女帝政府生活支援局、医療法人、外部カウンセラー。関わる名前が多すぎる。


 多すぎる関係者は、責任の所在をぼかす。


 ルルトはまず、奨学生リストを見た。


 氏名。

 年齢。

 出身区。

 保護状況。

 家族構成。

 義体適性。

 魔導適性。

 心理支援。

 進路予定。


 普通の支援書類に見える。


 だが、欄外に小さな記号があった。


 S。

 M。

 Y。

 K。

 影。


 文字というより、チェックマークに近い。書類の正式項目ではない。手書きで、担当者が後から付け足したもの。


 ルルトは別の年度の台帳を開く。


 同じ記号。


 さらに別の年度。


 同じ。


「身元が不安定。家族関係が薄い。義体適性。魔導適性。影干渉適性」


 ルルトは静かに呟いた。


「なるほど。奨学金ではなく、網だ」


 支援は本物だ。


 金は出ている。食券も出ている。住居支援も、授業料減免も、医療補助もある。これで救われた生徒もいるだろう。夜間部が維持できているのも、影山基金の資金が大きい。


 だが、その支援の裏で選別が行われている。


 身元が不安定で、消えても追う者が少ない。

 家族関係が薄く、同意書を取りやすい。

 義体や魔導の適性があり、身体や記録を加工しやすい。

 影に干渉する反応を持つ。


 そして、卒業後の進路記録が消えている者がいる。


 完全に消えてはいない。


 進路先、影山関連企業。

 進路先、支援施設。

 進路先、未記載。

 進路先、個人情報保護のため非開示。

 進路先、転籍。

 進路先、記録統合済。


 記録統合済。


 ルルトはその言葉を見て、口元だけで笑った。


「便利な言葉だ。人間を消す時に、消したと言わなくて済む」


 背後で扉が開いた。


「あなたなら、ここへ来ると思っていました」


 御門サエが立っていた。


 夜間部の教師としての顔ではなく、管理責任者の顔だった。手には端末。おそらく、資料室の認証異常を追ってきたのだろう。


 ルルトは振り返った。


「鍵は開いていたよ」


「嘘ですね」


「嘘が下手だね、とは言わないのですか」


「あなたにそれを言うのは癪です」


「なるほど」


 サエは部屋へ入り、扉を閉めた。


 彼女の表情は固い。


「何を見ましたか」


「見られたくないものを、少し」


「それは、持ち出せません」


「持ち出す必要はない。覚えた」


「嫌な方ですね」


「よく言われます」


 サエは机の上の台帳を見た。


 影山基金の記録。


 そこにルルトの指が置かれている。


「影山奨学生の選別基準。普通の支援とは思えない項目が混じっている」


「知っています」


 サエは言った。


 その答えは早かった。


 ルルトは目を細める。


「認めるんだ」


「ここで知らないふりをしても、あなたは信じない」


「信じないね」


「私は、すべてを知っているわけではありません。ですが、影山基金が単なる善意で夜間部を支援しているわけではないことは知っています」


「では、なぜ受け取る?」


「必要だからです」


 サエの声が少し強くなった。


「夜間部は、綺麗な理念だけでは維持できません。授業料を払えない生徒がいます。住む場所のない生徒がいます。義体の調整をしなければ歩けない生徒がいます。戸籍が壊れている生徒がいます。家庭に戻せない生徒がいます。昼の学校に通えない生徒がいます」


「だから、影山の金を受け取る」


「はい」


「その結果、影山が生徒を選別していても?」


 サエは唇を噛んだ。


 教師らしくない表情だった。


 いや、むしろ教師だからこその表情かもしれない。


「止めようとしました」


「結果は?」


「基金が引くと言われました」


「引けばいい」


「あなたなら、綺麗な正義を言えるでしょうね。ここを閉じればいいと。でも、閉じた後、この子たちはどこへ行くんですか」


 ルルトは答えなかった。


 サエは続けた。


「〈ホーム〉へ戻る子もいるでしょう。暴力のある家へ戻る子もいる。違法労働へ戻る子もいる。義体メンテナンスを受けられず歩けなくなる子もいる。名前を変えて、また別の誰かに買われる子もいる。夜間部は完璧ではありません。むしろ、穴だらけです。けれど、穴だらけでも、ここにしか座れない子がいるんです」


「生徒を守るために、危ない金を受け取る」


「そうです」


「危ない金を受け取るから、生徒が危なくなる」


「そうです」


「矛盾している」


「知っています!」


 サエの声が、資料室の中に響いた。


 彼女自身が、その大きさに少し驚いたようだった。


 沈黙。


 古い空調の音だけが聞こえる。


 サエは息を整えた。


「知っています。毎日、知っています。掲示板に支援制度の紙を貼るたびに。奨学金申請に判を押すたびに。影山基金の面談室へ生徒を送るたびに。私は知っている。これは完全に安全ではないと。それでも、送らなければ、その子は明日の食費がないかもしれない」


 ルルトはサエを見た。


 人は正しい時に強くなるわけではない。


 間違っていることを知りながら、それでも選ばざるを得ない時の方が、よほど強く見えることがある。


 サエは、そういう強さを持っていた。


 そして、そういう弱さも。


「ボクは正義の味方じゃない」


 ルルトは静かに言った。


「だから、綺麗な答えは持っていないよ」


 サエは彼を見た。


「では、あなたは何をするのですか」


「誰が、何のために、この子たちの影を測っているのかを見る」


「見るだけですか」


「必要なら壊す」


「学校を?」


「学校ではないものを」


 サエは黙った。


 ルルトは台帳を閉じる。


「リツは影山奨学生だね」


「……はい」


「彼は知っている?」


「自分が支援対象であることは。選別対象であることは、知りません」


「ミオは?」


 サエの表情がわずかに変わった。


「ミオさんは、複雑です」


「影山姓?」


「今は名乗っていません」


「今は」


「これ以上は話せません」


「話さなくてもいい。調べる」


「あなたは、生徒に近づきすぎています」


「生徒の方から事件に近づいている」


「ルナさんもですか」


 ルルトの目が少しだけ細くなる。


 サエは続けた。


「彼女は、所有者未登録の機械人形です。夜間部の規定上、正式登録には保護責任者か所有者の記入が必要になります」


「ボクに署名しろと?」


「できれば」


「しない」


 即答だった。


 サエは眉を寄せる。


「彼女を危険な立場に置くつもりですか」


「署名すれば、彼女はボクのものになる」


「書類上の責任者です」


「この街では、書類上の責任者が所有者に変わるのは早い」


「ですが、空白のままでは」


「空白のままで、どこまで行けるかを見る」


「それは彼女のためですか。それとも、あなたの実験ですか」


 ルルトは少しだけ笑った。


「鋭いね」


「笑わないでください」


「半分は彼女のため。半分は、ボクが他人の所有者になる趣味を持っていないからだ」


「無責任です」


「そうだね」


 ルルトは台帳を棚に戻した。


「だから、ルナには自分で選ばせる」


「選ぶための知識も経験も、彼女にはまだ足りない」


「足りないから学校へ来ているんだろう?」


 サエは言葉を失った。


 ルルトは扉へ向かう。


「御門先生」


「何ですか」


「ボクは、この学校を閉じたいわけじゃない」


「では」


「影山がこの学校に落としている影を見たいだけだ。影が本体に従っているうちはいい。影が生徒の首を絞めるなら、切る」


「切れば、血が出ます」


「影を切っても血が出るなら、それはもう影ではない」


 ルルトは資料室を出た。


 サエは一人、古い台帳の匂いの中に残された。


     *


 体験授業の後、ルナは中庭にいた。


 夜間部の中庭は、昼とは違う。


 噴水は止まっている。芝生は黒く沈み、校舎の窓明かりが水面に細く映っている。昼の生徒たちが笑いながら通った場所に、夜の生徒たちが少し距離を空けて座っている。パンを食べる者。端末を見る者。仮眠を取る者。誰かに電話をする者。黙って空を見る者。


 ルナはベンチに座り、鉛筆で自分の名前を書いていた。


 ルナ。


 何度も。


 紙の端に、同じ二文字が並ぶ。


 最初より少しだけ線が柔らかくなっている。


「練習?」


 声をかけられた。


 ミオだった。


 黒に近い紺色の制服。肩で切り揃えた髪。相変わらず、影が濃い。けれど今夜の彼女は、前より少しだけ普通の少女に見えた。手には紙コップの温かい飲み物を持っている。


「はい。手書きの練習でございます」


「名前ばっかり」


「リツさんが、名前は自分で出すものだとおっしゃいました」


「リツ、たまにいいこと言うよね。普段は寝てるけど」


「眠いのは人生に負けないためだそうです」


「何それ」


 ミオは笑った。


 その笑い方は、昨日よりも少し自然だった。


 彼女はルナの隣に座った。


「ここ、いい?」


「はい」


 しばらく、二人は黙っていた。


 遠くで夜間部の生徒たちの声が聞こえる。


 昼の学校の賑やかさとは違う。夜の声は、少し低く、少し疲れていて、少しだけ優しい。


 ミオが先に口を開いた。


「昨日の、見たよね」


「昨日の、とは」


「黒板」


 ルナの指が止まった。


 本物はどこ?


 あの白い文字が、まだ頭の中に残っている。


「はい」


「怖かった?」


「怖かったです」


「正直だね」


「嘘をつく理由がありません」


「いいな」


 ミオは紙コップを両手で包んだ。


「わたしは、ずっと嘘ついてる」


「どのような嘘ですか」


「平気なふり」


 ミオは中庭の芝生を見た。


 足元に落ちた彼女の影が、わずかに揺れる。


「自分の影が勝手に動くって、普通じゃないでしょ」


「はい」


「そこは少し慰めてくれてもよくない?」


「申し訳ございません。ですが、普通ではないと思います」


 ミオは一瞬ぽかんとした後、声を出して笑った。


「ルナって、変」


「よく言われます」


「でも、そういうとこ、嫌じゃない」


 ミオは笑い終えると、表情を少しだけ落とした。


「小さい頃から、影がおかしかった。最初は、気のせいだと思ってた。夜、廊下で誰かが歩いてる気がして、見に行くと誰もいない。でも、床にわたしの影だけが残ってる。寝ている間に、影だけが部屋から出ていく。朝になると、知らない場所の匂いがする」


「誰かに話しましたか」


「話した」


「どうなりましたか」


「疲れてるんだって。魔導災害の後遺症かもしれないって。影恐怖症の一種だって。カウンセリングを受けた。検査も受けた。影山基金の人も来た」


 影山。


 ルナはその名前に反応した。


 ミオは気づいたように笑う。


「ルナも知ってるんだ」


「ルルト様が調べております」


「宵の明星が?」


「はい」


「そっか。じゃあ、もう隠せないかもね」


「ミオさんは、影山家の方なのですか」


 ルナはそう尋ねてから、少し遅れて失礼だったかもしれないと気づいた。


 だがミオは怒らなかった。


「たぶん」


「たぶん」


「わたしも、自分の家のこと、ちゃんと知らない。名字は今は違う。戸籍も何度か変わってる。夜間部に来てから、影山って名前が遠くから近づいてくる感じがする」


「近づいてくる」


「うん。わたしはそっちに行きたくないのに、影だけが先に行ってるみたいな」


 ミオの影が、芝生の上で少し伸びた。


 ルナはそれを見た。


 怖い。


 けれど、目を逸らさなかった。


「わたくしも」


 ルナは小さく言った。


「自分の中が壊れているかもしれません」


 ミオがルナを見る。


「壊れてる?」


「わたくしは、自分が何のために作られたのか知りません。記憶も欠けています。地図機能も壊れています。GPSも不安定です。感情が本物なのかも、判断できません」


「でも、今怖いんでしょ?」


「はい」


「じゃあ、本物じゃない?」


「怖さが、ですか」


「うん」


「作られた怖さかもしれません」


「作られてたら、怖くないの?」


 ルナは答えられなかった。


 ミオは紙コップに口をつけた。


「わたしも、自分の影が本物かどうかわからない。影が勝手に動くなら、それはわたしなのか、わたしじゃないのか。もし影が何かをしたら、それはわたしのせいなのか。誰にも言えなかった。言ったら、化け物だと思われるから」


「わたくしは、ミオさんを化け物だとは思いません」


「機械人形に言われると、ちょっと説得力ある」


「それは褒め言葉でしょうか」


「うん。たぶん」


 ミオは笑った。


「じゃあ、わたしたち、夜の学校向きだね」


 プロットの言葉だった。


 けれど、ここではただの軽口ではなかった。


 ルナはその言葉を胸の中に保存した。


 夜の学校向き。


 昼の子ではない。


 正規の登録欄にうまく収まらない。


 自分の影や、自分の中身が壊れているかもしれない。


 だからこそ、夜の学校に席がある。


「ミオさん」


「何?」


「また、お話ししてもよろしいでしょうか」


「うん。わたしも、ルナと話したい」


「ありがとうございます」


「でも、様は禁止」


「はい。ミオさん」


「それでよし」


 二人は並んで、中庭を見た。


 その足元に、ルナの影とミオの影が落ちている。


 ルナの影は、今夜は本人と同じ角度で座っていた。


 ミオの影は、ほんの少しだけ遅れて動いた。


 けれど、今はまだ、そこにいる。


 ミオの足元から完全に離れてはいない。


     *


 夜間部の授業が終わり、校舎の灯りが少しずつ落ち始めた頃、ルルトは再び資料保管室にいた。


 サエはもういない。


 正確には、いない時間を選んだ。


 彼女が見回りに出る時刻、警備員の巡回が東棟から西棟へ移る時刻、夜間部の事務端末が日次バックアップへ入る時刻。ルルトはそれを待っていた。


 古い出席簿。


 過去十年分。


 紙の台帳は重い。手書きの文字、印鑑、修正液、付箋、端末出力を貼りつけたページ。途中で様式が変わっている。夜間部の歴史そのもののような書類だった。


 ルルトは年度ごとにめくる。


 影山基金支援対象者。


 影山奨学生。


 影山姓一時付与。


 その言葉を見つけた時、彼の指が止まった。


「一時付与」


 声に出す。


 影山姓を持つ生徒たち。


 だが、家系図上の影山家ではない。


 保護上の仮名。

 身元秘匿措置。

 医療管理名。

 基金登録名。

 影山姓一時付与。


 理由はさまざまだ。


 家庭内暴力からの保護。

 魔導犯罪被害者の身元秘匿。

 義体治療のための仮登録。

 戸籍不明者の一時管理。

 機械人形の所有者不明個体に対する保護名。


 だが、ルルトはもう知っている。


 正しい理由があることと、正しく使われていることは別だ。


 ページを進める。


 影山ミオ、旧名非開示。

 影山リツ、支援登録名。現在名、月城リツ。

 影山ナオ、卒業後記録統合済。

 影山ユウ、進路非開示。

 影山カナ、転籍。

 影山――


 同じ名字が何度も現れる。


 影山。


 影山。


 影山。


 だが、その誰もが影山家の子どもではない。


 影山の名を一時的に与えられた者たち。


 名前を守るためか。


 名前を隠すためか。


 それとも、影山という“器”に入れるためか。


 ルルトはページをめくる手を止めない。


 そして、機械人形登録の古い欄で、それを見つけた。


 月影試作零号。


 種別、少女型機械人形。

 登録区分、夜間特別課程試験受入。

 所有者、未確定。

 保護責任者、影山基金。

 備考、影代用人格実験、初期適合不良。

 外見特徴、白色肌、淡色髪、青紫系人工眼。

 状態、廃棄予定。

 進路、記録消去。


 ルルトの手が、そこで止まった。


 資料の余白には、古い写真が貼られていたはずの跡がある。


 だが写真は剥がされている。


 剥がされた跡だけが、長方形に残っている。


 ルルトはその跡を見た。


 そこに写っていたものを、彼はまだ知らない。


 だが、記述だけで十分だった。


 白色肌。


 淡色髪。


 青紫系人工眼。


 少女型機械人形。


 月影試作零号。


 ルナと似すぎている。


 いや。


 似ている、で済ませるには、記録の位置が悪い。


「君は、どこから来たんだろうね」


 ルルトは呟いた。


 その声は、誰にも届かないはずだった。


 しかし、資料保管室の奥で、古い端末が一瞬だけ起動した。


 黒い画面に、白い文字が浮かぶ。


 深夜課程出席確認。


 過去登録個体照合中。


 月影試作零号――該当候補あり。


 現行名――ルナ。


 所有者――未登録。


 端末の光が消える。


 資料保管室は、再び暗闇に沈んだ。


 ルルトは振り返らなかった。


 けれど、その口元から笑みは消えていた。

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